4-2 麦わら帽子とヒーロー
シャツがべとついて気持ち悪い。電車内は冷房が効いていたためすっかり忘れていたが、うだるような暑さはあらゆる意欲を減退させる。
大通りを渡った直後、俊平がたまらず自販機でレモンウォーターを二本買って、一本をちえりに渡していた。男子女子で飲もうということだろう。俊平は、半分ほど飲むと萌に寄越した。もちろん、ありがたく頂戴した。
「敵のところに辿り着く前に、暑さで死亡……。洒落にならん」
「同感ね……。今日はしんどいわ」
昼下がりの太陽が、東京砂漠を容赦なく焦がしていく。アスファルトには陽炎が漂っており、天然のサウナのようだ。ラヴィの黒い日傘が心底羨ましい。
「ラヴィ」
萌が汗を拭った。
「サポート、かなり頼りにしてる」
「んむ、泥船に乗ったつもりで任せろ」
「沈むよ、それ……」
「流石は狸ね」
ちえりも追随した。
ラヴィはレモンウォーターを一気に飲み干してから言った。
「おぅ、何を仰る、兎さん」
萌は手でぱたぱたと扇ぐことで否定の意を示した。
「何かこう……、『会心のネタが決まった!』っていう表情が、無性に腹立たしいね」
「全くだ。可愛けりゃ何やっても許されると思ったら大間違いだぜ」
「んむ、ならばどうする?」
「好きになるぞ、俺が」
「うっ……」
ラヴィはたじろいだ。
「そ、それは捨て身の技だな。分かった、潔く負けを認めよう」
「フッ、他愛もない……」
萌はちえりに耳打ちした。
「勝ち得たもの以上に、何か大切なものを喪った気がするね……」
「いいのよ、百万石って旅が好きだから……。手ぶらの方が動きやすいんでしょ、きっと」
ツッコミもどこか精彩を欠いている。みな、頭が茹だっているらしい。
ペットボトルをゴミ箱に捨てた一行は、黙々とマハ・ラッカの元に向かって歩き出した。
隅田川は、海からの磯の香りを運んでいた。
川沿いの舗装道路には、波をイメージしたような曲線のタイルが敷き詰められており、それと並走するような形で高架上を高速道路が走っている。地図によると、葛飾区に入るまでずっと隅田川沿いを走っているらしい。
また、川沿いの歩道は一度階段を上り下りしないと通行できないつくりになっており、その構造上、外からは見えづらく、死角となっていた。
「遅かったわね」
ベンチに座っていたマハ・ラッカは、加賀邸で見せた人間の格好で四人を出迎えた。今回は、黒の袖無しタートルネックに、ところどころ色落ちした黒ズボンを履いている。
頭には、大きな麦藁帽子を被っていた。流石の大妖怪も、日差しには弱かったらしい。
「案外時間が掛かったのね。待ちくたびれちゃったわよ、あたし?」
「そりゃ駅に言ってくれ」
俊平が苛々した様子で返事をした。
「暑かったんだよ」
「だらしないわねぇ。ここまでせいぜい二百メートルぐらいでしょ」
「うるせえ。大妖怪だったら、お天気雨ぐらい降らせろ」
「狐の嫁入りってわけ? なるほど、考えとくわ」
マハ・ラッカは楽しそうに笑うと、華麗に麦藁帽子を脱ぎ捨てた。ラヴィも日傘を畳んで壁に立てかける。
萌も、ショルダーバッグからこけしを取り出すと、力強く握り締めた。
「コーチ剣!」
勢いよく紫色の曲刀が出現する。腹の前で構え、一歩、また一歩と、じりじりと近付いていく。対するマハ・ラッカは、腕組みをしたまま微動だにしない。
「どうぞ、どっからでもかかってらっしゃいな。童顔の坊や」
マハ・ラッカは艶めかしく舌なめずりをするが、萌は気にせず集中する。
「萌!」
突然ラヴィの声がした。
「危ない!」
その瞬間、大きな麦藁帽子が舞い上がって萌の視界を塞ぐ。
「なっ!?」
払い除けようとするが、麦藁帽子の下半分がぐにゃりと崩れ、粘土状になって萌の口にまとわりついてきた。
な、何だこれ!
うっかり口を開けたため、口内に入り込んでくる。パニックに陥り、思わずこけしを取り落としてしまう。
マハ・ラッカの嘲弄が耳に入ってきた。
「甘ちゃんねぇ。何の対策もなしに私が待機してたとでも思ってるの?」
帽子の膨らんだ部分のおかげで、辛うじて鼻呼吸は出来るが、口の中が強烈な違和感でいっぱいだ。非常に大きな輪ゴムを口に含んだ感じとでもいうのだろうか。引き剥がそうとするが、がっちりと顎を包みこんでいて剥がせない。
喉が激しく噎せる。立っていられなくて、たまらず膝をつく。
下からでは剥がしづらいので、上を折り曲げる事にした。なんとか帽子の鍔を折り曲げると、悠然と接近してくるマハ・ラッカの足が目に入る。
「萌!」
ラヴィがマハ・ラッカに飛び掛かるが、あっさりと蹴り飛ばされ、地面に転がされた。
「くそっ!」
すかさず、俊平が萌とマハ・ラッカの間に立つ。
「やい、乳お化け! ここから先は……!」
「うっさい」
マハ・ラッカの一蹴りで、「へぶぉっ?」と言いながら、俊平もいとも容易く地面に転がされてしまった。
まっ、まずい……。このままだと、負ける……。
「岩崎君、剣を拾って!」
ちえりの鋭い声が聞こえた。
「それで、あたしの言った場所に振るのよ!」
伊藤さん……!
萌は慌てて地面を探った。麦藁帽子の鍔から手を離したため、視界は再び遮られたが、何とかこけしを掴むと、立ち上がりざま手探りでこけしの上下を確認する。
「正面よ! 横に払って!」
言われた通り、大きく横に薙ぐ萌。マハ・ラッカの舌打ちが聞こえる。
「一歩踏み出して、もう一度横払いよ!」
萌はその通りに実行する。今度は、明らかに空気とは違う手応えがあった。辺りに焦げ臭い匂いが充満する。
「ちぃっ、小賢しい!」
マハ・ラッカの駆け出す靴音が響いた。
しまった、俊敏に動かれたら捉えきれない!
萌は左手を外して帽子の鍔を折り曲げ、辺りを見回す。
「――っ!」
その直後、萌は声にならない叫びを上げた。
なんとマハ・ラッカは、ちえりの口を押さえていたのである。じたばたと必死に抵抗しているが、力の差は歴然だ。マハ・ラッカの腕の中で、ちえりはぐったりとする。
くそっ!
萌は大振りをするが、片手で帽子を押さえていては腰が入らない。マハ・ラッカは服の一部を千切ってちえりの口を塞ぐと、易々と萌の攻撃をかわした。
「そんなへっぴり腰じゃあ、あたしを捕まえるなんて到底無理ね」
あっさりと右手首を掴まれた。そのまま捻じ上げられ、またしてもこけしを取り落とす。
「よくも爆発させてくれたわねぇ。おかげで、自慢の毛並みが台無しよ? 残念賞は、『せめて苦しむことなくあの世へ送ってあげるで賞』ってところね」
「……!」
萌は口の輪ゴムを噛み締めた。気持ちは折れていない。しかし、実力差は如何ともしがたい。
な、何とかしなくちゃ……。
萌の瞳が大きく見開かれた。ラヴィは打ち所が悪かったのか、まだ起き上がらない。
マハ・ラッカは有利になると語り出す癖があるのか、延々と喋っている。
――ラヴィが起きたら、きっと剣を取り返してくれる。そうしたら同時に攻撃だ。
萌がそう計算したとき。
「待てぇい!」
辺りに朗々と響き渡る、精悍な男の声がした。
――え?
あまりの光景に、萌は自分の目が信じられなかった。 その人物は、白地に「一期一会」と書かれたTシャツを着て、色褪せたジーンズを履いていた。頭には白いバンダナを巻いている。
身長は185はあるだろう。二の腕からは引き締まった筋肉が顔を覗かせていた。
に……兄さん!?




