26.幸子、名前を聞いて立ち止まる
「……清掃は行き届いてるのね。でも、かなり老朽化してるわね」
率直な感想を口にすると、ヤヨイさんは苦笑を浮かべた。
「はい……なんとか掃除や修繕は手分けして続けているんですが、やはり限界があって。
予算も人手も、どうしても足りなくて……」
その言葉に、私はふと天井を見上げる。
この場所で、子どもたちが毎日を過ごしているのかと思うと──胸が締めつけられた。
「危ない箇所は事前にチェックして、何かあればすぐ対応するようにはしています。
でも、正直……いつどこが壊れてもおかしくない状態です」
私は静かに頷きながら思った。
この建物は、ただ古いだけじゃない。
「それでも守りたい」と思った人たちの手で、必死につなぎとめられてきた──そんな場所なんだ。
軋む廊下を、私はヤヨイさんの後ろについて歩く。
やがて、大きな扉の前で彼女が立ち止まり、口を開いた。
「ここが一番広い部屋です。多くの利用者はここで過ごしています」
私は扉をまっすぐに見つめ、静かに頷いた。
「じゃあ、ここからは──私のこと、“ミレイさん”でお願いね?」
人差し指を口の前に立て、声をひそめて笑うと、
ヤヨイさんは「はいっ!」と明るく応えてくれた。
ここから先、私は“五条家の夫人”ではない。
五条家の一使用人であり、一利用者の──ミレイだ。
『おそらく、五条家の奥様が来るとなると、皆さんが緊張してしまうと思います』
──というヤヨイさんの助言を受け、施設の人たちには私の身分を伏せることにしたのだ。
「さあ、行きましょう、ヤヨイさん」
「──では、開けます」
その声とともに、目の前の扉が音を立てて開かれた。
扉が開いた瞬間、ふわりと温かな空気が流れ出す。
中は、思ったよりも静かだった。
けれど、その静けさの中には、確かな命の息吹が満ちていた。
部屋のあちこちに、小さなグループができている。
毛布を広げた床の上では、おもちゃを手にした幼い子どもたちが遊び、
赤ちゃんをあやす、まだ若いお母さんたちの姿も見える。
壁際のソファには、お腹がふくらみが目立ち始めた妊婦さんが腰かけ、
穏やかな口調で、隣のお母さんと言葉を交わしていた。
笑い声、泣き声、ささやき声──
そのどれもが、どこか遠慮がちで、それでも確かに“ここに生きている”音だった。
私はゆっくりと一歩、部屋の中へ足を踏み入れる。
そのとき、ひとりの女の子と目が合った。
彼女はじっと私を見つめたまま、ぽてぽてと小さな足取りで近づいてくる。
髪は少しぼさぼさで、袖が長すぎるシャツを着ていたけれど──その瞳はまっすぐだった。
「こんにちは!」
元気に挨拶してくれた女の子に、思わず笑みがこぼれる。
私はしゃがみ込み、目を合わせた。
「こんにちは。あなたのお名前、教えてくれる?」
「サチコ!」
その声を聞いた瞬間、私は思わず目を見開いた。




