1.プロローグ
春休みに入った。正確には、通っていた高校を卒業して、大学の入学式を迎えるまでの、一か月間ほどの空いた時間。
とにかくこの生れ育った家にいるのが嫌で、僕は必死に勉強した。下宿をしたいと願う僕に、両親が突き付けてきたのは、学費がかからない国立大学に合格すること。それほど勉強ができた訳ではなかったが、毎日、死に物狂いで机に向かった。そして勝ち取った地方の大学の、『合格』の二文字。
合格通知を手にした瞬間、僕は飛び上がって喜んだ。約束した手前、それにはさすがの両親も、「おめでとう」と言って喜んでくれた。そうして、一か月後に始まる僕の新しい学生生活。
だけど、心って不思議なもので、あれほど嫌に思っていた実家暮らしも、いざ離れることが確実になると、今度は寂しさが込み上げてくる。それも、日を追うごとに強くなっていくものだから、僕の心の中は複雑だった。ひとことで言い表せば、ホームシック。あっ、でもそれって、実際に家を離れてから感じるものだったっけ。
いずれにせよ、僕は、実家を旅立つまでのおよそ一か月間で、新しく始める学生生活への見通しを立てないといけなくなった訳で、あれほど辛かった受験勉強から解放された喜びに浸っている余裕はなかった。
とは言え、残りの一か月間をどう過ごすかを考えることは、特に打ち込めるものがなかった僕にとっては、ある意味で難しい問題だった。高校時代の友人たちとは、卒業式の日に別れたきりで、何となくその後どうしているのかが気になって、電話をかけてみたものの、それぞれ進学の準備や、浪人生活を送る予備校探しなどで忙しそうだった。
地元で親しくしていた友人が何人かいるにはいたが、お互いに別の高校に進学してからは、共通の話題がなくなってしまい、疎遠になったままだった。彼女がいない歴イコール年齢の僕、このまま、誰にも見送られることなく旅立つことになるかと思うと、なんだか気が重たい。
そんな心の中のもやもやを振り払おうと、空気が抜けかけたままの自転車にまたがって、慣れ親しんだ町に出てみることにした。
今、僕は、集落を抜けて、田畑の先に小高い丘を見わたせる場所に立っている。
小学校と中学校を中心にして、そのまわりに広い敷地の家々が一か所に集まっている古い集落。そのまわりに広がっているのはのどかな田園地帯で、さらに一歩、外に出てみれば、丘の上へと続く雑木林が広がっていて、平成の終わりに少年時代を過ごした僕らにとって、遊び場所には事欠かなかった。
僕がまだ小さかった頃、町を望む一部の丘が切り崩されて、真新しい家々が立ち並ぶニュータウンが造成された。良好な子育て環境を求めて、都心から続々と若い世代が流入してきた。僕が通っていた小中学校も、丘の上に分校を作るほどの盛況ぶりだった。そんな丘の上に突如現れた、真新しい町。古い集落に長年住んできた祖母は、「丘の上に住む人々は何する人ぞや」と、よく口にしていたものだった。
今、振り返ってみれば、僕が小学生の頃からだろうか、祖母が「あの上に行ってはいけない」と、言い始めたのは。『あの上』とは、丘の上の新興住宅街のこと。少年の頃の僕にとって、祖母の意図がわからなかったが、もしもそこに行ったことが祖母を通じて両親に知れてしまったら、僕は一晩、家に入れてもらえないような気がした。よりによって、中学校教師の父と小学校教師の母である。僕は、両親の機嫌を損ねないように、祖母の忠告を守っていたのだが……。
その祖母は、昨年、病気で亡くなった。もはや、僕に忠告する人はいない。祖母が丘の上に上ってはいけないと口うるさく言っていたのは、急坂が続いて危ないからだと、今、冷静になってみてそう思える。
気がつけば、僕は丘の上へと続く道路に差しかかっていた。その先に、何か大事なものがあるような気がして、僕は急坂を必死に立ち漕ぎしていた。




