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ripple 6

 浜辺ではいつも風が吹いている。海から陸に向かって吹く海風と、その逆に吹く陸風の2つの風だ。朝と夕方の2回、2つの風が入れ代わる時がある。その時、風は止み、波は穏やかになる。それが「凪」(なぎ)と呼ばれる無風状態である。

 夕凪の浜辺に、巧となぎさは座っていた。

「つかれたね」

 なぎさがぽつりと言った。

「ああ、疲れた」

 答えて、巧は目を閉じた。体中がだるい。明日の朝は、筋肉痛で悩まされることだろう。

 昼食後から夕食時まで重労働をしていたのだから無理もない。だが巧は、不満を言うつもりはない。自分からすすんでやったのだ。

 巧がやっていた重労働とは、家具運びだった。家具といってもたいしたものではない。たんすと本棚とベッドの3つだけだ。巧はその3つをなぎさの部屋に運んだのだ。

 巧と美紗は予定されていた客なので広樹があらかじめ、家具を部屋に運びこんでおいたのだが、なぎさは突然の来客なので、広樹があらかじめ部屋を整えておくということはしていなかった。それで、外にカーテンその他を買いに行った広樹の代わりに、巧が家具を運んでいたのだ。

 微力ながらなぎさ本人もそれなりに精一杯仕事をしたので、くたくたという訳だ。

「ねえ、たくみおにいちゃん」

「ん……?」

 巧は目を開けてなぎさを見た。その横顔は朝、初めて出会った時のように、どこか寂しげだった。

 初めて出会った。

 そうなのだ。巧はなぎさと、今日、初めて会った。

 A boy met a girl.

 少年は少女と出会った。少女は記憶喪失。少年が知っているのは少女の名前だけ。

 しかし、相手は、少女とは言っても五才も年下の女の子だ。17才の彼にとって12才のなぎさは恋愛対象外である。巧は、ロリータ・コンプレックスでも光源氏でもない。

 巧としては、なぎさよりはあの碧髪の少女のほうにひかれていた。ひかれるといえば或る意味では、なぎさにもひかれているのかもしれない。

 何故なら、巧は出会ってまだ一日もたっていない、名前しか知らない女の子を、真剣に守ろうとしているのだから。それは巧自身の意志であり、碧髪の少女との賭に勝つためではなかった。

 巧は、自分の隣に座っているなぎさを改めて見た。夕凪の時間も終りに近づいたらしい。風がかすかになぎさの前髪を揺らしている。

 なぎさの口が動いていた。

「……かもしれないよ」

「え?」

 巧は体をくっと起こして聞き返した。

「今、何て言った?」

 自分の顔が強張るのを、巧は感じていた。

 ――今、なぎさは何と言ったんだ? 俺が聞き間違ってなきゃ、この子はとんでもないことを言っているぞ!

 あまりにも突飛な内容だった。

 夕凪の刻がすぎた浜辺に、強い波がうちよせてくる。波が、二人の視界いっぱいに広がる。

 巧となぎさは急いで立つと、波がこない距離まで一目散に駆け出していった。二人の後ろで波が砕け散って、しぶきが舞った。

 立ち止まると、巧となぎさは呼吸を整えようと、思い思いの姿勢で息を荒くはいていた。しばらくの間、波音に重なる二つの息の音だけが浜辺に響いていた。

 なぎさが喘ぎながら、さっき言った言葉を繰り返す。

「なぎさ、人間じゃないかも、しれないよ」

 それは、巧にとって不意うちだった。息を整えながら巧は、なぎさにかける言葉の一つも思い浮かべることのできない自分を情けなく思っていた。息がすっかり整っても、巧はなぎさに言うべきことをみつけられなかった。

 巧は、何も言わずにその場に座りこんだ。なぎさも続けて腰を下ろす。腰を下ろしながら、なぎさは今までの思いを全てはきだすように言った。

「だって、人が好きになれないんだもの」

 人が好きになれないんだもの。

 巧は、心の中で、なぎさが言ったことを繰り返してみた。

 ――人が好きになれない。人が好きじゃなきゃ、人間じゃないのだろうか。人間が嫌いな人は、人間以外の生物なんだろうか。それじゃ、俺は人間が好きなのか? いや、俺は少なくとも好きじゃない。すると、俺は人間ではなくなるのか?

 自問しても、答えは見つからない。否、巧は、見つけなければならない。答えが見つかれば、きっと、なぎさに何か言ってやれるのだろうから。

 今の巧は、なぎさのことにしか頭がまわらなかった。だから、昨日、同じようなことを質問した少女のことなど、その時は失念していた。

「たくみおにいちゃんと、町へ行ってわかっちゃった。なぎさはたぶん人間じゃないんだなって。人がたくさん集まっていると、とってもこわい。それだけじゃないの。車もビルも道路も、みんなこわかった。みんなふつうじゃないんだもん」

 ふつうじゃない。確かにそうだろう。空気を汚しながら走る自動車、人間以外の生物を寄せつけない冷たい建物、大地を覆い隠す舗装道路。明らかに異常なものだ……自然から見れば。

 巧は腹のあたりに暖かみを感じて、我に返った。見れば、そこにはなぎさのなよやかな白い腕がある。触れたとしたら、粉々になってしまいそうな腕。その腕が、巧の腰にしっかりしがみついているのだ。なぎさはうつむいていた。

「なぎさの住んでいたところはちがうの。あっちこっちに、なにか生き物がいて……。人だけじゃなくて、みんなで生きていた。たぶん、そう。そう思う」

 巧のジーパンに染みができる。なぎさの涙でできたその染みは、一つ、二つと数を増やしていく。

「泣いているのか、なぎさ……」

 当たり前の質問だったが、巧にはこんなことしか言えなかった。あの人ならどんなにか気のきいたことを言えただろうにと、広樹の顔を思い浮かばせた。巧にとって叔父は、人生の手本であり、師であるといっても過言ではない。欠陥の多い人ではあるが。

 ふいになぎさが立ち上がった。

「なぎさ?」

 巧の呼びかけにふりむくなぎさは、泣いてはいなかった。それどころか笑っていた。

 巧は束の間、ほっとしたが、少女の笑みが作りものだということを、すぐ見破った。

 巧が言葉をかけようと、口を開く。それが音になる前になぎさが声を出した。

「だいじょぶよ、おにいちゃん。なぎさのことは心配しないで。なぎさ、どうかしてたよ。突然へんなこといって、ごめんね」

 言い終えると、なぎさは踊り始めた。体をくるくると回転させながら、波うち際を軽やかに跳ねて歩く。何時の間にか、なぎさは口の端に美しい歌がのっていた。最初、小さくて巧には聞き取れなかったが、徐々に声は大きくなり、巧にも聞き取れるぐらいになった。

 巧はしばらく、その言葉のない旋律だけの歌に耳を傾けていた。

 東の空に、白いいびつな円がちらりと見えた。月の出だ。月の白い光を浴びたなぎさは美しく、巧の気のせいだろうか、少し艶めいて見えた。伝承や神話が好きな広樹ならば、ギリシア神話の月の女神アルテミスにでも例えて絶賛したに違いない。

 月光に照らされ歌いながら踊るなぎさを見つめながら、巧はこの少女は本当に人間ではないかもしれないと思った。

 ――それでも、構わないさ。そのほうがいいぐらいだ。

 そんな思いで、なぎさの姿を見つめる巧だった。

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