表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田と忙しない姫

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/51

第十話 叔母上は、やはりすごい

藤乃叔母上は、また何でもないことのように、とんでもないことをなさった。


「掛ける時は、こうして桁を揃えます」


叔母上はそう言って、紙の上に数字を並べた。


その周りを、柴田家の文官たちが囲んでいる。


渋川八右衛門殿。

於光様。

それから、帳面を扱う者たち。


普段は落ち着いているはずの者たちが、皆、叔母上の筆先を食い入るように見ていた。


叔母上は、少し困ったように笑っている。


「いえ、本当に難しいものではなくてですね」


そう言いながら、叔母上は筆を動かした。


一の位。

十の位。

百の位。


先ほど教えてくださった足し算や引き算と同じように、桁を揃える。


それから、掛ける数を一つずつ分けて、順に計算していく。


「この段は、一の位を掛けます。次は十の位なので、一つずらします」


「ずらす?」


八右衛門殿が身を乗り出す。


「はい。位が違うので、その分だけ場所もずらします」


叔母上はさらさらと書いていく。


私はその様子を見ながら、ああ、と思った。


いつもの叔母上だ。


守護邸で私に教えてくださった時と、同じ顔をしている。


『義銀、数はね、きちんと並べると見えやすくなるのよ』


『こういうのは、慌てたら負け。まず位を揃える。何を足して、何を引くのかを間違えない』


『兵糧も人も、数を間違えたら死ぬからね』


あの頃、私はただ頷いていた。


叔母上が教えてくれることは、不思議と分かりやすかった。


父上の語る斯波の威光よりも、家臣たちの口にする昔の名分よりも、叔母上の言葉の方がずっと現実に触れていた。


米がいくつあるのか。

何日持つのか。

千若にどれだけ食べさせられるのか。

薪は足りるのか。

布は何枚取れるのか。


叔母上の教えは、いつも生きることに繋がっていた。


「それを全部足せば、答えです」


叔母上が言う。


八右衛門殿は、目を見開いた。


「……早い」


「慣れれば、もっと早くなります」


「これなら、大きな数でも扱いやすい」


「そうですね。帳面の検算には便利だと思います」


叔母上は本当に、ただ便利なやり方を教えているだけ、という顔をしていた。


その顔を見て、胸が少しだけ苦しくなる。


叔母上は、自分がどれほどすごいことをしているのか、分かっていない。


いや、分かろうとしていないのかもしれない。


文官の一人が、恐る恐る口を開いた。


「姫君、では……割る時は、どのように?」


「割り算ですか?」


叔母上は少し考えた。


「ええと、割る数を見て、上から順に分けていきます」


そして、また紙に数字を書いた。


今度は、先ほどより少し複雑だった。


だが、叔母上は迷わない。


「まず、この数で割れるところまで見ます。余りが出たら、次の位を下ろします」


「下ろす?」


「はい。残った数に、次の位の数を合わせます」


叔母上は、ひとつずつ説明していく。


余り。

次の桁。

また割る。

また余りを見る。


八右衛門殿は、完全に実務の顔になっていた。


文官たちも同じだ。


皆、叔母上の筆先を見ている。

叔母上の声を聞き逃すまいとしている。


私は、その光景を少し不思議な気持ちで見ていた。


守護邸では、叔母上の知恵は家の奥にあった。


台所にあった。

米櫃の前にあった。

千若の小袖を縫う手元にあった。

私に字を教える小さな部屋にあった。


誰もそれを見ようとしなかった。


父上も。

家臣たちも。


いや、見ていた者もいたのだろう。


だが、見ていても、認めなかった。


女だから。

姫だから。

嫁げぬ妹だから。


叔母上は、いつもその程度に扱われていた。


ふと、昔聞いた言葉を思い出した。


まだ守護邸にいた頃だ。


後に裏切ることになる家臣たちが、酒の席で話していた。


『先代様は、よく嘆いておられたな』


『藤乃姫が男であったなら、と』


『あの方が男なら、斯波もまだ違ったやもしれぬ』


その時、私は柱の陰でそれを聞いていた。


亡き祖父の言葉だという。


藤乃が男なら。


その言葉を聞いた時、私はひどく腹が立った。


では、女であれば何なのだ。


叔母上は、私に字を教えた。

千若を育てた。

米を数え、薪を数え、家臣の顔色を見て、守護邸の奥をどうにか回していた。


男なら、などと。


叔母上が男であったならと言う前に、今そこにいる叔母上を見ればよかったのだ。


そう思った。


だが、その時の私は幼かった。


何も言えなかった。


今も、言葉にはできない。


けれど、この計算一つで、改めて分かった。


やはり、叔母上はすごい。


家にあっただけの本で学んだ。


誰かに正式に教えられたわけでもない。

良い師がついたわけでもない。

たぶん、男であれば与えられたはずの機会は、何も与えられなかった。


それでも叔母上は学んだ。


学んで、使えるものにして、私たちに教えた。


私と千若に。


生きるために。


「義銀」


不意に、叔母上が私を呼んだ。


私ははっと顔を上げる。


「はい、叔母上」


「ここ、やってみる?」


叔母上が、紙をこちらへ寄せた。


掛け算だった。


文官たちの視線が、私に向く。


少し緊張した。


けれど、叔母上が見ている。


ならば、間違えたくなかった。


私は筆を取った。


桁を揃える。

一の位を掛ける。

十の位を掛ける時は、一つずらす。

最後に足す。


叔母上に教わった通りに。


答えが出る。


叔母上が、にこりと笑った。


「うん。合ってる」


その顔を見た瞬間、胸の奥が少しだけ熱くなった。


文官たちがざわめく。


「若君も……」


「お見事な」


八右衛門殿が目を細めた。


「義銀様は、本当に覚えが早い」


違う。


覚えが早いのではない。


叔母上が、ずっと教えてくれたのだ。


私はそう言いたかった。


だが、叔母上は何でもないことのように言う。


「義銀は昔から、こういうの得意なんです」


昔から。


その言葉に、少しだけ救われた気がした。


柴田の屋敷に来てから、私は何度も思った。


これからは、私がしっかりしなければならない。


父上は亡くなった。

斯波の屋敷は燃えた。

叔母上も、千若も、もう私が守らなければならない。


勝家殿に助けられた。

柴田家に預けられた。


だが、いつまでも守られてばかりではいられない。


私が、早く強くならなければ。


早く学ばなければ。


早く、叔母上を支えられる男にならなければ。


そう思っていた。


肩に力が入る。


背筋を伸ばす。


今度こそ、叔母上に心配をかけないように。


その時だった。


「よくできました」


叔母上の手が、私の頭に乗った。


ぽん、と。


軽く撫でられる。


私は固まった。


文官たちがいる。

八右衛門殿もいる。

於光様もいる。


私はもう元服している。


斯波義銀と名乗っている。


幼名で呼ばれる子供ではない。


なのに、叔母上は当たり前のように私の頭を撫でた。


「叔母上」


思わず、小さく抗議する。


「私はもう元服しております」


叔母上は、きょとんとした。


それから、少し困ったように笑う。


「知ってるわよ」


「では」


「でも、私から見たら義銀は義銀だから」


その言葉に、何も言えなくなった。


ずるい。


叔母上は、時々ずるい。


私は斯波の嫡男だ。

父を失った。

家を失った。

千若の兄だ。

これからは叔母上を支えなければならない。


そう思っているのに。


叔母上の前では、私はまだ、川へ魚を獲りに行って叱られる甥なのだ。


「……子供扱いです」


「嫌だった?」


嫌ではない。


嫌なはずがない。


私は目を伏せた。


「……嫌では、ありません」


叔母上は小さく笑った。


「なら、もう少しだけ撫でさせて」


そう言って、また私の頭を撫でる。


私は、周囲の視線が気になって仕方がなかった。


けれど、振り払うことはできなかった。


少し恥ずかしい。


とても恥ずかしい。


だが、嬉しかった。


於光様が、微笑んでいる気配がした。


八右衛門殿は、何か言いたそうにしながらも黙っていた。


文官たちは、なぜか少し優しい目をしていた。


やめてほしい。


本当にやめてほしい。


けれど、叔母上の手は温かかった。


守護邸で、夜遅くまで私に字を教えてくれた手。

千若の小袖を縫った手。

少ない米を数えた手。

火事場で千若を抱き締めていた手。


その手が、私の頭を撫でている。


私は、少しだけ肩の力を抜いた。


まだ、強くならなければならない。


それは変わらない。


だが、今すぐ全部を背負わなくてもいいのかもしれない。


叔母上が、まだ私を子供として見てくれるなら。


私はもう少しだけ、叔母上の甥でいられるのかもしれない。


そう思ってしまった。


「義銀」


叔母上が言う。


「今度、千若にももう少し難しい計算を教えてあげましょうか」


「……はい」


私は苦笑した。


「千若は喜ぶと思います」


「義銀も一緒にね」


「私はもうできます」


「復習は大事よ」


そう言われると、何も返せない。


叔母上は、本当に昔から変わらない。


変わらないのに。


少しだけ、頬に色が戻った気がした。

以前より、手が冷たくない気がした。

柴田家に来てから、ほんの少しだけ、叔母上の細さが和らいだ気がした。


それが、嬉しかった。


これからは、私が頑張らなければ。


そう思う。


けれど同時に、もう少しだけこの手に撫でられていたいとも思った。


私は、それを口には出さなかった。


ただ、叔母上の隣で、もう一枚の紙を引き寄せた。


「では、叔母上。次は割り算を」


叔母上が、嬉しそうに笑った。


「うん。やりましょう」


その笑顔を見て、私は改めて思った。


やはり、叔母上はすごい。


そして私は、いつかこの人を支えられる男になりたい。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ