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ripple 4

「ただいま」

「おじゃまします、初めまして」

 巧の声になぎさの明るい無邪気な声が続く。

 リビングのテーブルに何やら論文の下書きらしい紙を置いて目を通していた美紗が慌てて目を上げる。キッチンで何かを揚げていたらしい広樹がエプロンをつけたまま慌てた様子で、キッチンとリビングをつなぐドアを開ける。

 そして二人は、巧と、巧が背負っているなぎさを驚いて見た。

「巧、その子はお客様、なのかな?」

「まあ、そんなもの」

 目をみはる広樹の問いに、巧はさらりと答える。

「広おじさん、風呂わいてる? この子……なぎさを入れたいんだけれど」

 巧は広樹に朝風呂の習慣があるのを知っていた。

「今、バスタオルを出すよ」

 広樹は大急ぎでたんすを開ける。巧がなぎさの方をちらと見ると、美紗と笑いあっていた。女同志は既にうちとけたらしい。

「お風呂どうぞ」

 広樹がなぎさにタオルを手渡す。

 巧はなぎさを風呂場に案内し、再びリビングに戻った。

「巧、僕達に説明をしてもらえないか」

 戻るなり、広樹が少し厳しい口調で言い放つ。この期に及んで嘘はつかせない、というつもりらしい。

 巧はうなずくと、なぎさに関することを昨日の碧髪の少女の出来事から、包み隠さず話し始めた。


 女性というにはまだ幼い体が湯船につかっている。なぎさはちょっと惜しいな、と思いながら潮の香りを洗い流していた。

 水に体を接しているとなにかしら心が安らぐ。こんなところに記憶を取り戻す糸口があるのかもしれない。

 たぽんと音を立てて、なぎさは湯の中にもぐった。湯の中で髪が海草のように揺らぐ。

 なぎさだって自分なりに真剣に考えている。

 記憶がないというのはただごとではない、とは思うが、記憶があった頃よりも今の方が幸せなような気がするのも確かだ。なぎさはまず、自分の姓を思い出そうとしていた。

 名前があるのだから、普通ならば名字というのもあるはずだ……思い出せない。

 親の顔は? 生まれたからには、親がいるはず……思い出せない。

 住んでいた家は? 兄弟はどうだろう……思い出せない。

 どんな学校に通っていた? 友達は? 先生は? ……やっぱり思い出せない。

「ちがう」

 なぎさは無言の自答の末、口を動かしたが、水の中なので声にはならずに泡が水面へ急いで上っていくだけだった。

 ――思い出せない? ちがう。親や兄弟や住んでいたところは本当に思い出せないらしい。けど、名字や学校は? 最初から名字もなかったし、学校にも通ってなかった……? 

 とけない銀色の知恵の輪のイメージが、いくつも頭の中を転がる。

「ぷはっ」

 なぎさは水中から顔を出した。彼女は知る訳もないが実はこの時、なぎさが湯にもぐり始めてから優に5分という時間が経っていたのである。

 そして、なぎさの知らないことがもう一つ。水に濡れてから髪が変色しているのだ。もっともこのことには、なぎさは間もなく気づいた。

 バスタオルを巻いた自分の姿が、風呂場と一緒になっている洗面所の鏡に映しだされたのを見て、なぎさは小刻みに震えていた。

「これが……わたし?」

 黒かった髪の毛はすっかり色を変えていた――青とも緑ともつかない碧の色に。巧が海で出会ったあの少女の髪と全く同じ色だった。

 なぎさは慌てて脱衣かごに目をやる。そこには巧と会った時から首にかけていた、あの石のペンダントがあった。なぎさは碧く光るそれを手にとった。

「同じ……色?」

 確かになぎさの髪とその石はまったく同じ色だった。

 なぎさは脱衣かごの中に、なくした記憶をとり戻す手がかりになるかもしれない石を乱暴に投げこんだ。

「嫌っ、こんなの……こんなの!」

 バスタオルで髪をこする。

「どうして……、どうしてこんな色になっちゃったの!」

 自分は、人間ですらないのかもしれない。そう思うと、瞳から涙がぼろぼろとあふれ出した。なぎさは、涙をこらえながらタオルで髪をこすり続ける。

 こすれば、ひょっとして色が落ちて元の黒髪に戻るかもしれない……。

 3分もこすっていたであろうか。ふと、なぎさは乾いたところから髪の色が黒に戻っていることを知った。

「よかった……」

 ほっと息をはく。だが、安心してばかりはいられない。なぎさは水道の蛇口をひねり、流れ出る水で再び髪を濡らした。思った通り、髪はその色を黒から碧に変える。

「そっか、水でぬれると色が変わるのね」

 とりあえずの原因が判り、なぎさは胸をなでおろした。が、根本の原因が不明なのも確かだ。なぎさはドライヤーをみつけると、温風を髪にあて始めた。

 なぎさは何気なく歌を口ずさみながら髪を乾かしていた。巧がそこにいたら、間違いなく息を呑んで口をつぐんでしまっただろう。

 何故なら今、なぎさの口から出ている歌は、碧髪の少女が歌っていたものと同じものなのだから。


 広樹は落としていた視線を上げ、じっと巧の瞳を見た。嘘をついている素振り――巧自身は気づいていないようだが、嘘をついているとかたく手を握る癖がある――もないし、気がふれているようでもない。

「確か一昨日が満月だったから、今度の新月は2週間後の8月31日か」

「広樹さん……!」

 美紗が、甥に一片の疑惑も持つことなく彼女の右隣に座っている広樹をとがめるように言う。近眼用レンズの奥の瞳は、そんなこと信じられない、という疑心の色に染まっていた。

 ――美紗さんは頭が柔らかいほうの人だと思っていたのにな。

 巧は、向かいの女性の顔を見ながら、彼女のことを過大評価していたかなとため息をもらした。広樹は巧をちらりと見てその思いを見透かしたのであろう、仕方がないとでもいうように苦笑した。

 しかしそれは美紗の言動に対してではなく、巧の考えにでありもっと正確にいえば、そう考えるべく影響を与えてしまった自分自身に対してであった。

「なぎさちゃんは、実際碧の髪の少女が予告した場所にいたんだ。巧の言ってることに嘘はないよ。それに、こういう嘘をついて巧がどんな得をするのか、僕には見当つかないな」

 広樹の言葉を聞いても、なお美紗は何か言いたげだったが、じっと見つめられて飲み込んでしまった。広樹の左隣、美紗の真向いである巧の位置からは、美紗に向けた広樹の顔は見えなかったが、おそらく天使顔負けの笑みを浮かべていたことだろう。巧の叔父とはそういう人だ。

 美紗を絶句させるという自分自身で課せた任務を無事完了した広樹は、巧の方へふりかえった。瞬間、バリトンの声がぐっと低くなり、巧に半ば強制である忠告が発せられる。

「巧、なぎさちゃんにはこの事を言うな。どうやら僕達は厄介なものを背負いこんだらしい」

 普段の飄々とした様子を微塵も感じさせることのないほど迫力のある表情と声だ。巧は、叔父のいつになく真剣味を帯びた瞳に、ただただこくりと頷き返すだけだった。

 と、リビングにドアのきしむ音が響く。

「お風呂、ありがとうございました」

 この場では高めの声と共になぎさがリビングに入ってきた。少女の着ている服は先程の白いワンピースなのだが、なんとなく目新しいさっぱりとした感じを与える。入浴の効果は絶大なのだ。

「それでは食事にしようか」

 広樹は、たんっと小気味良い音をたてて立ち上がり、キッチンに消えていった。

 入れ代わりになぎさが、広樹の座っていた向かいの椅子に腰をおろした。

「ん?」

 巧がなぎさの顔を見て、疑問の声を上げる。

「なぎさ、その目どうしたんだ? 赤いぞ」

「え?」

 なぎさは慌てて目をこすった。今しがた、風呂場で泣いてきたのだから無理もない。目をこすりながらなぎさは、巧にはまだ自分の髪のことを話さないでおこうと考えた。

「顔を洗った時、せっけんが入っちゃったみたい」

 とっさに嘘をつく。巧はそのなぎさの嘘に全く気づかないでいた。心配そうになぎさの充血した目を見る巧は、妙におどおどしていて、はたから見るとこっけいなくらいだ。

「大変だ、目を洗った方が……」

「ううん、だいじょぶ」

 言って、なぎさは「おにいちゃん」に微笑んで見せる。「妹」の顔を見て、安堵のため息をつく巧だった。

「ところで、何か、思い出せた?」

 麗しい兄妹劇がひと段落ついたところを見計らって美紗が聞いた。すると、なぎさは、何も答えずに悲しそうにうつむいた。

「美紗さん!」

 巧は大きな声と共に立ち上がった。リビングじゅうの物がびくっと体を震わせた。もちろん、なぎさと美紗もその例外ではない。

「どうかしたのか?」

 広樹が味噌汁が入った片手鍋を持ったままリビングに心配そうな顔を出した。

「別に、何も」

 巧は座りながらぶっきらぼうに言い返す。

 その返事でその場の雰囲気を察した広樹は、この場には自分は必要ないと瞬間に判断し、「もうすぐ出来上がるよ」の言葉と無理して作ったらしいかすかな笑みを残して首をひっこめた。

 広樹がキッチンにひっこむと、これまたぶっきらぼうに巧が言葉を投げつけた。

「美紗さん、あなたがなぎさをどう思おうと構わない。けれど、俺はなぎさのことを妹同然だと思っているんです。兄として、妹の悲しそうな顔を見たくはない」

 憤りの表情の巧が美紗を睨みつける。その一方、巧は妙に冷静なもう一人の自分を心の中に見出だしていた。

 ――さっき会ったばかりの女の子が、ちょっと悲しい顔をしたぐらいで、どうしておまえがとり乱さなきゃならないんだ。

 もう一人の巧は巧を軽蔑しているようだった。それはもっともなことである。だが今の巧には、火に油を近づけるようなものだった。巧は、もう一人の自分に大声で叫び返した。

 ――俺はなぎさを守らなきゃならないんだ!

 もう一人の巧はふんと鼻をならした。勝手にしろ、ということらしい。

 巧の心にそんな葛藤があった間、なぎさの泣きじゃくる声だけがこの場のBGMとなっていた。だが、巧の思考をうち切ったのは、そのなぎさの声ではなく、美紗の声だった。

「……わかったわ」

 美紗がおずおずときりだした。

「なぎさちゃん、ごめんなさい。私、あなたを悲しませるつもりはなかったの。許してちょうだい」

 美紗の瞳に涙がにじんでいたとしても不自然でないほど心から謝っているのことが、たやすく見てとれる。だが、なぎさは否定を示すように、首を横にふった。

 巧が声を荒立てる。

「なぎさ、美紗さんは心から謝ってくれているんだ、許したっていいじゃないか」

 そもそも巧は美紗のことを嫌いではない。逆に、自分や叔父と性格的に合う数少ない人だと思っている。ただ、第一印象よりは若干差はあるだろうが。そんな貴重な人とは、後々までに尾をひきそうなしこりを作りたくはなかった。

 なぎさは、再び首を横にふって口を開いた。

「ちがうの。許すとか許さないとかじゃなくて、いけないのはなぎさだから。美紗おねえちゃんはなぎさのこと心配して言ってくれたのに、一人で悲しくなったのはなぎさだから。美紗おねえちゃんは最初から悪くないの。だから、なぎさが美紗おねえちゃんを許すこともないの」

 泣きじゃくりながらも言うと、なぎさは、わっと泣きだして美紗に抱きついた。

「ごめんなさい、なぎさが悪いの」

 必至に自分にしがみつくなぎさの細く白い体を、美紗は優しいまなざしで見つめる。

 言いすぎたな、と巧は反省した。美紗はそんなには、鈍感な人間ではなさそうだ。なぎさを見つめる瞳が巧にそう教えた。巧は美紗の人間的魅力について考え直そうと思っていた。

 美紗は、なぎさの長い柔らかな黒の髪をそっとなでた。彼女の心には大きな後悔があるに違いなかった。

 髪をなでられたなぎさは顔を上げ、美紗をまじまじと見つめた。涙こそうっすらと浮かべていたが、すっかり泣きやんだその顔には、驚きが表れている。

「美紗おねえちゃん、今、なにか……」

「どうしたの?」

 美紗はなぎさに優しく言葉をかける。

「ううん」

 否定の語を出してなぎさは美紗の胸に顔をうずめた。

 顔をうずめる直前のなぎさの瞳に何か怯えたような光が見たが、とりあえず、巧は安心した。

 安心した巧は、なぎさは母親のことを思い出しているのだろうと思って、すぐ心の中で美紗に謝罪した。美紗の年ではなぎさほど大きな子供はいるはずがないから。

「おまたせしました」

 トレイいっぱいに椀と皿をのせた広樹が部屋に入ってきた。巧と広樹の手によってそれらは素早く並べられる。

 食パン、ベーコンエッグ、トマトのサラダ、わかめの味噌汁。一瞬、首を傾げたくなる献立である。

「どうしておみそ汁なんですか?」

 不思議そうに美紗が聞くと、広樹は椅子に座りながら、少年のように無邪気に声を立てて笑った。

「土地の人からわかめをいただいたんでね。新鮮なうちに食べ切らないと、申し訳ないと思って。パンとみそ汁の組み合わせには我ながら笑っちゃったけど、作ってみたんだよ」

「それなら、サラダにわかめを使えばいいじゃないか」

 キッチンに、配膳に使ったトレイを置いてきた巧が、席につきながら抗議すると、広樹は、ぽんと手をうった。

「巧の言う通り。我ながら間抜けだよなあ。いただいた時からみそ汁以外のわかめの調理法が思いつかなかったし、それ以前に考えなかったよ」

 広樹の言葉に一同が微笑む。食卓は和やかな雰囲気に包まれた。巧達三人に突然の来訪者なぎさを加えた食事は、巧が思っていたよりも問題なく進み、会話も弾んだ。

 おおかた食べ終えた頃になると、食卓に何やら気まずい空気が流れ出した。なぎさの前に置かれた皿の一枚にベーコンエッグがまるまる残っているのだ。

 子供というものはたいてい肉や卵の類を好む。確かにそれらは美味しいし、タンパク質の給源食品なので成長期にある子供にとっては必要な食品だからだ。おまけに、一般的に値段がいい。

 そんなものだけをそっくり残されたのでは、それを調理――ベーコンエッグを作る作業がそう呼べるたいそうなものではないと思うが――した人物が、自称心優しいおじさんの広樹であったとしても、眉をひそめるの一つくらいしてもいいだろう。

「なぎさちゃん、おじさんの作った目玉焼きは食べてもらえないのかな?」

 広樹はできるだけ優しく言った。二十代を抜けきっていないように見える広樹には「おじさん」よりも「おにいさん」の方が似合う。しかし、彼は自分の年が決して「おにいさん」ではない年であることを知っているので、自分をそういうふうに言わなかった。彼が二十歳になる前には巧や巧の兄が生まれていたので、十代のうちに「自分はおじさんである」という認識ができてしまっていたのも原因の一つである。

 なぎさは下を向いて、心優しいおじさんに小さく「ごめんなさい」と言った。

 その顔を見てあまりに胸が痛くなるのを感じた広樹は、話題の転換を試みようと、巧に話しかけた。

「巧」

「何?」

 巧は、八分の一のくし形に切ったよく熟れた真っ赤なトマトを片手に、広樹の方を向く。近所の人は「本原の若様」によい感情をもっているので、普通に出荷する未熟トマトではなく完熟トマトをさしあげるのだ。

「食事が終わったら、なぎさちゃんを連れて、街に買い物に行ってくるといい。なぎさちゃんにあう服はここにないし、なぎさちゃんだって他に欲しいものがあるだろうから」

 ここでいう街とは、この広樹の別荘から電車で約二十分の距離にある、ちょっとした都会の香りがする街のことである。

 広樹の別荘があるこの辺りでも、商店街と呼ばれる場所がない訳ではない。

 ただ、ここから歩いてその商店街に行くのと電車を使って街に行くのとでは同じぐらいの時間がかかるし、地元の商店街の人には申し訳ないが、街に行く方が地元に行くのより断然多くの品物を見ることができるのだ。

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