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休日 思い出せる形、あるいはソウルフード

 その人の皮膚の下には、水が流れているようだった。

 さらさらとしているようで、冷たく弾力があるように外からは見えた。


 彼はその人の緩く開かれた手の、その指先だけを握っている。


 私は迷う。

 彼は無言だ。


 どう呼んで良いのか、わからないそうだ。


 けれど何もしないという選択肢もない。


 結局、私も彼の手の上から、その人の手を握る。


 もちろん言葉も出てこない。


 そうやって二人で、ただポンプの音を聞いていた。




 病室を出た後、彼が行きたいところがある、というので付いていく。

 長い廊下を進み、突き当たりを曲がると、視界が開けた。


 そこも長い廊下だった。

 ただ壁一面がガラス張りで、陽の光が満ちると同時に、前方からそれは向かってきた。


 同じ廊下にいた子供たちが、歓声をあげる。

 松葉杖の子供も、点滴を引いた子供も、ワンピースの裾が広がった子供も、歩くと音が鳴る靴を履いた子供も、皆それを目で、足で追いかける。


 ガラス一枚隔てた先を、列車が通過していった。


 実際にはその高架と窓とは距離がある。

 それでも遠くにあった電車が近づくにつれ、速度が上がるように感じられるそれは、迫力があった。

 逆に少し遠くを走るローカル線は、ガタンゴトンと音が聞こえてきそうで、なんとなく身体が揺れる。


 病院は鉄道会社が運営しているらしい。


 病院の近くに線路があるということは、駅も近い。

 便利な反面、強化ガラスでも防げないものがある。

 騒音と振動。

 これだけ車両の行き来があるなら、全くの静寂を生み出すのは不可能だろう。


 だからその影響が大きい場所に、あえて人の往来を作る。


 そして患者や見舞客、子供達へ思い出を提供する。

 そういう機能がある廊下だった。


「昔はこれを見に来ていたんだ」


 と彼は言った。


「歳の離れた姉で、事故の後遺症で眠ったままだと聞かされていた」


 あの病室の主の顔を思い出す。

 やつれとむくみが混在する輪郭は、皺の存在を隠していたが、それを差し引いても、まだ若さの片鱗が残っていた。


「だから見舞いと言われても退屈で、あの人に興味もなかった」


 爺さんだけは、病室を抜け出しても咎めなかったな。

 むしろ付いてきた。


 と、彼は呆れたように続けた。


 彼の祖父とはもちろん会ったことはないが、その様子は想像できて、少しだけ笑ってしまった。


 彼がこちらを見る。


 怒ってはいない。

 ちょっと安心している様子。


 優しい人だな、と思った。


「お爺さんが亡くなった時に、教えてもらったんだっけ」


 私の確認に彼が、あれは口を滑らせたというやつだ、と言いながらも頷く。


「最近は戸籍もスマホと住基カードで、すぐに確認ができる」

「久しぶりの帰国で、一番、驚いたのはそれだったわ」

「でも知ろうとしなければアクセスできない」


 だから遅れた。

 と彼はガラス窓の向こうに視線を戻す。


 流線型のラインが、さっきとは逆方向へ走っていく。

 山から海方向へ。

 市外から中央へ。


「生母であること、自殺の可能性があること。それ以上を知ろうとした時には、人となりもわからなくなっていた」

「ピアノ奏者だったんでしょう?」

「海外活動も多かったみたいだ」

「才能があったのね」

「そのせいなのかは、わからないが、あまり学校へも行ってなかったらしい」


 遺書はともかく、日記も、作文も、活動のコメントもない。

 身内からの話も、全てピアノと五線譜の上で再生されていたと言う。


「動画が残ってて、よかったわね」


 動画の中の彼女は、少女の姿だった。

 目を閉じて、音だけに集中すると、手の左右の動きが途切れなく曲の中で繋がる。


 そんな奏者。


 彼は答えない。

 答えず、まだ外を見ている。


 その視線を追うと、病院から一番遠くを走る電車が目に入った。


「あ! あれ、可愛い」


 思わず、声が漏れた。


 赤いカラーに白いラインのレトロな電車。

 先頭車両には多面的な窓と、天井に展望台のような空間があるらしいことが見てとれた。


「復刻車両だな」

「あの上のところ、乗れるの?」

「あそこは運転席なんだ」

「それは意外」


 本来であれば運転席は先頭にある。

 その席が二階に設置されたことで、下のスペースに客の座席を用意することができた。


 つまり文字通り、一番前の席で旅を楽しむことができるらしい。


「爺さんは昔のあの車両の現役世代だったから、よく自慢された」


 本数も行ける場所も、今よりもずっと多かったそうだ。


 船で教わったことを、思い出す。

 電車も船もお客を乗せるなら、機能をデザインしないといけない。

 ただ速いだけでは足りない。

 移動の記憶ではなく、旅や思い出として残る形をしていないといけない。


 ドアノブを見た時に。

 お皿の柄を見た時に。

 時計の針を見た時に。

 ピアノの黒鍵を見た時に。

 写真の額縁を見た時に。


 その時に、思い出せる形をしていないといけない。


 電車が緩やかにカーブしつつ、山の方へ向かっていく。


 それを見送った後、私は廊下を見る。


 子供の一人がガラス窓に張り付いて、次に来た電車を指差し、近くの列車を目で追って、少し気分が悪そうにしていた。


 点滴を引いた子供が、その子の背中をさすっている。


 少し心配になったけど、すぐに次の電車を見て笑顔を浮かべているのを見て、安心した。

 兄弟のようにも、友達のようにも見える。


「よかった」

「ああ」


 彼もいつの間にか、そっちを見て頷いた。


「いい仕事だよな、ここ」


 と言った。




「昼はソウルフードにしないか?」


 病院を出た後、彼が提案する。


 場所は公園。

 かなり広い。


 池も噴水も、なぜか、おでん屋さんもある。


 その店で食べられるのかと思いきや、彼はその店の前は通り過ぎた。


「何味なの?」


 おでん屋さんではビールも飲めるらしい。

 彼女からしてみると、ちょっと、いやとても気になる店だ。


 だが彼は彼女の視線など気にせず続ける。


「魚介豚骨だな」


 そう言われると、もう何かは明白だ。


「ラーメンね」

「ソウルフードだ」


 被せるように言った後、さらに彼が続ける。


「ローカルでジャンクなのは認める」

「だけどソウルフード?」

「五目飯もソフトクリームもある」

「……もしかして先割れスプーンで食べるやつ?」

「よく知ってるな」


 公園を進む。

 噴水の横を通り過ぎ、新しくできたカフェの横の道を抜ける。


 その先にあったのは、店ではなかった。


 暗いシックな色調の建物。

 赤くはないがレンガ調だ。

 点字ブロックを辿っていくと、病院に似た、大きな入り口が待っている。


 古い建屋なのは、中の照明の色調でわかる。

 独特の静けさと、埃の匂い。


 図書館だった。


「こんなところにあるの?」


 ラーメン屋なんて、と言いそうになったのはこらえた。


 戸惑いを含んだ彼女の質問に、彼が無言で頷く。


 出入り口の横にある階段を降りる。


 地下はさらに古さが際立つ。

 白々しい白の壁沿いに進むと、眩く光る看板の隣で、ツインテールのキャラクターが死んだ目で二人を出迎えた。




 うみゃあ、うみゃあ、と店内で鳴き声がする。

 これも食べやぁ、と薄いチャーシューが丼を跨いでシェアされる。

 乳白色のスープに、半熟卵が浮かんでいた。


 そんな中、クツクツと彼が極めて珍しく肩を震わせる。


「それで食べる大人、初めて見た」


 彼女はそれを見て、というよりは睨んで、麺をすする。


 麺を掬う。

 スープが跳ねないように、麺を受ける。

 そして、スープを飲む。


 どれも一つとして同時にはできない。


 そんな欠点が、この先割れスプーンにはあった。


 いや、それすら正しくないかもしれない。

 スプーンの先が割れているのではなく、フォークの先端が生えているような、そんなカトラリー。


「これ、逆に難しいと思うんだけど」


 彼女が文句を言うと、彼が水で横隔膜を落ち着かせながら言う。


「それでも、新デザインになって、前よりも食べやすくなってる」

「なんだ。あなたも一回は試したことがあるのね」


 彼がこの先割れスプーンで麺をすすっているところを想像する。

 面白すぎる。

 自分が笑われるのは面白くないけれど。


「もう箸を使ってくれ」

「嫌よ」

「俺が食えないだろう」

「あなたの麺が伸びるまで、これで食べるわ」


 そんなことを話しながらも箸とスプーンが動く。

 もちろん口も動く。

 会話も続く。


「メンマ、もうちょっと噛まないとだめよ」

「噛んでる」

「それタケノコだからね」

「初めてそれを知った時は、衝撃的だった」

「最近、加工技術が発達して、食用じゃなかったやつも食べられるようになったのよ」

「すごいな」

「だから、噛んで」

「もう、飲み込んだ」

「最悪」


 結局その後、すぐに箸を使って食べた。

 プラスチックの箸は、それでも滑り止めがしっかりと麺をとらえ、驚くほど食べやすかった。


「美味しかった」


 彼女が何故か悔しそうに言った。

 ジャンクフードで味も濃いめ。

 けれど優しい味だった。


「そうか」


 まだ笑いを含んだ声で、彼が頷く。


 それを見て彼女が、ありがとう、と続けた。


 彼があまり噛まない時は、食欲がない時だ。

 空腹を感じていないわけではない。

 ただ欲と結びついてない。


 ということは、彼女に気を遣ったか、食べさせたかったのだろう。

 多分どこかで、腹の虫の音を聞かれていた。


「楽しかった」


 彼はもう一度、そうか、と言った。

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