36.幸子、踏み出す一歩
「長屋を一棟、まるごと買いたいの。施設の近くにある空き家を、母子で住み込みながら働ける場所にしたいのよ」
男の眉がぴくりと動いた。ようやく、少しは興味を示したらしい。
「それを俺に許可してほしいと?」
「そう。正確には……あなたの資産管理上、一応通しておいた方がいいと思って」
──お金、好きに使っていいって言ってたわよね?
口には出さない。けれど、心の中ではそう思っている。
どうせ冷たい言葉が返ってくる。けれど、それでも構わない。私はもう、決めたのだから。
沈黙ののち、男は視線を逸らし、大きく息を吐いた。
「……で、いくら足りないんだ?」
「……え?」
意外な返答に、思わず気の抜けた声が漏れる。
男は鋭い青の瞳で一瞥し、呆れたように言った。
「金が足りないから、ねだりに来たのだろう?
いくら足りないんだ……まさか、お前に与えた予算をもう使い切ったのか?」
「……いえ。予算ならまだあるわ。もともと多めにもらっていたし、最近は子どもたちのもの以外、ほとんど使ってなかったから」
そう、この男がかつてミレイに言った言葉。
『金なら好きに使って、贅沢したっていい』
嘘ではなかった。
産後に落ち着いてから予算を確認したとき、その額の大きさに思わず絶句した。
私がミレイになる前──本来のミレイは着物やアクセサリーを買い漁り、旅行にも頻繁に出かけていたらしい。
それでも余るほどの金額が、毎月きっちり振り込まれていた。
そして私がミレイになってからは、ほとんど手をつけずに貯まっていた。
長屋を一棟買うとなれば、確かに大きな出費だ。
けれど、それをまかなえるだけの金が、ミレイの手元にはすでにある。
「お金なら、これまでいただいた分で十分足りるわ。ただ、大きな買い物だから──」
「与えた金で買うなら、問題ない。
あれはお前にやった金だ。好きに使え」
……そう。まあ、一応は確認しておきたかっただけ。
「長屋を建て直すとなると、業者に費用の見積もりを頼むことになるけど……事前に確認、いる?」
「……いや、興味ない」
ふーん。やっぱりね。
「じゃあ、以上です。ご報告まで」
くるりと踵を返し、足早に部屋を出ようとする。
その背に、男の無機質な声が飛んできた。
「“住み込みで働ける場所”と言ったな?
ただ住む場所を与えるだけでなく、仕事も用意するつもりか?」
足を止めて、振り返る。
「ええ。ただ与えるだけじゃ、自立にはならないわ。
私は“恵む”つもりはない。“これから”を共に掴めるよう、背中を押したいだけよ」
はっきりとそう伝えて、またドアの方へ向かう。
背後から、再び声が響いた。
「無駄なことはするなよ。世間は綺麗事では動かない」
今度は、もう足を止めなかった。言い返すこともしなかった。
ただ、心の中で静かに、つぶやく。
──それでも私はやる。
あなたと違って、“誰かのため”を諦めたくないから。
ドアを閉めたあと、私はほんの少しだけ、口元を緩めた。
大丈夫。ちゃんと、言えた。
そして、きっと、始められる。
やっと、自分の足で踏み出す一歩を。




