第1話:カマクラの海と、ぼっち令嬢と、謎の『先生』
あのお方の本名? 言いませんわよ、絶対に。
世間体を気にして伏せているわけじゃなくて、私にとっては最初から最後まで『先生』以外の何者でもないからですわ。あの人の記憶を思い出すたびに、私の口からは条件反射で「先生!」と転がり出てしまいますの。
ペンを執って手記を書いている今だって同じです。よそよそしい公爵家の爵位だの、イニシャルだの、そんな冷たい文字で呼ぶ気にはとてもなれませんわ!
あれは、私が王立学園での破滅フラグを必死にへし折っていた頃のこと――。
悪友の令嬢から『海に行きましょ! 絶対来て!』という魔導手紙が届いたのがすべての始まりでした。
「ええい、破滅回避のご褒美よ!」と、貧乏男爵令嬢の私はなけなしのお小遣いを工面(二、三日かかりましたわ!)して、意気揚々と帝国の保養地カマクラへ乗り込んだのです。
ところが!
着いて三日も経たないうちに、私を呼び出した当の友人に領地から緊急通信が着弾いたしました。
『ハハキトク、スグカエレ』――電報にはそう書いてありましたが、友人は鼻で笑って信じちゃいませんでしたわ。
そりゃそうです! 彼女、領地の両親から「気乗りしないクソ政略結婚」を強要されていて、それを嫌がって夏休みに実家に帰らず、王都近くの海でサボり散らかしていたんですから!
「ねえ、どうしよう?」と相談されましたけれど、私にだってどうしようもありませんわよ。本当に母上が病気だったら一生の後悔ですしね。
結局、友人はギャーギャー喚きながら領地へ強制送還。
……ええ、残された私は、見事な【完全ぼっち】になりましたわ。
普通なら泣く泣く帰るところですが、新学期まではまだまだ日数があります。
友人は西方領の大富豪の娘で金貨ジャブジャブ系でしたが、所詮は同じ学園に通う学生同士。普段の生活水準は私と大して変わりません。
つまり! 彼女がいなくなったからといって、わざわざ高い高級ホテルに移る必要なんてナシ!
「よろしいですわ、このままこの安宿に居座ってやります!」と腹を括ったのです。
もっとも、その宿はカマクラの中でも超がつくほどのド田舎・辺鄙エリアにありました。
王都で大流行中のハイカラな冷菓だの魔導球戯(玉突き)だのを楽しもうと思ったら、あぜ道を延々と歩かなきゃいけませんし、辻馬車なんて呼んだら銀貨二十枚もぼったくられますのよ!? 貧乏令嬢を舐めるんじゃありませんわ!
まあでも、海までは徒歩数十秒。水浴びするには最高のリッチ立地ですこと!
それからの私は、毎日欠かさず海へ繰り出しましたわ。
燻製小屋みたいなボロい藁葺き屋根の間をすり抜けて浜辺に出ると――まあ凄いこと!
「ここ、王都の人間が全員移住してきたの!?」と目を疑うほど、避暑に来た貴族や平民で砂浜が埋め尽くされているんですもの!
日によっては、海の中がまるで【芋洗い大浴場】状態! 見渡す限り人の頭、頭、頭!
でも、学園で「悪役令嬢だ」と後ろ指を指されていた私にとって、知り合いが一人もいないこの雑踏はむしろ天国でしたわ。
砂浜に大の字で寝っ転がってみたり、寄せる波に膝を打たせてバッシャバッシャ跳ね回ったり……あーっ、最高に楽しいですわーっ!!
――そして、です。
私はまさに、このイモ洗い状態のビーチのど真ん中で、あの人を見つけてしまったのです。
海岸には、よしず張りの粗末な『海の家(共同更衣所)』が二軒並んでおりました。
超ド級の別荘をお持ちのセレブ上級貴族様と違って、専属の更衣室も侍女もいない庶民派の避暑客には、こういう海の家が命綱なんですの。
みんなここで麦茶を飲んでひと息つき、しょっぱい身体を井戸水で洗い流し、水着を洗ったり日傘を預けたりするわけです。
安物の水着しか持っていない私だって、荷物を盗まれたら一大事ですからね。海に入る時は、その茶屋に手荷物一切をポイッと脱ぎ捨てて預けるのがお決まりでした。
そんな、汗と潮風と人々の嬌声がごちゃ混ぜになった、どこにでもある大衆的な海の家で――
場違いなほど冷ややかで、息を呑むほど美しく、そしてこの世のすべてを拒絶するような影をまとった【先生】を、私は見逃さなかったのですわ!
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