大きな変化
百年近く灰色の空が一年の半分を占める天候が続いたグラキエス・ランケア帝国だが、先月から寒くはあるものの晴れの日が曇りの日を上回るようになった。
考えなくても、炎の女神が頻繁に父なる神に会いに来られるのと、我が巫覡のご機嫌が何時でも頂点に在るのが原因だろう。
父なる神は常に我が巫覡を認識しているものの、お傍に居られる事はないそうだ。反対に、炎の女神は用が無い限りほとんど巫女のお傍に居られるのだとか。
我が巫覡の執務の処理速度は今まででも充分に早かったのだが、少しでも早く・長く巫女と共に居るために異常なほど早くなった。
最初は身分や陛下の執務に遠慮していた巫女だが、我が巫覡がきっちり仕事を終わらせている事と俺とアラネオの努力により、今や我が巫覡がお傍に在る事を不自然と思っていないようだ。
努力と一言で済ませたけどな、大変だったんだよ。
まず、我が巫覡は自らの見た目に頓着しない。元々が整っているので、どんなにもさっとした格好でも俺たちの数倍はまともに見えてしまう。
奇跡の頭髪をお持ちで、ひどい寝癖すら手櫛で数回梳るとあら不思議、ぴっちり整えた髪型へと形を変えるのだ。
起床後に服をお持ちするため目を離すと、洗顔した後に水滴を拭うこともせずに自然乾燥させていたりする。毎日のように野生児のクアーケルとピスティアブですらちゃんと拭っているのですよ! とアラネオが何度も注意していたのは記憶に新しい。我が巫覡の代わりに、洗顔するだけマシなんだ、と何度アラネオに弁解したか。
制服の下の肌着の首元がよれよれだったり、裾が擦り切れていてもへっちゃら。なんなら、そのまま配下の大臣の前にも出て行ってしまうこともあった。
我が巫覡、ちょっとアレ…… うん、いいんだ。今はちゃんと洗顔後すぐに水滴を拭っているし髪だって朝晩梳るし、よれよれの肌着を身に着けてもいない。
我が巫覡……
そんな我が巫覡の意志改革をするべく、アラネオと二人掛かりで説得したのも懐かしい思い出だ。つい最近の事なんだが。なぜそんな事が必要なのか、と真剣に悩む我が巫覡を説得し続けた日々が、遠い過去の事に思える程に劇的な変化だからな。
なんてしみじみしつつ、お気に入りの場所から緑あふれる中庭を眺めていると、俺を呼ぶ声が聞こえる。
「おはようございます、イーサニテル様」
アラネオが笑顔で近寄ってきていた。今日は神殿長の元へ我が巫覡と巫女たちをお連れする予定で、我が巫覡が気になってアラネオ自ら迎えにきたのだろう。
「おはよう。早いな?」
「ええ。プリメトゥス陛下が気になりまして」
「大丈夫だったぞ。今日は黒の制服できっちりキメられていた」
「イーサニテル様がお手伝いなさったのですか?」
「いや。今月に入ってから、俺は何もしてないぞ」
「えぇっ! 陛下自らで、いろいろ整えられるようになったのですか?! アレな状態だった陛下が?」
ものすごい驚き様だ。
分かる気はするが、我が巫覡はやれば出来る方なんだよ。その気が全く無かっただけで。
「巫女殿の効果は抜群ですねぇ。あの陛下が、ご自分で…… 巫女殿の『美しい人』の枠とかいうご趣味はどうかと思ったりしましたが、素晴らしいと言わなくてはいけませんね」
「まあな。『巫女に残念と言われますよ』が、どんな言葉より効果があったもんな」
「そうですね。『巫女殿の笑顔は陛下のお姿にかかってるのです』なんて、情けない説得もしましたね」
「全部、本当の事だっていうのがなぁ」
「ええ。本当に巫女殿の笑顔は陛下のお姿にかかっていましたし、彼女の笑顔のおかげで陛下が人並みの身だしなみをなさるようになったのです。大いなる変化があって良しとしましょう」
「大きな変化といえば、国内の気候の変化も大きすぎるくらいに変わったよな」
「首都だけでなく、郊外や国境近くでもまだ初夏だというのに例年の夏真っ盛りと同じ気温になっているそうですよ。屋外の穀物畑では今までになく順調に作物が育っているし、生産施設では術具の稼働が少なくなっているそうです」
「我が巫覡が、巫女がお傍に居ると認識しただけの変化じゃないな」
「巫女殿を亡くしたと沈んでおられた時は陛下が毎日出来る限りの時間を取って祈っても、国民がギリギリ生活できる程度の気候変化ですもんね」
それも、数年かけて改善されたんだ。
「巫女がお傍で笑っているだけで、炎の女神もご機嫌になる。女神がご機嫌になれば、我らが父なる神もご機嫌だ。それで、我が巫覡が数年かけて持ち直した気候変化を、ふた月未満で帝国史上初と言っておかしくない程に向上させちまうんだもんなぁ」
「快晴でも澱んだ気配のあった皇宮が、今や曇天でも輝いていると評判ですよ」
「我が巫覡の表情が常に輝いているからな。皇宮の主の感情が影響してると言われると、そうかもしれないと思うよな」
「ええ、それに我が神殿も皇宮の次に輝いているらしいです。それはこの数十年間、神殿長の眉間に張り付いていた皺が消えたのが影響していると、ご本人が断言なさっていました」
「あー。そりゃ、じー様はご機嫌だろうよ」
特に心を砕いて育てた愛し子三人ともが父なる神と慈愛の女神の祝福を受けたのに、表面は取り繕っても誰もが心に重しを持っている。そんなのを見ていて辛かったろう。
それが、全員の重しがいっぺんに無くなって、我が巫覡は人が変わったように笑って拗ねるようになった。
我が巫覡の動かない表情と感情に対して一番心を痛めていたのは、間違いなくじー様だったと思う。
しかも、ゲマドロースの配下から助けられなかったと深く後悔していたフィダまで、炎の女神の愛し子たちと冗談を言い合い、声を出して笑っている。
俺の事はどうでもいいと言っているが、我が巫覡を見てほっこりしている俺を、じー様が後ろから見てニコニコ笑っているのを俺は知っている。
前々代・前代皇帝と密かに張り合い、奴らから愛し子を守りつつこの国をも護ってずっと気を張ってた、辛辣で腹黒で厳しくて情け深いじー様。
そんなじー様が、今はゆったりと笑えている。それって、世間では幸せって言うんだろう?
「じー様が本心から笑えているなら、我が巫覡に身だしなみを整えていただくための説得も、まあそんな苦労じゃなかったって言えるかもしれないな…… たぶん」
「ふふ、そうですねぇ。神殿長がお聞きになったら、顔を顰めて『巫覡に対してその口の利き方はなんだ。それも修行、苦労などと言ってはいかん』と仰るでしょうね」
そうだな。そんで、俺たちに背を向けたとたんニヤニヤ笑うんだよ、あのじー様は。