視線の主
『強欲の男神の姿をした何か』から一部だけ離れた黒い靄は、細長く伸びて俺に迫る。
「うげぇ!」
意識せず口から漏れた短い悲鳴を上げ、じー様に視線で「出来るだけ逃げるから!」と伝えてリムスに踵を返し全力で逃げ回れと心話で伝える。
相変わらずリムスからの返事は聞こえないが、『是』と言われた気がした。
イヴが言うには、リムスは俺の命令は思考段階で通じる程には繋がりが深いらしい。
だが、俺には言葉としてリムスの意志は伝わらない。リムスにはかなり詳細に俺の意志が伝わっているみたいなんで、これはもうリムスが俺に詳しく伝えないようにしているとしか思えない。
通じるからいいけどさぁ。最近は霧状化しても『戦う? 我を使う?』とそわそわする剣と、俺の背後というか意識下で仲良くバチバチやりあっているらしいし、もうちょっと俺とも仲良くしても良くないか?
なんて、ちょっと拗ねてみたら、リムスと剣からの剣呑な気配がする。
訳すとこんな感じか?
『ふざけてんのか貴様、どこが仲良しなんだ。あああぁん?』
『全くだ、意味わかんねぇわ。拗ねてるくそ天馬は置いといて、俺はちゃんと語ってるっつーの』
みたいだなぁ、あはは。お前らもうちょっと穏やかに仲良くしろよ~。
なんて、のんびり思考しているには訳があるんだ。リムスと剣からは「アホな事考えてる状況じゃないだろうが、もっと真面目にやれ」と言われている気がひしひしとするが、現実逃避したのんびり方向に思考を持っていかないと、頭ん中が全部『怖い』と『ひえぇぇ』で満たされるからだよ!
身体は全力疾走で逃げてんだが、どんだけ離れても黒い靄は伸びて追いついてくるんだって。
めっちゃくちゃ早ぇえんだよ、伸びてくる速度が。
迫ってくる靄は細長く伸びた二本。まるで腕のように事ある毎に大きく広げ、抱き着くように俺を囲って二本の紐状になった靄を閉じようとする。
靄が横に広がれば上下に、縦に広がれば左右に逃げているが、本数が増えたら確実に捕まるのが簡単に想像できる。
俺を捕まえ損ねて靄の腕っつーか触手が交差する度に、文字にすると『スカッ』みたいな音と空気が振動して俺の髪を揺らしたり、素肌が出ている所を撫でていったりで鳥肌が収まる気配もない。
あとちょっとしたら、手と背中どころか全身から冷や汗が出そうなくらいには、焦っている自覚がある。
いつもはもうちょっと冷静になれるんだが、とにかくあれに捕まったら終わりだと何かが俺に警告してくる。
それは、同調している我が巫覡や巫女とイヴ、そして黒炎天の気配のようにも思えるし、ムリムスだったり、剣だったり、夢ですれ違ったあの青い少年の気配のような気もした。
後ろを見るなんて余裕もなく、我が巫覡と巫女の言う有利な力場だろう範囲内をリムスの全力で駆けさせる。しかし、こんなに全力で走らせていれば、あっという間にリムスの限界がきてしまう。
どうしようかと考えようとする今も、今度は右斜め上と左斜め下から『ぶぅん』という音と共に、大きくしなった靄の触手が俺に迫る。
このまま走り続けるのは無理だと判断し、剣を実体化させて切り付けてみた。
出来るだけ細かく切り刻んでみたが、靄っぽい見た目の通りバラバラとその場で広がり小さな黒い雲のようにうごうごと小刻みに揺れて漂うだけだった。
動きがキモチワルイ。
「うへぇ、気持ち悪い動きすんなぁ」
「まあ、切りつけておいて失礼な子ねぇ」
荒くなりかけた息を整えつつも、本音のもれた俺の耳に届いたのは低いが女性と分かる声だった。
けっこう近くから聞こえたので、身体が思いっきりビクっとしたぞ、おい!
勢いよく振り返ると、一面の緑があった。
いや、何言ってるんだと自分でも思ったが、本当に緑だった。
ものすごく長い髪をゆらし、濃い緑のヒラヒラとした衣をまとい空に浮いている女性が居る。その髪と衣が風にゆれて広がるもんだから、一面が緑!と思わせるんだな。
緩やかにおおきくうねる髪は足元まで伸びて風になびくように広がり、キラキラと輝く瞳と、それを縁取る睫毛や眉毛なんかも髪と同じ薄い緑。
炎の女神は大きなくっきりとした瞳をお持ちだが、視線は柔らかく包み込むように温かい。
だが、目の前の女性はちょっと細めの、肌との境界が曖昧な瞳で柔らかな印象なのに、こちらを見つめる瞳から放たれる視線は、ギラギラとした圧力を抱えてこちらに迫ってくる。
見た目と視線の感じが全然違うじゃん! 拘束の女神ってこんなお方だったんかい。
炎の女神はなんか安心感があったが、こっちは全然ない。つかにこにこしてんのが、更に怖い。
「考えていることも失礼な子ねぇ。エイディンカの気配が濃いのに、中身はサルアガッカにそっくりだわ。そのうえ、エイデアリーシェからの寵愛も普通の子とは桁ちがいね。面白いわ」
よくお分かりで。
うふふ、と笑うその姿は本当に面白そうだ。俺は面白くないけどなぁ。
「でも、その髪は本当に綺麗ね。今ここにはエイデアリーシェとエイディンカとの気配の濃い子ばかり。素敵だわ」
妙な圧力に動けない俺は、顎に手を添えて首を横に傾けて俺に向って嬉しそうに笑っている女神が、視線を横に向けじー様とじっ様の方を見て、ごくごく小さな声で吐き捨てるように続けたのを俺は聞いた。
「とげとげしいサルアガッカのお気に入りが居なければ、もっと素敵なのに」
消してこようかしら、と呟く横顔は声の感じとは違い柔らかい笑顔だ。しかし、じー様を貫きそうな視線は、俺を見ていた視線の気配と同じものだと分かる。
視線の感じから予想してはいたが、視線の主めっちゃ怖い。大量の汗を吸ったシャツが重く冷たく感じられて、さらに背筋がゾクゾクする。
どうすりゃいいのよ、俺。
と、じー様を睨むように見ていた拘束の女神が、ぐりっと首を戻して再び俺を見て笑う。
「なにもしなくて良いわ。愛しい方と一緒に、お前たちも愛でてあげましょう」
お断わりします。