37.幸子、この世界で生きていく
──数ヶ月におよぶ工事を経て、ようやく長屋が完成した。
私はひとり、その中をゆっくりと歩いていた。
子どもたちの背丈に合わせて、低めに取りつけた階段の手すり。
つまずかないよう段差を極力なくし、備え付けの家具の角はすべて丸くしてもらった。
ここは共有のキッチンエリア。
みんなで料理がしやすいよう、カウンターキッチンには充実した設備を整えた。料理をしながら子どもたちの姿が見えるようにと、目の前には広々としたダイニングエリア。その奥には中庭へとつながる大きな窓がある。
そのとき、長屋の外から子どもの声が聞こえた。
玄関を出ると、こちらへ駆けてくるサチコちゃんの姿が見えた。
「お母さん! 早くー!」
「サチコ、走っちゃだめよ」
マドカさんがそっと手を引き、その隣には荷物を抱えたヤヨイさんの姿もあった。
「あっ、ミレイお姉ちゃん!」
「こんにちは、サチコちゃん」
サチコちゃんと挨拶を交わしたあと、私はマドカさんに微笑みかける。
「おかえりなさい、マドカさん」
「……はいっ! やっと、来れました……」
産後の疲れがまだ顔に残ってはいるものの、その表情には柔らかな安堵がにじんでいた。
長屋に一歩足を踏み入れたサチコちゃんが、「……わぁ!」と声を上げる。
一方でマドカさんは、しばらく言葉もなく、ゆっくりと周囲を見回していた。
そこに広がるのは、温もりに満ちた空間。
中庭には手作りのすべり台とブランコ。雨除けのテラスには絵本や積み木、奥には子ども用のキッチンスペースまである。
「……ここ、本当に、住んでいいんですか?」
マドカさんが、部屋の前でぽつりとつぶやいた。
そのあまりにも震えた声に、私は思わず頷く。
マドカさんの瞳に、涙の光がにじんだ。
サチコちゃんはブランコへと駆け寄り、「ママ、これ乗っていい?」と満面の笑みを見せる。
マドカさんが私に視線を向けた。
「うん、もちろん!」
「サチコ、気をつけてね」
そう言って、マドカさんはサチコちゃんをブランコに抱き上げ、優しく背中を押してやる。
私はふたりの姿を見守りながら、ヤヨイさんに声をかけた。
「双子ちゃんたちも、もうすぐ退院できるんだよね?」
「はい、あと一週間ほどで。
……マドカさん、とても不安そうだったんです。双子たちとサチコちゃんを一人で育てられるのかって……でも、あの笑顔を見て、私も安心しました」
ヤヨイさんの視線の先には、笑い声を上げるサチコちゃんと、それに応じて笑うマドカさんの姿がある。もう、かつてのような陰りは見えなかった。
「……うん。ここは一人で子どもを育てる場所じゃないから。
困ったときには、助け合える仲間がいる。もちろん、私たちも一緒に」
サチコちゃんの笑い声が風に乗って中庭に響く。ブランコの鎖が、きい、きいと優しく揺れ、マドカさんの手のひらがその動きをそっと支えていた。
私はヤヨイさんと目を合わせ、小さく頷く。
──これでいい。いや、これがいいんだ。
「荷物、運ぶわね」
「ありがとうございます……! 本当に助かります」
マドカさんが深々と頭を下げ、私たちは一緒に玄関へと向かった。段ボールの中には、小さな赤ちゃん服やぬいぐるみ、そしてサチコちゃんが描いたクレヨンの絵。どれも大切に包まれていた。
「……サチコちゃん、お姉ちゃんになったんだね」
そう声をかけると、サチコちゃんは得意げに笑い、マドカさんは穏やかに微笑んで、小さく頷いた。
「ええ。この子なりにがんばってくれていて……
夜、私のお腹に耳を当てて『赤ちゃん、まだー?』って……ずっと楽しみにしてたんです」
思い出すように、もう小さくなったお腹にそっと手を当てたその声には、涙がほんの少し混じっていた。私の胸にも、じんわりと温かなものが広がる。
荷物を運び終えると、マドカさんは深呼吸をして、静かにその場に立ちすくんだ。
「……なんだか、夢みたいです」
「夢じゃないですよ。これからが、始まりです」
そう告げると、マドカさんの瞳がまた、そっと潤んだ。
「……この場所で、ちゃんと生きていきたい。ここなら……私、がんばれそう。ちゃんと働いて、子どもたちを育てていける気がします」
その声には、迷いのない決意が宿っていた。
「ここは、“やり直し”の場所じゃない。
“これから”のための場所。だから、一緒に前に進もう」
「……はい」
そのとき、サチコちゃんの声が響いた。
「ママ! この赤ちゃんたちのベッドかわいいね! 早く連れてきたい!」
私たちは顔を見合わせ、思わず笑った。
そばに置かれた空っぽのベビーベッドが、もうすぐこの場所に新たな命が加わることを静かに告げていた。
そして私は、心の中で強く誓った。
──どんなに小さな命でも、誰かの助けを必要としているなら、私は手を差し伸べ続けたい。この長屋で、そのための居場所を守っていこう、と。
真新しい木の匂いがする長屋に、サチコちゃんの
笑い声が、ふわりと響いた。
それは、まるで新しい生活の幕開けを告げる合図のようだった。
私は静かに空を見上げた。
マナミとシンイチロウくん、ユリカちゃん。
それと、ここの仲間たちと一緒に私は
──この世界で生きていく。
あの日、ドアを閉めて一歩を踏み出したときと同じように、心に確かな手応えを感じていた。




