77頁目.悪と方法と軛と……
ボロボロになったセリスの顔を見て、ラミティカは呆れていた。
「そんな顔してここに来て、やろうとしていることが交渉? 確かにわたくしの瞳には嘘じゃないと映っているけど……」
「前に会った時……もう2年くらい前になるのかな。その時あんたがあたしにスターヴの倒し方を教えなかったのは、あたしとの交渉に失敗したからよ。まあ、それも当然よね。だって、あたし自身が運命を変えないことにはその交渉は完成しないんだもの」
「なるほど、つまりはその交渉のテーブルにつく気になったということかしら?」
「ええそうよ。ああ、だけどこれだけは先に言っておくわ。これはあんたが用意したテーブル。でも全てはそこにあたし側からつかないと始まらない。だからこの交渉の手綱を握ってるのはあたしの方よ。それだけは弁えてもらえるかしら」
「そんなボロボロでどの口が、と言いたいところだけど……。せっかく乗ってくれたんだもの。続きを聞かせてもらいましょうか」
セリスはノエルの羽根ペンを指差す。
「とりあえず、ノエルを自由にしてもらえるかしら。いちいち説明するのも時間の無駄だから」
「今のセリスが言うと言葉の重みも違うというものね。分かったわ、引っ張り出してあげる」
そう言って、ラミティカはノエルに触れて時間を動かした。
ノエルはしばらく状況を把握できていなかったが、やがて落ち着いたようで話に加わった。
「それで、どんな交渉をするつもりかしら?」
「こちらが提示するのはディーザの返還。でもそれにはフィンの力が必要不可欠よ。だから正確に伝えるとするならこうね。あたしは次のループでスターヴを倒して、フィンをここに連れてくる。それを約束することこそがこっちが切れる唯一のカードよ。そしてあんたにはそのためにスターヴの倒し方を教えてもらう」
「……それを信じて欲しい、ということかしら。あまりにあなたにとって有利すぎる交渉じゃなくて?」
「もちろん今のあんたには不利な条件ね。でも、次のループのあんたにとっては格好の条件のはずよ。あたしはあんたたちの関係性なんて知らないし知りたくもないけど、フィンを殺してあたしをここに呼ぶなんてまどろっこしいことをするくらいには、ディーザの存在が大きいってことでしょ?」
「それは……ええ、そうね。否定はできないわ。他にも方法はあったのだけど……」
すると、ノエルは何か疑問を覚えたのか、口を挟んできた。
『確かに、ディーザを取り戻すためにフィンを殺すくらいならセリスを脅すなり拷問する方がずっと簡単だ。いくら魔女見習いとはいえ、セリスは子供だからね。つまり……セリスは、この女がここまでしたことに理由がある、って言いたいのか?』
「ええ、これが本当だったら心の底から殺してやりたいくらい憎いけどね。前回会った時、あんたはあたしの選択を見届けたかったって言ってた。あんたはただ、あたしが苦しむ過程を見て楽しんでるだけなんじゃない?」
「他人の不幸は蜜の味……とはよく言ったものね? その顔、とてもわたくし好みだわ。まあ、思っていたよりは美味しくなかったみたいだけど」
『悪趣味を通り越して、むしろ良い趣味してるじゃないか。なるほど、ここまで清々しいほどの悪者は初めて見た。何かを成すために悪行を起こすのではなく、ただ他人の苦しみのために悪を成す純粋なる悪。それがラミティカという大災司の本質か』
「やっぱり憎くて仕方ない……けど、今の話を聞いてまさかの可能性を考えてしまったわ」
「あら、何かしら?」
セリスは言った。
「ここまで考えたうえでディーザをあたしに捕らえさせた……なんてことは言わないわよね?」
「いえ、流石にそこまでではないわ。シバちゃんとルインちゃんが裏切るなんて予想もしていなかったもの。まあ、おかげでこの作戦に至ったわけだけど」
「良かった。そこまで計算づくなんだったら、あたしは一生あんたに勝てないところだったから」
「さて、本題に戻ろうかしら。と言っても、あとはわたくしがそちらの提案に乗るかどうか、だけだったわね。もちろん切るカードはスターヴちゃんの倒し方よ」
『念のために聞いておくが、その倒し方はセリスあるいはその周囲にいる人間が可能な範疇のものなんだろうな?』
「慎重なのは大事なことね。でも、それを判断するのはわたくしではなくセリス自身よ。可能かどうかではなく、その情報自体が正しいかどうかを先に疑うべきじゃなくて?」
セリスは言った。
「もちろん、普通の交渉なら嘘がないかを疑うのは当然ね。でもこれはあたしがスターヴを倒せることによってこそ成り立つ交渉。あんたが嘘を伝える理由は一切ないはずよ」
『スターヴを売るような真似ができないっていうのなら別だがね。教団の母体となった孤児院の院長だったんだろう? スターヴちゃんなんて呼び方をするってことはそいつも孤児院出身なんだろうし、そこに愛があるのであれば理解できなくもない』
「つまり、わたくしにディーザ様とスターヴちゃんのどちらかを選べと……そう言いたいのかしら?」
「そう聞こえたならそう思うことね。でもこのテーブルを用意したのはあんたなんだから、文句はないと思うんだけど? ってことは、最初から結論は出てるんでしょ?」
「……ええ、わたくしはディーザ様を選ぶわ。そのためなら大事な子供たちであろうとも犠牲にする覚悟よ。だけど誤解しないでくれるかしら。わたくしはセリスたちがスターヴちゃんを殺したりしないってことを理解しているからこそ、この決断をしているの。あなたの憎しみの矛先はわたくしに向けてくれたみたいだし」
「そう、教えてくれるのね。でも、そっちこそ誤解しないでくれる? あたしはあんたと同じくらいスターヴを憎むし恨む。フィンを何百回も殺された痛みを味わってもらいたいくらい憎くてたまらない。だから殺しはしなくても、死と同じくらいの苦しみを味わわせるつもりよ」
ラミティカは本気の目をしたセリスから一瞬だけ目を逸らす。
そして、小さく溜息を吐いて言った。
「それくらいの覚悟はある……みたいね。それじゃ、教えましょう。スターヴの倒し方……正しくは、運餓魔法の打ち消し方を」
「打ち消す……ってことは、避けられないのは必然なのね。あれ? でもそれをどうにかしても本体を叩けないなら意味ないわよ?」
「スターヴちゃんのあの魔法は防御も兼ねているの。絶対必中の不運を呼ぶ魔法。魔力が尽きたとしても、魔導書からそれを発動することができる。だったら、可能な攻撃方法は1つだけ」
『魔法が使われる前に不意打ちの一撃で沈める、か? そんなもの、セリスがとっくに試しているだろう?』
「もちろん。でも、毎回変わるあいつの場所を特定するために魔眼を使ってるから、不意打ちで倒せるほどの魔力が残ってないのよ。手持ちで一番強い魔法が書かれた魔導書を使っても、一撃で倒せるほど生半可な相手じゃなかった。あいつの呪いを空間魔法で避けるのが精一杯で……」
「それに加えて、運命を変えられるのはセリスだけ。それはつまりこういうこと。運餓魔法を打ち消すのも、スターヴちゃんを倒すのも、全部セリスがやらなくちゃいけない」
セリスはラミティカに吠える。
「これのどこが倒し方よ! あたしがスターヴを不意打ちするにはフィンたちから目を逸らさせちゃいけないし、打ち消すためにはフィンの近くにあたしがいなきゃいけない。アタシに分身しろとでも言うつもり?」
「今のあなたならきっと攻略できるはずよ。だって、あなたの手はほとんど手札が揃っているんだから。あとは、運餓魔法の打ち消し方さえ手札に加われば完璧なはず」
「……今はそのことを信じるしかないもの。じゃあ、聞かせてもらおうかしら」
「ええ、運餓魔法を打ち消すためのたった1つの方法。それは――」
その続きの言葉は、継ぎ接ぎだらけのセリスの心に鋭い槍を突き刺した。
つまり、それがとどめだった。
「フィンを殺すことよ」
「…………え?」
ぴしぴしと、堪えていた傷口が崩れ始めるような感覚。
何百と続けてきたループの全てを否定されたような絶望。
理解できない言葉を穴の開いた心の中で繰り返し、セリスは尋ねる。
「どういう……いみ……?」
「言葉通りの意味よ。運餓魔法をかけられた人間。つまり、フィンを殺せば魔法の効果は打ち消される。運餓魔法というのは魂に不運という枷をかける力。枷を壊せないのなら、その魂ごと壊してしまえば良いというわけ」
『お前……! 今言ったことが何を意味するか分かっていて言ってるだろう! 運命を変えられるのはセリスだけ。ってことは、セリスにフィンを殺せと言っているようなものなんだぞ!?』
「あえて言葉にしなかったのに、酷い師匠だこと。でもこれが真実よ。わたくしが嘘をつく理由はないと熱心に伝えてくれたのはあなたなのだから、ノエル」
『ぐっ……。くそっ……!』
セリスはさらに混乱した脳をどうにか抑え、言葉を吐く。
「あたしが……フィンを…………ころす?」
「ええ」
「フィンを……しなせないために……いままで、がんばってきたのに……?」
「そうよ」
「フィンを、あたしのて……で……? どうして、そんな……そんなことをしなきゃいけないのよ……!!」
絶望に打ちひしがれるセリスを見ていたラミティカは満悦した表情で紅茶を啜る。
ただ、それを見て黙っていない女がいた。
『……おい、ラミティカ。そいつを置け』
「どうして? ようやくここまで味わい深いものになったのに」
『お前にはまだ説明していない矛盾が存在するだろう。そいつを話さないことにはこの話に決着がつかない。セリスを苦しませるためだけにその言葉を発したのなら、このペン先を脳天に突き刺してやる!』
「やっぱり、時間を固定したままの方が良かったかしら。それで、その矛盾って?」
『とぼけるのもいい加減にしろ。フィンを殺してしまえば、そのループでディーザを虚空魔法の亜空間から出すことはできない。つまり、フィンを殺したとしても生き返らせる方法があるってことだろう? それも、この固定された時間にフィンを連れてこれるくらい短時間で、ね』
「フィンを……生き返らせる?」
その言葉で、セリスはどうにか意識を取り戻す。
それを見たラミティカは、がっかりした表情でティーカップを置いた。
「全く、興冷めね。それに気づくまでの過程も楽しみにしていたのに」
『ふざけるな。これ以上アタシの弟子を傷つけることは許さないぞ』
「残念だけど、もう手札がないの。これが最後だったんだから。ええと、生き返らせる方法……というよりは現世に戻る方法、だったわね。でもそれはあなたたちも知っているはずよ。それに、実践もしていたはず」
『現世に……? あ、そうか! フィンを殺すというのは正しい表現じゃない。言葉としてはアレだが、フィンの魂を地獄へ送るというのが正しかったんだ! 大災司たちが持っている呪いの書を燃やせば、その所有者は本拠地のある地獄に戻ることができる。だが、フィンは呪いの書なんて持っていないだろう?』
「彼には腕に宿った強力な呪いの力があるでしょう? 腕を斬るだけだと宿った呪いはすぐに消えない。だから、魔導書と同じように腕を焼き切れば良いのよ。そうすればきっとフィンは地獄に足を踏み入れる。あとは、スターヴちゃんが倒されたのを確認したタイミングでわたくしが現世に戻してあげる」
『……だが、腕が焼ける痛みもあるだろうし、全身に火が回れば死に至る。呪いの書を燃やすよりもずっと痛みの伴う行為になるはずだ。そんなのを、セリスにやらせるのか』
ラミティカは頷く。
そして、言った。
「それを判断するのはこの子だもの。わたくしはただ教えて欲しいと言われたことを教えただけ。これ以外に言えることはないわ」
『まさか、これがスターヴの倒し方だと? 明らかに情報不足だろう』
「十分なはずよ。運餓魔法さえ突破できれば、スターヴちゃんは魔法使い見習い以下の実力だもの。まあ、あの子の剣技については頑張ってとしか言えないけどね。だって剣術への対抗策なんて魔法でどうにかする範疇でしょう?」
そう言った後、ラミティカは席を立つ。
そしてセリスを一瞥し、微笑みながら言った。
「セリス、あなたがスターヴちゃんを無事に倒せて、フィンと一緒にここへ来られることを祈っているわ」
「ラミ……ティカ……!」
ラミティカは時間を動かし、姿を消した。
それからしばらく、列車の中ではすすり泣きが響いた。
***
やがて泣き止んだセリスは、ノエルと話をした。
セリスの心は折れかけていたものの、次のループへと移る覚悟は消えていなかった。
次のループの限られた時間で何をすべきか、それをノエルに相談したものの、ノエルの言葉はこうだった。
『セリス、1度くらいは休む時間も必要なんじゃないか?』
あまりにボロボロになっているセリスを見兼ねて、ノエルはそう告げた。
しかし、セリスは首を振った。
「どれだけ辛くても、体力だけは初日に回復するもの。フィンが生きていられるなら、精神力なんて気にしちゃいられないわ。それに、その言葉を聞いたのも何度目か分からないくらい」
『セリス……。分かった、次のループでどうするべきかだったな? もしスターヴを倒すつもりなら、フィンを……』
「ええ、そのことも含めて全部フィン自身に相談してみるつもり。あたしにはフィンを殺すことなんて当然できないけど、それしかフィンを救う方法がないのなら……考えるしかないわ」
『そうだね。アタシも今はそれくらいしか言えることがない。力不足ですまないね』
「ううん、いてくれるだけで安心できるもの。ちゃんと力になってくれてるわ」
『……それじゃ、もう行くんだな』
周囲の魔力の流れを見て、ノエルはそう言った。
セリスは頷く。
「まずはフィンと話してみる。言葉にするのも嫌だけど、あの女の言うことを今は信じるしかないから」
***
***
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333回目の1日目。
ノーリスの宿で、セリスは目覚めた。
窓の外の空模様と部屋の様子で、それが間違いなくノーリスを出発する予定の日だと分かる。
セリスは急いで支度を終え、フィンの部屋へと駆け込んだ。
「……姉ちゃんが、俺を?」
全ての事情を伝えた後、セリスはラミティカに教わった運餓魔法の打ち消し方をフィンとノエルに伝えた。
『理には適っているな。死というのは運命の軛から解き放たれるのと同義だ。だが……』
「あたしは絶対にフィンを手にかけるなんてことはしたくない。でも、何百回と繰り返した結果で得られた回答がそれしかなくて……。だからどうするべきかを相談したいの」
「俺は……姉ちゃんにこれ以上傷ついて欲しくない。300回以上も俺が死ぬのを知って、それを止めるために同じ数だけ運命を変えようとして、それがうまくいかなかったからここにいるんだよね。俺が弱かったせいで……。だったら……」
「ううん、フィンのせいじゃない。あたしがもっと頑張れば他の答えもあったかもしれないもの。だから無理しないで良いのよ」
「無理をしてるのは姉ちゃんだろ! それに、俺はもう決めたから。俺、姉ちゃんに殺されるなら本望だ。大災司なんかに殺されるくらいなら、それを打倒するために姉ちゃんに殺された方がずっと有意義だ!」
「フィン……!?」
フィンがセリスを気遣って言葉をかけたことはこれまでもあったが、ここまで怒りのこもった声を聞いたのは、セリスの経験上初めてのことだった。
セリスは驚き、目を見開いたまま固まっている。
「俺の腕を、燃やし尽くせば良いんだよね。姉ちゃんの石の書にある火魔法なら、きっとできると思う」
「とても、痛いのよ? 熱いのよ?」
「どうしても耐えきれなかったら、盲の呪いで痛覚を遮断するから。結果論として死んだとしても、魂が地獄に行きさえすればこっちに戻ってこれるはず。シバから聞いた情報からしても、それだけは信用に値する現象のはずだから」
『い、いや、痛みを伴わないとしても、だな……』
「フィン……良いのね?」
『セ、セリス……!?』
「もちろんだよ。だけど全部ちゃんと計画を立ててから、だからね。例えば、俺を燃やした場所が俺の復帰地点になるわけだから、場所は事前に決めておく必要があるわけだし」
セリスは覚悟を決め、強く頷いた。
そして、出発予定時刻に間に合うように全ての作戦を立て、セリスたちは宿を発った。
***
300を超えるループの中で、セリスはいくつか運命についての知見を得ていた。
まず、セリスが同じ行動をとればどの運命であっても同じ結果が出るが、スターヴの位置は毎回変動するということ。
次に、フィンたちにループやスターヴのことを先に伝えたとしても、運命が変動することはないということ。
加えて、ループの移動を行えるようになるのはフィンが死んだ直後からであるということ。
最後に、フィンが最速で死ぬのはノーリスを出発した次の日の夕方であるということ。
これらを全て踏まえたうえで、セリスは予定通りにヘルフスに向かうことにした。
スターヴの襲撃日と場所、それを0回目と同じタイミングに合わせるために。
「あいつは必ず、4日後にノルベンの駅付近でフィンを襲う。そこでフィンの腕を焼き、どうにかあいつを探し出して奇襲する。もう作戦は立ててあるし、仕込みも十分。今回をフィンを救うためのループにしてやるんだから……!」




