ripple 5
食事を済ました巧は、広樹から福沢諭吉の肖像画を数枚受け取ると、なぎさを連れて街へ向かった。
電車が駅に着き、改札口を通る頃には、なぎさは既に疲れきっていた。人の多さに慣れていないのだろう。声に出してこそ言わないが、覇気のない表情を見れば分かる。
「なぎさ、歩けるか?」
巧が聞くと、なぎさは声を出さずにうなずいた。不安はあったが、本人が大丈夫だという限りは心配ないだろうと、巧は自分に言い聞かせ、なぎさの手をひいて駅を出た。
瞬間、鋭い夏の陽光が二人の肌を刺した。
「う……」
巧は思わず手をかざした。周りがタイル張りなので、土の露出した地面よりも照り返しがきつい。
「歩きやすいといっても、考えものだな」
呟いて、なぎさを見る。少女は目を細めて眩しそうにしてはいたが、しっかりと地面を踏みしめて立っていた。
「じゃ、まず服でも見ようか」
巧は、自分の言葉にまたもや無言でうなずくなぎさの右手をつかみ、人の波と夏の陽射しを避けるように近くののデパートへと駆けこんでいった。
広樹は鼻歌まじりに、朝食で使った皿の最後の一枚を洗っているところだった。
巧となぎさは街に買い物に行っている。美紗は研究だと言って朝食をかたづけると早々に浜辺へ出ていった。今、この本原家の当主の別荘というにはあまりにもお粗末な小屋には、持ち主である広樹しかいなかった。
台所で仕事を終えた広樹は、エプロンを外すと、二階の自室へ向かった。
部屋に入るなり、広樹は東側に面した窓を開け放つ。木綿でできた白い質素なカーテンが、涼しげな朝の海風に揺れる。その様子はオーロラに似ていた。
広樹は部屋の隅にある本棚に目をやった。そこには考古学関係の本がぎっしりと並んでいる。が、その棚の一番上の段には4分の1程本が並べられていない空間があった。広樹はその空間に手をさしだし、そこに伏せて置かれていた写真たてを起こした。
その写真には大学生時代の広樹と、一人の若い女性が写っていた。
広樹は写真たてを手にしてじっと見すえる。写真を見ながら、大学生になりたての頃を回想しているのであろうか。その瞳は幸せそうに輝いている。
しばらくして、広樹は再び写真たてを本棚に返した。
「やはり似ている……」
写真を元通りに伏せながら、広樹は呟いていた。
巧となぎさは既に5つのデパートを回っていたが、買った服は1着もなかった。なぎさが欲しいと思う服がないのだ。なぎさの好みが特別に変わっているわけではなかった。ただ、デパートで流通している「流行」の服が、なぎさの好みから外れていただけだった。
さすがになぎさも疲れ果て、エレベーターの脇の休憩所で座って巧を待っている。
「服はもういいよ、他のものを買おう」
当のなぎさがこう言うのでは、巧は諦めるしかなかった。かといって『流行』の服を買う気にもなれない巧は、なぎさと共に5つ目のデパートをあとにした。
6つ目のデパートに向う道路には、真ん中の中央分離帯と両端に街路樹が植えられている。
「こんな時は、美しい木でも愛でて、心を安らかにするしかないな」
誰にともなく言うと、巧は道端の街路樹を見上げた。そうして巧は、視線が自分に注がれているのを感じた。その視線はなぎさのものだった。
「巧おにいちゃん、これが木なの?」
なぎさの目は驚きに見開かれていた。なぎさは、巧が目をやった木にその手を触れ、もう一度、巧に訊ねた。
「これが、木なの?」
責めるように自分を見すえる瞳に、巧は確かに見覚えがあった。
巧はなぎさにうなずいた。なぎさの顔が悲しみに歪む。
「かわいそうに……」
そのなぎさの言葉が、自分に向けられたものなのか木に向けられたものなのか、見当もつかない。否、両者に向けられたものなのだろう。
なぎさはその木に寄りそい、頬をつけた。
真夏の陽射しが照りつける通りで街路樹に頬ずりする少女は、一般の尺度に照らし合わせれば、明らかに近寄りがたいものだったろう。現にそう感じたにちがしない何人かの人々は、その少女と呆然と立ちつくしている少年を避け、足早に通り過ぎていく。
慣れない事を色々してなぎさは疲れたのだろう。巧はそう考えた。
「なぎさ、広おじさんの所に帰ろうか」
巧がなぎさの肩をたたく。
「……うん」
なぎさは、巧の右腕をすがるようにつかんだ。
その時、人ごみの中から巧となぎさに冷ややかな視線をおくっている者がいた。日本人にしては茶色すぎる髪の、快活そうな少女である。年は巧と同じか、1、2才上ぐらいだろうか。
少女は、嘲るような笑いを浮かべると、何事もなかったように人ごみの中にまぎれていった。
巧は小屋の前で大きくため息をついた。わざわざ街まで行ったのに、何も買ってこなかったので、朝、叔父から手渡された福沢諭吉の肖像画は、そのままの枚数が巧の手の中にある。
なんだか叔父に申し訳なくて、もう一度、大きく息をはいた。巧が覚悟を決めておもむろにドアに手をかけた時だった。
「お帰り、巧」
思いがけなく後ろから投げかけられた、張りのある低すぎない声に巧は驚いた。振り返って見るまでもない。そこには間違いなく自分の叔父がいるだろうから。
「ひろおじさん!」
なぎさの声があがる。なぎさは広樹にぱっと抱きついた。少女特有の明るい笑い声が、巧の耳にも届いた。
「ずいぶん早く帰ってきたんだな」
なぎさにじゃれられて嬉しそうにしているであろう広樹の顔を、巧は振り返って見ることができなかった。何も買ってこないで手ぶらで帰ってきた自分自身を、巧は後ろめたく感じていた。
巧は、広樹に顔を向けないで、小屋の中に入っていった。
入り口のドアを開け、玄関ともいえるスペースに立った巧は、そこに仕切る壁なく設計し造られたリビングに美紗を見た。
美紗は相変わらず論文の下書きらしい紙に視線を落としていたが、何者かが小屋に入ってくる気配を感じとると、顔を上げた。巧を見ると、美紗は口を開いた。
「お帰りなさい。いいところに帰ってきたじゃない、これからお昼なのよ」
「僕にとっては最悪と言ってもいいタイミングなんだけど」
巧の後ろから、なぎさの羽根のように軽い体を抱えた広樹が入ってくる。
「ちょっと待っててくれよ。僕は、巧となぎさちゃんの分だけスープを多く作らなきゃならない」
広樹はなぎさをその場におろすと、キッチンに歩いていった。
巧となぎさはテーブルにつく。美紗は、二人に気をつかったらしく、先程まで目を通していた紙の束をテーブルの下に置いてあった、大きな茶封筒の中にしまいこんだ。
「何か、いいもの買えた?」
しまいながら美紗が聞いた。巧は大袈裟な手ぶりをつけ、首を横にふりながら答える。
「全然」
巧の後になぎさが続けて言う。
「服ね、気に入ったのがなかったから買ってこなかったの」
「そうなんだ」
美紗が相づちをうつ。
「それなら、私が服を作ってあげましょうか」
「うん。美紗おねえちゃん、つくってつくって!」
よほど嬉しかったのだろう。なぎさはテーブルの下で足をばたばたさせて喜びを表していた。
「美紗さん、服、作れるんですか?」
口に出してから巧は、失礼なことを聞いてしまったと思った。だが、無理もない。この2日間、美紗は一度も食事を作ったことがない。毎食、広樹の手作りだ。広樹が料理が上手いのは事実だ。だが、美紗は女性なのだ。仮にも中学、高校と家庭科の授業を受けてきたのだから、一度ぐらい料理してもよさそうなものだ。
そのことを不審に思った巧は、昨日の夕食の時、訊ねてみた。すると美紗は、「私、料理が異常なくらい不得手なの。というか、おそろしく包丁が不器用ですさまじい味音痴なのよ。だから、調理実習では、材料量り、泡立て、洗い物以外やらなかった」と答えた。
そんな訳で「美紗は超がつく不器用」という認識が巧の中にできあがっていたのだ。
「私、調理は苦手だけどお裁縫は得意なの。心配してくれなくても大丈夫よ」
美紗が苦笑しながら言った時、広樹ができたての料理をトレイに並べて、キッチンとリビングを隔てるドアを肩で押した。




