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名付け鳥と森番の夜食、あるいは油の行き先

 名付け鳥になったその日も、彼女は夜食を作る。

 社交場は基本、立食で、お腹にたまらないのが欠点。

 美味しいお酒は飲めるのに、そこはやはり残念だと二人とも思っていた。


 もちろん、ちょっとしたつまみ物は出されるが、それも社交界での会話の消費カロリーとは見合っていない。

 特にこの日は復帰戦として、かなりの運動量だった。


 ということで


「ナポリタンの新作を作ってあげるわ」


 と彼女は太めパスタの乾麺を取り出しながら言った。


「ちょっと時間がかかるから、お酒の準備してて。冷蔵庫に景品でもらったハイボール缶があったはず。私も飲むから、テーブル席の準備よろしく」


 あなたの好みじゃないかもだけど、冷蔵庫のスペースを開けたいの。


 との言葉に頷いて、彼は冷蔵庫を開ける。

 確かにハイボールの缶が一つあった。


 リーズナブルな銘柄ではあるが、悪くはない。

 ただ薄味なのを濃度で誤魔化している節がある。


 少し考え、グラスを二つ取り出し、氷を入れる。

 ついでに冷凍されていた、くし切りレモンを追加して、テーブル席に持っていった。


 今日、胸に挿していた花を飾ろうとして、思い出す。

 そういえば実家での顔合わせの時、どさくさに紛れてくすねてきた花があった。

 もちろん、すでに枯れている。

 二階の住居スペースに飾って――いや、放置してある。


 いい加減あれも捨てよう。

 もう変化はないはずだ。


 そんなことを考えていると、彼女が「よいしょ」と言いながら、パスタを運んできた。


 パスタを運ぶ時のセリフじゃないな?

 と思っている彼の前に、それはドンと置かれた。


 じゅう。


 と湯気の向こうから音がした。


「……俺の知ってるナポリタンじゃない」

「鉄板ナポリタンは初めてだった?」


 やっぱり、少しズレているのかもしれない。

 自分か、彼女か、どちらかはわからないが、それどころではない。


 楕円型の鉄板の上に、赤いパスタの山があった。

 ウインナーに玉ねぎと、緑色のはピーマンだろうか。

 その下ではグツグツと溶き卵が、あぶくを作っている。


 彼の困惑をよそに、彼女が


「それ大盛りね。私も食べるから、少し卵を混ぜておいて。ああ、でも硬めも試してみたいなら、半分はそのままでもいいわ」


 と急かす。


 彼が言われた通りにしていると、自分の分の取り皿を持ってきた彼女が、向かいの席に座った。


 粉チーズを振ったあと、彼女が「まずはどうぞ」と促す。

 フォークで巻いて、少し息を吹きかけてから口に入れる。


 熱い。

 それでもモチモチとした麺と、シャキシャキとした野菜の食感がいい。

 溶き卵で緩和されてはいるが、ケチャップと油のせいで甘めだ。

 だが鉄板で焦げたところと、ピーマンの苦味が味を引き締めている。


 ハイボールを口に含む。

 ウイスキーの香りと、レモンの爽やかさが、口内の熱をシュワリと流す。


 無言で咀嚼し、嚥下する彼を見て、彼女が目を細めた。


「気に入ったみたいね」

「ああ、でも少し油っこいな」

「そういう時は鉄板を傾けるのよ」


 鉄板の台の片側に、畳んだおしぼりを噛ませて傾斜をつける。

 ジワジワと油が流れる。


「これ、客に出す時は説明したほうがいい」

「お、合格ライン突破したわね」

「別に反対したことはないだろ」


 お前の料理は全部、美味い、と続けられて、彼女が照れたように言う。


「でも鉄板が危ないとか言われそうだったから」

「まぁ、熱いし重いが、重いぶんテーブルの上で、ひっくり返ることはないだろう」


 彼が少し考えてから、付け加えた。


「運ぶ時は必ず両手で持ってくれ。できるだけ俺がやるが」


 自分の分のナポリタンを取ろうとしていた彼女の手が止まる。

 なんだと聞く前に彼女が「よかった」と息を吐く。


「あなたがちゃんと、お店に降りてきて」


 彼が怪訝そうに眉を顰める。


「これまでも降りてきてただろ」


 と言うと「そうね」と彼女は笑いつつ、皿にナポリタンを取り分けた。




 そういえば、と鉄板の上のものがなくなったあと、彼が聞いた。


「今日の名付け」

「さえずりの食卓?」

「ああ。宮沢賢治の本なんて読んでたか?」


 実家との顔合わせのあとには、後処理や治療や警察やらで、あまりにもいろいろなことがあった。


 いろいろあったが、どれも予想できていたことだった。

 だから予定どおり、口と手を動かしていればよかった。


 問題は、それが終わった後だった。


 二人とも、見事に燃え尽きた。


 暇だった。

 あまりにも暇だったが、やりたいことも、それをやる気力もなかった。


 行きたい場所も、聴きたい音楽も、観たい映画もない。


 かといって何もしないことにも、耐えられそうになかった。


 仕方なく、本を読んだ。


 床にまで溢れていた本を、少しずつ崩していった。


 積まれていた本は、その時にはもう、どちらの物か判別不能。

 読む時もそうだ。

 読んだ後も。

 購入した時の目的も、読むための動機も。


 栞を挟んだまま相手にパスした本もあれば、そのまま本棚に戻された本もある。

 二人のどろどろに混ざった興味と知識を覗き見るような、そんな時間だった。


 そんな状況でどこまで頭に入ったかはわからないが、少なくとも床は見えるようになった。


 だが、その山に宮沢賢治はなかった。


 喫茶店か共有本棚のどこかに、一冊くらいあったかもしれない。

 それでも彼の記憶にはなかった。


 彼女の目が泳いだ。

 ハイボールを口に含み、息を吐いて、遠くを見る。


 彼は呆れたように言った。


「それ、誤魔化せてないぞ」

「何がよ」

「読んでないな」

「読んだことはあるわよ」

「いつ」

「……学生時代」

「何を読んだ」

「……教科書に載ってたやつ」


 嘘は言ってないわよ。

 ちょっと記憶違いがあっただけよ。


 じゃあ、あれの元ネタはなんだ? と彼が追撃する。


「あれって何よ」

「見張り熊」

「あれは……可愛いでしょ?」

「可愛くない」

「実際には森番になったから、いいでしょ」

「ご婦人が受けたせいで、仕事が増えた」

「あれは、お許しが出たのよ」

「なんのだ」


 彼女が、ふっと真顔になる。

 そして声のトーンを落として言った。


「中毒の、ソフトランディング」


 彼は黙った。

 黙って、視線を落とす。

 鉄板の上は全てさらえたが、油だけが皿の端に残っている。


 これは食べ残しではない。

 けれど、このまま残していいものでもない。

 このメニューを客に出す前に、処理の方法を考えないといけない。


「食べてくれるんでしょう?」

「……何をだ」

「出したものを全部」

「全部、の範囲が広いな」

「必要なら」

「……必要なら、喰う」

「そう。じゃあ大丈夫」


 あなたはちゃんと、後始末も考えてくれるから、と彼女は笑った。

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