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鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田とぺたんこの妻

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第十六話 鬼柴田よりも怖い鬼柴田の妻


柴田邸の門をくぐった瞬間、義銀は覚悟を決めた。


ここは戦場ではない。


だが、戦場より厳しい場所である。


そう分かっていたからだ。


「義銀兄上!」


真っ先に飛び出してきたのは、義冬だった。


まだ若い顔を真っ青にして、けれど目には涙を浮かべている。


義銀が何か言うより早く、義冬はそのまま義銀に抱き着いた。


「義冬」


「生きて……生きて帰ってきてくださって……!」


義冬の声が震えていた。


その瞬間、義銀の胸が詰まる。


ああ、帰ってきたのだ。


そう思った。


崖を馬で下り、雨の中を駆け、今川の本陣へ斬り込み、何度も死ぬかと思った。


けれど、自分は戻ってきた。


この弟の前へ。


藤乃叔母上のいる屋敷へ。


「ただいま、義冬」


義銀は、傷の痛みを堪えながら義冬の背を軽く叩いた。


「心配をかけたな」


「本当にです!」


義冬は顔を上げた。


目元が赤い。


だが、次の瞬間、その視線は義銀の後ろへ向いた。


そこには、小平太と新介がいた。


二人とも、義冬とはまだ深い付き合いがあるわけではない。


先日、藤乃に紹介された義銀の友人たち。


その程度の距離感である。


なのに。


義冬は、何かが決壊したように二人にも抱き着いた。


「小平太殿! 新介殿!」


「えっ」


「お、おい!?」


小平太が固まる。


新介も目を瞬かせた。


義冬は二人をまとめて抱きしめる勢いで言った。


「義銀兄上を連れて帰ってくださって、ありがとうございます!」


小平太が、珍しく言葉に詰まった。


「いや、その、俺たちは」


新介が静かに言う。


「互いに帰ってきただけです」


「それでもです!」


義冬はきっぱり言った。


「義銀兄上が、皆様のお話をしていたのです。大切な友なのだと分かっていました。だから、皆様も帰ってきてくださって、本当によかった……!」


小平太は、完全に困った顔をした。


新介も、少しだけ目を伏せる。


義銀は小さく笑った。


けれど、その笑みはすぐに凍った。


義冬が、ぱっと三人から離れたからだ。


そして、三人を上から下まで見た。


泥。


血。


雨の名残。


傷。


布で巻かれた指。


庇われた膝。


義銀の腕と足の傷。


義冬の顔が変わった。


「叔母上! 駄目です!」


屋敷の奥へ向かって、義冬が叫んだ。


「三人とも、まず風呂です!」


「え」


小平太が間抜けな声を出した。


新介も、わずかに眉を上げる。


義銀だけが、すべてを諦めた顔になった。


死んだ目だった。


完全に、死んだ目だった。


奥の方から、藤乃の声が飛んだ。


「みなさん、やっておしまいなさい!」


その瞬間、柴田家の者たちが一斉に動いた。


女中たちが湯を運ぶ。


若い家人が布を抱える。


勝豊が桶を持って走る。


八右衛門が胃を押さえながらも指示を飛ばす。


於光は落ち着いた顔で、すでに準備を整えていた。


「待て待て待て!」


小平太が思わず後ずさる。


「風呂くらい自分で入れる!」


「いえ、駄目です!」


勝豊が必死の顔で言った。


「我らが藤の方様に叱られます!」


「我らが!?」


新介が、珍しく困惑した顔をした。


「手を洗うくらいなら、自分でできます」


「指を噛まれている方に、自分で洗わせたら、我らが藤の方様に叱られます!」


「また我らが」


小平太が義銀を見る。


「義銀、これは何だ」


義銀は遠い目をした。


「従え」


「説明をしろ」


「従った方が早い」


「お前、本当に死んだ目をしているぞ」


「これから分かる」


義冬が、義銀の腕を掴んだ。


「義銀兄上もです」


「分かっている」


「腕と足と頬、全部見ます」


「分かっている」


「爪の間もです」


「分かっている」


義銀は完全に諦めていた。


小平太と新介は、まだ諦めていなかった。


だが、柴田家の面々は必死だった。


「小平太様、こちらへ!」


「だから自分で歩ける!」


「歩けることと、歩いてよいことは違うと藤の方様が仰っておりました!」


「何だその言葉!」


「新介様、指を上げてください!」


「上げています」


「もっとです! 布が濡れます!」


「自分で巻き直せます」


「駄目です! 我らが藤の方様に叱られます!」


「この屋敷では、その言葉がすべてに優先するのか」


新介が静かに言うと、八右衛門が真顔で答えた。


「はい」


即答だった。


小平太は、さすがに黙った。


風呂場へ連行された三人は、そこでさらに衝撃を受けた。


湯がある。


ただの湯ではない。


一度煮立ててから、ほどよく冷ました湯である。


布がある。


清潔な布である。


傷を見るための明かりもある。


薬もある。


そして、義冬、勝豊、数人の家人たちが、完全に役割分担を済ませて待っていた。


「義銀兄上はこちら」


「小平太殿は膝」


「新介殿は指」


「爪の間も確認」


「泥を残すな」


「布は新しいものを」


「藤の方様に報告するから、傷の深さを見落とすな」


小平太は呆然とした。


「戦支度か?」


新介が静かに答える。


「療養支度だろう」


「圧が戦支度なんだよ」


義銀は、すでに座らされていた。


死んだ目である。


「義銀兄上、腕を出してください」


「はい」


「足も」


「はい」


「頬も拭きます」


「はい」


小平太は目を見開いた。


「義銀が、あんなに素直に」


新介も少し驚いたようだった。


「これは、想像以上かもしれない」


義冬が義銀の腕の傷を見て、顔をしかめる。


「深いです」


「浅い」


「浅くありません」


「叔母上にも同じことを言われるな」


「言われます」


義銀は目を閉じた。


「なら、もう何も言わない」


義冬は、煮沸した湯を冷ましたもので傷口を丁寧に洗った。


義銀の肩が少し震える。


痛いのだろう。


だが、文句は言わない。


言っても無駄だと知っているからだ。


その横では、小平太が騒いでいた。


「だから、俺は自分でできる!」


「膝を動かさないでください!」


「少しくらい動かしても」


「我らが藤の方様に叱られます!」


「そればかりだな!?」


勝豊が小平太の膝の布をほどきながら、真剣な顔で言った。


「小平太殿。膝は大事です」


「分かっている」


「歩くにも、走るにも、馬に乗るにも、槍を振るうにも大事です」


「分かっている!」


「なら動かさないでください」


「……分かった」


小平太は渋々黙った。


だが、傷口に湯が触れた瞬間、顔をしかめる。


「痛っ」


「痛むなら、やはりかすり傷ではありませんね」


勝豊が言った。


小平太は言葉に詰まった。


「お前、藤の方様に似ていないか」


「よく言われます」


「褒め言葉として受け取るな」


「褒め言葉では?」


「そうかもしれないが!」


一方、新介は静かに指を差し出していた。


だが、こちらも落ち着いているわけではない。


指を噛まれた傷を洗われるのは、かなり痛い。


新介の眉が、ほんのわずかに動いた。


そのわずかな動きを、義冬は見逃さなかった。


「痛みますか」


「少し」


「少しではない顔です」


「義銀殿に似ているな」


「兄上の友人ですので」


「なるほど」


新介は静かに納得しかけたが、次の瞬間、爪の間まで丁寧に洗われて動きを止めた。


「爪の間も?」


「はい」


「そこまで?」


「はい」


「指の傷とは別では」


「泥が残っていたら、我らが藤の方様に叱られます」


新介は、しばらく沈黙した。


それから言った。


「この屋敷の者たちは、藤の方様を恐れているのか、敬っているのか」


義冬は真顔で答えた。


「両方です」


新介は納得した。


小平太は納得できていなかった。


「俺はまだ納得していないぞ」


「納得しなくても洗います」


「くっ」


小平太が悔しそうにする。


義銀が遠い目で言った。


「だから、従えと言った」


「義銀、お前は諦めすぎだ」


「慣れだ」


「慣れたくない」


「分かる」


三人が洗われている間、柴田家の者たちは本当に必死だった。


誰も笑っていない。


いや、笑う余裕がない。


なぜなら、これはただの世話ではないからだ。


藤乃の命令である。


産後で動けない藤乃が、奥から放った一言。


「やっておしまいなさい」


その一言で、屋敷中が動いた。


この屋敷において、怪我人を汚れたままにしておくことは、もはや許されぬ所業である。


傷口を放置することも罪である。


汚れた手で赤子のいる奥へ近づくことは、大罪である。


そして、それらを見逃した場合、藤乃に叱られる。


それは、柴田家の者たちにとって、戦場の怒号よりも恐ろしいものだった。


「布、替えます!」


「湯、こちらへ!」


「小平太様、動かないでください!」


「新介様、指を曲げないでください!」


「義銀様、顔を背けないでください!」


「勝豊、膝の腫れを見落とすな!」


「義冬、腕の傷はあとで於光様にも確認していただけ!」


「はい!」


「はい!」


小平太は、とうとう天井を見上げた。


「ここは本当に療養なのか」


新介が答えた。


「療養だ。かなり徹底した」


「戦場より命令が細かい」


「その方が生き残る確率は上がる」


「お前はもう順応したのか」


「理に適っている」


「それを言われると反論しにくい!」


義銀は、洗われながらぽつりと言った。


「叔母上は、怖いだろう」


小平太は歯を食いしばる。


「まだ本人に会っていないのに、もう怖い」


新介は自分の巻き直された指を見る。


「優しい方だと思っていた」


「優しい」


義銀は即答した。


「本当に優しい。だから怖い」


小平太は、ようやく少し理解した。


優しいから、傷を見逃さない。


優しいから、無理を許さない。


優しいから、汚れたままでは通さない。


それは確かに、ある意味で戦場より厳しい。


やがて、三人はすっかり洗われた。


泥も落とされた。


血も拭われた。


傷口も洗われた。


爪の間まで確認された。


新しい布で巻き直され、清潔な衣へ着替えさせられた。


小平太は、ぐったりしていた。


「戦の後に、まさか風呂で消耗するとは」


新介も、少しだけ疲れた顔をしている。


「だが、傷はすっきりした」


「それはそうだが」


義銀は死んだ目のまま言った。


「これで終わりではない」


小平太が顔を上げる。


「まだあるのか」


「布団だ」


「布団?」


新介が静かに言う。


「寝かされるのか」


義銀は頷いた。


「確実に」


その予言は、当たった。


三人が通された広い部屋には、すでに布団が敷かれていた。


三つ。


いや、少し離れて、勝家の分もある。


四つ。


勝家はすでにそこにいた。


肩に布を巻かれ、渋い顔をしている。


だが、布団に入っていた。


鬼柴田が。


布団に。


小平太は、もう驚きすぎて声も出なかった。


「勝家殿まで……」


勝家は低く言った。


「藤乃の命だ」


それで全てが説明された。


義銀は大人しく自分の布団へ入った。


新介も合理的判断として布団へ入った。


小平太だけが最後まで少し抵抗した。


「俺は座っているくらいなら」


奥から声が飛んだ。


「小平太殿?」


小平太は即座に布団へ入った。


藤乃の声だった。


まだ姿は見えない。


けれど、声だけで十分だった。


「……入った」


義銀が小さく言う。


「早かったな」


小平太は布団の中で言った。


「声が怖い」


新介も静かに頷いた。


「分かってきた」


襖が開き、藤乃が姿を見せた。


もちろん、立っているわけではない。


布団の上に身を起こし、於光に支えられている。


顔色はまだ白い。


出産直後の疲れも残っている。


けれど、その目はしっかりしていた。


奥からは、藤七丸の小さな寝息が聞こえる。


藤乃は四人を見た。


勝家。


義銀。


小平太。


新介。


全員、布団の中にいる。


傷は洗われ、布も巻き直され、清潔な衣に替えられている。


藤乃は、ようやく少しだけ息を吐いた。


「よろしいです」


その一言に、柴田家の者たちが一斉に安堵した。


本気で安堵した。


小平太は、それを見て思った。


この屋敷では、藤の方様の「よろしいです」が勝利の合図なのかもしれない。


藤乃は、まず勝家を見た。


「勝家様」


「うむ」


「布団から出ないでください」


「……うむ」


「藤七丸を抱きたいなら、治してください」


「分かった」


勝家は即答した。


小平太が目を見開く。


鬼柴田が即答。


これが、藤七丸の力か。


次に、藤乃は義銀を見た。


「義銀」


「はい、叔母上」


「無事に帰ってきてくれて、ありがとう」


義銀の目が揺れた。


「ただいま戻りました」


「崖を下ったことは、あとで詳しく聞きます」


「……はい」


「怒るかどうかは、その後決めます」


「はい」


死刑宣告を待つ罪人のような声だった。


小平太と新介は、さすがに少し同情した。


次に、藤乃は新介を見る。


「新介殿」


「はい」


「指は、必ず毎日見せてください」


「承知しました」


「噛み傷は怖いです。腫れたり熱を持ったらすぐに言ってください」


「はい」


「勝手に布を外さないこと」


「はい」


新介は素直だった。


藤乃は満足そうに頷く。


「よろしいです」


最後に、小平太。


「小平太殿」


「はい」


「膝」


「はい」


「かすり傷ではありません」


「はい」


「歩けるからといって歩かないこと」


「はい」


「槍を振れるからといって振らないこと」


「はい」


「布団から勝手に出ないこと」


「はい」


「返事はよろしいです」


「ありがとうございます」


「守ってください」


「……はい」


小平太は、とうとう完全に負けた。


藤乃は、全員を見渡す。


そして、表情を少しだけ柔らかくした。


「皆様」


四人が藤乃を見る。


「戦功、おめでとうございます」


その声は、先ほどまでとは違っていた。


柔らかく、温かい。


「信長様から、皆様がどれほど働いたか聞いております。義元公を討ったことも、崖を下ったことも、一番槍も、義銀を守ったことも、岡部元信を討ったことも」


藤乃は、ゆっくり頭を下げた。


産後の身体で、無理をしない範囲で。


それでも、心から。


「生きて帰ってくださって、ありがとうございます」


誰も、すぐには返せなかった。


小平太は、照れたように目を逸らした。


新介は静かに頭を下げた。


義銀は唇を噛んだ。


勝家は、藤乃をじっと見ていた。


藤乃は顔を上げる。


そして、いつもの調子を少しだけ取り戻したように言った。


「ですので、今度はちゃんと治す番です」


「はい」


義銀が答える。


「承知しました」


新介が答える。


「……はい」


小平太が少し遅れて答える。


「うむ」


勝家も答える。


藤乃は満足そうに頷いた。


「よろしいです」


その時、奥の部屋から小さな泣き声が聞こえた。


藤七丸だった。


勝家が反射的に起き上がりかける。


藤乃の目が向く。


勝家は、途中で止まった。


そして、ゆっくり布団へ戻った。


「……起きていない」


「はい。よろしいです」


小平太が小声で呟いた。


「鬼柴田が、赤子の泣き声で起きかけて、藤の方様の目で戻った……」


新介が静かに答える。


「貴重なものを見た」


義銀が小さく言う。


「黙っていた方がいい」


小平太はすぐに口を閉じた。


藤乃は赤子の声を聞き、少しだけ柔らかい顔になる。


「藤七丸も、皆様にお帰りなさいと言っているのかもしれませんね」


「泣いているだけでは」


小平太がうっかり言った。


藤乃が振り返る。


小平太は布団の中で背筋を伸ばした。


「お帰りなさいと言っています」


「よろしいです」


新介が、ほんの少しだけ笑った。


義銀も笑った。


勝家の口元も、わずかに緩んだ。


柴田邸の療養部屋には、戦場とは違う緊張があった。


煮た湯。


清潔な布。


薬。


布団。


監視の目。


そして、鬼柴田よりも怖い、鬼柴田の妻。


だが、その怖さは、命を守るための怖さだった。


小平太と新介は、この日初めて知った。


藤の方様は、優しい。


本当に優しい。


ただし、怪我人が自分の傷を軽く扱った時だけは。


鬼柴田よりも、ずっと怖い。


清洲で受けた褒賞よりも早く。


二人は、その事実を骨身に刻むことになった。


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