表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鬼柴田と忙しない姫 〜守護邸が燃えたので、柴田勝家の妻になりました〜  作者: まるちーるだ
鬼柴田と忙しない姫

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/47

第九話 帳面の数字が合いません

翌日。


於光様に呼ばれた私は、少し緊張しながら奥の一室へ向かった。


いや、緊張する。


普通に緊張する。


昨日、於光様から「明日、少しお手伝いいただきたいことがあります」と言われた時、私は思わず前のめりになった。


仕事。


仕事である。


掃除は止められた。

皿洗いも止められた。

薪運びは義銀ともども止められた。

葱を勝手に抜くことも禁じられた。


だが、仕事を任せてもらえる。


これは大きい。


私は、柴田家の客人である。

それは分かっている。


でも、客人として何もせずに座っていると、どうしても落ち着かない。


食べて、寝て、休む。


それが必要だと頭では分かっている。

分かっているけれど、心が休まらない。


守護邸では、何かをしていなければ家が回らなかった。


米を数え、薪を数え、千若の小袖を繕い、義銀に字を教え、兄上の機嫌を見て、家臣の顔色を見た。


何もしない時間は、不安になる。


だから、於光様が仕事を任せてくれると言った時、心の底からほっとした。


そして同時に思った。


よし。


ちゃんと役に立とう。


そう思っていたのだが。


「藤乃姫、こちらを見ていただけますか」


於光様が差し出したのは、帳面だった。


帳面。


まさかの帳面。


私は一瞬、固まった。


いや、前世では社会人だった。

数字は苦手ではない。

むしろ、三國志の年表を覚えるくらいには数字には強い。


だが、ここは戦国時代である。


帳面の字が、まあ、読みにくい。


単位も違う。

表記も違う。

何より、全部手書きである。


エクセルがない。


電卓もない。


ついでに、令和の便利な会計ソフトもない。


転生特典はどこですか。


ここでも私は、地道に読まなければならないらしい。


「無理のない範囲で構いません。書き写しの抜けや、数字の違いがないかを見ていただければ」


「はい」


私は頷いた。


そして帳面を開いた。


米。

味噌。

薪。

布。

薬。

馬の飼葉。


柴田家の奥向きに関わる帳面らしい。


ふむふむ。


なるほど。


うん。


……ん?


私は、目を止めた。


ここの合計、合ってなくない?


いや、待て。


もう一度見よう。


私は数字を追った。


一つ目。

二つ目。

三つ目。


足す。


もう一度、足す。


やっぱり合っていない。


「あの、於光様」


「はい」


「ここの合計、違うような」


於光様が瞬きをした。


「どちらですか」


「ここです。米の項目なのですが、こことここを足すと、この合計にはならないと思います」


於光様は帳面を覗き込んだ。


そして少し眉を寄せる。


「……本当ですね」


「あと、こちらも」


私は別の行を指した。


「こちらは引き算が違います。残りの数が多く書かれています」


「まあ」


於光様の声が、少し低くなった。


怖い。


いや、私に怒っているわけではないと分かる。

分かるけれど、於光様の低い声は怖い。


「他にもありますか」


「少しお待ちください」


私は帳面をもう一度見た。


気になる。


ものすごく気になる。


こういう数字のズレは、放っておくと後で大変なことになる。


米が一俵違えば、食べられる人数が変わる。

薪が一束違えば、冬の火が変わる。

薬が一つ違えば、誰かの命に関わるかもしれない。


数字は、ただの数字ではない。


家の命綱だ。


私は、近くにあった紙を一枚借りた。


「少し、書いてもよろしいですか」


「ええ」


筆を取る。


墨をつける。


そして、数字を縦に並べた。


桁を揃える。


一の位。

十の位。

百の位。


和数字だと少し面倒だが、頭の中で現代式に置き換えれば何とかなる。


縦に足す。

繰り上げる。

引く。

借りる。


筆算である。


懐かしい。


ありがとう、義務教育。


私は黙々と計算した。


一つ。

二つ。

三つ。


間違いが、出る。


出る。


出る。


いや、多くない?


私は思わず顔を上げた。


「……於光様」


「はい」


「こちら、計算違いが少々多いようです」


「少々、ですか」


「少々……ではないかもしれません」


於光様の目が、すっと細くなった。


あ。


これは柴田家の誰かが怒られる気配。


私は慌てて言った。


「あ、でも、書き写しの時にずれた可能性もありますし、急ぎの帳面なら仕方ないこともあると思います」


前世でもそうだった。


忙しい時ほどミスは出る。

人間が手でやる以上、間違いは出る。


責めたいわけではない。


ただ、合わないものは合わない。


私は再計算を続けた。


気づけば、於光様が黙って私の手元を見ていた。


「藤乃姫」


「はい」


「今のは、どのように?」


「え?」


「ずいぶん早く、正確に数を合わせられましたね」


しまった。


私は筆を持ったまま固まった。


やばい。


やりすぎた。


つい、前世の感覚で計算してしまった。


いや、でも帳面の数字が合わないのが悪い。

数字が合わないと気になる。

気になったら計算するしかない。


だが、この時代に筆算がどれくらい一般的なのか、私は知らない。


算木?

そろばん?

何かそういうものはあるかもしれない。


でも、私がやったのは完全に令和式の筆算である。


やばい。


どう誤魔化す。


そう思った時だった。


「叔母上?」


声がして、義銀が顔を出した。


どうやら勝家殿との鍛錬を終えたところらしい。

少し汗をかいている。


「あら、義銀様」


於光様が柔らかく声をかける。


「ちょうどよいところへ。藤乃姫が帳面の計算を見てくださっていたのですが」


義銀の目が、私の手元の紙に向いた。


そして、あっさりと言った。


「あ、藤乃叔母上の計算式ですね」


私は固まった。


義銀。


義銀さん。


そこで言う?


於光様の目が、すっと義銀に向く。


「義銀様は、これをご存じなのですか」


「はい」


義銀は普通に頷いた。


「叔母上に教わりました。桁を揃えると、数えやすいのです」


於光様の視線が、私に戻る。


私は笑った。


笑うしかなかった。


「ええと、その、簡単なやり方でして」


「義銀様も、できますか」


「できます」


義銀は当然のように答えた。


於光様は紙を差し出した。


「では、こちらを」


義銀は筆を取り、私と同じように数字を並べた。


桁を揃える。

足す。

繰り上げる。

引く。


早い。


正確。


うん。


教えたのは私だ。


でも、いざこうして人前でやられると、やばい。


於光様の顔が、どんどん真剣になっていく。


そこへ、千若までひょこっと顔を出した。


「兄上、何してるの?」


「計算だ」


「僕もできる!」


千若。


かわいい。


かわいいけど、今は来ないで。


於光様が、ゆっくりと千若を見た。


「千若丸様も、できますか」


「うん!」


「では、こちらを」


於光様、試すのが早い。


千若は嬉しそうに筆を持った。


六歳である。


令和なら小学校一年生くらいだ。


それでも、千若は真剣な顔で数字を見た。


「ここを、そろえるんだよね」


そして、たどたどしくも、ちゃんと桁を揃えた。


小さな手で筆を動かす。


足す。


繰り上げる。


少し間違えて、義銀が横から直す。


「千若、そこは一つ上へ持っていく」


「あ、そっか」


そして、答えを出した。


合っていた。


於光様が、完全に黙った。


私は遠い目をした。


終わった。


何かが終わった気がする。


その時、廊下の向こうから足音がした。


「於光、何かあったのか」


現れたのは、渋川八右衛門殿だった。


於光様は、手元の紙を無言で差し出した。


八右衛門殿はそれを見る。


まず、帳面を見る。

次に、私の書いた計算を見る。

義銀の書いたものを見る。

千若の書いたものを見る。


そして、眼鏡があったら絶対にずり落ちていただろう顔をした。


「……これは?」


「藤乃姫の計算式だそうです」


於光様が言った。


八右衛門殿が私を見る。


義銀が言う。


「叔母上に教わりました」


千若も言う。


「僕もできるよ!」


八右衛門殿は、ゆっくりと座った。


胃を押さえながら。


「藤乃姫」


「はい」


「このやり方を、教えていただけますか」


「あ、はい」


教えるくらいなら問題ない。


たぶん。


私は紙を取り、説明を始めた。


「まず、桁を揃えます。大きい数も、小さい数も、位を揃えると見やすくなります」


八右衛門殿は真剣に聞いている。


於光様も聞いている。


義銀と千若は、当然のような顔をしている。


「足し算の場合は、下から順に足して、十を超えたら次の桁に一つ上げます。引き算の場合は、足りなければ隣の桁から借ります」


「借りる?」


「ええ。たとえば、こちらの桁が足りない時は、上の桁から一つ借りて十にするのです」


説明しながら、私は実例を書いた。


八右衛門殿の顔が変わった。


最初は驚き。


次に理解。


そして最後に、実務家の顔。


「ああ……これは早い」


「そうですね。慣れれば、かなり早く確認できます」


「帳面の検算にも使えますな」


「はい。合計の確認には便利です」


八右衛門殿の目が輝いた。


実務の人だ。


この人、完全に実務の人だ。


便利なものを見た時の顔が、前世の仕事場で新しい表計算関数を覚えた人と同じである。


少し親近感が湧いた。


「藤乃姫」


「はい」


「この計算は、どこで?」


来た。


来てしまった。


私は固まった。


どこで。


どこでと言われても。


令和の小学校です。


とは言えない。


前世です。


もっと言えない。


私は必死に頭を回した。


斯波家。

守護家。

落ち目とはいえ、文書はあった。

本もあった。

古いものも、読めないものも、いっぱいあった。


燃えたけど。


燃えたから、もう確認できないけど。


ごめん。


燃えたのを利用する。


私は目を泳がせながら、言った。


「……屋敷には、文書だけはたくさんありましたので」


八右衛門殿が黙る。


於光様も黙る。


私は続けた。


「古い書物や、帳面の類も多く……その中に、こうした数の扱いについて書かれたものも、あったような……なかったような……」


自分で言っていて苦しい。


苦しいが、押し通すしかない。


「燃えてしまいましたし、どの本だったかは、もう分からないのですが」


その瞬間、於光様の顔が変わった。


八右衛門殿も、息を呑んだ。


しまった。


私は内心で慌てた。


あ。


生家が燃えた話、重かった?


いや、重い。


普通に重い。


でも、今のは誤魔化しとしては悪くないはず。


証拠は燃えた。

本は燃えた。

確認できない。


よし。


たぶん誤魔化せた。


私は内心で胸を撫で下ろした。


一方で、於光様はそっと目を伏せた。


八右衛門殿は、痛ましそうな顔をした。


「……そうでしたな。守護邸は」


「ええ」


於光様が静かに言う。


「大切なものも、多く失われたのでしょう」


私は頷いた。


「はい」


嘘ではない。


本当に失った。


兄も。

屋敷も。

甥たちの居場所も。

米櫃も。

葱畑も。


そして、たぶん本も燃えた。


だから嘘ではない。


ただ、その本に筆算が書かれていたかどうかは、かなり怪しい。


いや、書かれていたことにしよう。


あった。


多分あった。


本がたくさんあったから。


あったはず。


たぶん。


八右衛門殿は、しばらく沈黙してから、深く頭を下げた。


「つらいことをお聞きしました。申し訳ございませぬ」


え。


謝られた。


私は慌てた。


「い、いえ、その、気になさらず」


「ですが、この計算の仕方は、実に役立ちます。もし藤乃姫がよろしければ、私にも、屋敷の者にも教えていただきたい」


「それはもちろんです」


私は即答した。


「役に立つなら、いくらでも」


於光様が、少し驚いた顔をする。


「よろしいのですか」


「はい。難しいものではありませんし、帳面の間違いが減るなら、その方がいいと思います」


八右衛門殿の顔が、感動に近いものになった。


やめて。


そんな顔をしないで。


ただの筆算です。


令和の小学生が習うやつです。


でも、八右衛門殿はとても真剣だった。


「では、後ほど改めて、時間をいただきます」


「はい」


義銀が少し誇らしげに私を見る。


千若もにこにこしている。


「藤乃おば様、すごいね」


「千若もできたでしょう?」


「うん!」


千若が笑う。


その笑顔に、私はほっとした。


よかった。


とりあえず、誤魔化せた。


文書が燃えたので確認できません作戦、成功である。


そう思っていた。


けれど、その横で於光様と八右衛門殿が、ひどく痛ましそうな顔をしていたことに、私は気づいていなかった。


彼らはきっと、こう思っていたのだろう。


藤乃姫は、生家が燃えたことを、まだ平気な顔で口にしてしまうほど追い詰められているのだ、と。


一方の私は、こう思っていた。


よし。


前世の知識、なんとか誤魔化せた。


完全にすれ違っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ