16 四つの牙と
いつもならば安心と嬉しさを感じるはずの父の笑顔が、今はシャロに怖ろしさを感じさせた。
本能的に耳としっぽを立てて飛び退ろうとしたシャロだったが、信じられない力で肩を押さえられていて父のような何かの手から逃れることは叶わなかった。
「いたっ…!」
「どこに行こうというんだい?」
もはやそれは、父の姿をとることもやめていた。
シャロの肩をつかみ、間近でそのおびえた表情を覗き込むのは、狐。シャロが一度も見たことがないような黒い服に身を包んだ、三本の尾を持つ狐族の女だった。
その体に人間の血を感じさせるところはなく、明らかに一等臣民である。しかしながら胸だけは人間のように豊満であった。彼女の身を包んでいる衣もそれを強調しているようである。
もしここにロリンがいれば、魔改造した着物を着た化け狐と評しただろう。
化け狐、十傑が四つの牙フォウは、人に不快さと恐怖だけを感じさせるような笑みをその狐の顔に浮かべていた。それは獲物を捕らえた獣の笑み。
至近距離にある肉食獣の顔が、シャロに命の危機を抱かせ、大胆な行動をとらせた。
「いやああっ!」
「っ!?…餓鬼ぃ!」
シャロの闇雲に振るった手が、奇跡的に耳に当たった。そして更に運のいいことに、鼓膜に破るとまではいかないがダメージを与えることに成功したのだ。
死の恐怖が、火事場の馬鹿力のように秘められた獣の力を呼び覚まし、遥か格上に一撃を与えることに成功したのだ。シャロが人間の子供なら起きなかっただろう奇跡だった。
そして、まさか三等臣民の、しかも子供から有効な反撃をされるなど考えてもいなかった四つの牙は腕から力を抜いてしまった。
結果シャロは脱出に成功した。
四つの牙の拘束から抜け出したシャロは、闇雲に走った。
家の方向や声が聞こえる場所に向かうことなど考える余裕もなかった。
人間の子供ではありえない、獣の力で以って地を駆け枝の上を飛び必死に逃げた。
しかし、相手は獣人最強の一〇人のうちの一人。奇跡は二度も起こらない。
人間の子供よりいくら速くともそんなことは関係ないのだ。
当たり前のように時間がたてば体力もなくなっていき、必然的にシャロは追いつかれた。
「つーかまーえ、たっ!」
シャロを乱暴に押さえるフォウの顔には隠そうともしない怒りがあった。
体力はつき、抵抗する力ももはやないシャロにできる唯一のことは、叫ぶことだけだった。
「いやあああああああ!!!助けてええええ!!!」
「お黙り!」
しかし、それすらもできなくなる。
「っ!っっ!?」
フォウがシャロを一睨みすると、それだけでなぜかシャロは声が出せなくなった。
これはフォウの技能、幻惑魔法の金縛りであった。
フォウの一族、狐族は百年ほど前までは、弱小の一族であった。
獣人族にしては頭が良く働く一族だったが、それは獣人にとっては些細なことであった。
彼らが尊ぶのは物理的な力であり、知力と呼ばれるものではなかったからだ。
しかし彼女の一族は、皮肉なことに勇者の侵攻で力を得ることになった。
それは、魔法という力。
初代十傑のうち五人の犠牲と引き換えに葬った勇者の一人は、魔法使いだった。
その者が持っていたものの価値がわかったのは、狐族だけだった。
もとより、獣人族には魔法が使えないというのが信じられており、故に魔法を学ぼうなどということを言い出すものはいなかった。
そしてそれは、勇者の侵攻のときに大きな弱点となった。
魔法に対して、最初のころは対策がほとんど取れなかったのである。
狐族は魔法を学ぶことによりその対処の仕方を得て、先の悲劇が繰り返されないようにしたいと思ったのだ。
結果としてそれは、思わぬ副産物を生んだ。
狐族から魔法使いが生まれたのである。
幻惑魔法という魔法しか使えず、狐族以外の獣人族にはやはり使えなかったものの、狐族は立場を大きく変えた。
唯一魔法という力を持つ一族となったのだ。
その一族誇りの魔法が、シャロの体を縛る。
声が出せないという事実に困惑し、しっぽを足の間に挟んで震えるしかないシャロを、余裕を取り戻した捕食者の笑みでフォウが見つめた。
「今からあんたには、ユームにあってもらうよ」
「っ!?っっ!」
「十傑でありながら王に逆らい、誇りに泥を塗ったあいつのところにね」
「っ?」
「そして目の前で、いろいろしてあ、げ、る」
「っ!っっ!」
「まあ、もうアークトスあたりに殺されてるかもしれないけどねえ!」
「っっ!!っ!っっっ!!!」
涙を流しながら首を振り、耳をふさごうとするシャロに更に金縛りをかけ、手足も動かせなくする。
そしてシャロの前に立ち、頬からあご、首筋にかけてをゆっくりとなでた。
体を震わすことしかできないシャロの姿に、えもいわれぬ興奮がフォウを襲う。
歪んだ快感に身を任せ、更にシャロを弄ぼうとしたそのとき
「おいてめえ、なにやってんだ…」
地獄の底から響くような声が背後から聞こえた。
とっさの判断でシャロの首元に懐から取り出した小刀を、シャロを抱きかかえるようにして突きつけ、人質に取って振り返った。
それは、人間の幼い少女に見えた。
しかし、フォウの体に流れる獣の血が全力で警鐘を鳴らす。
アレは化け物だ、と。
「おい…」
人間の少女、ロリンの言葉に何も返さず、フォウは無言でかけれる限りの金縛りをロリンにかけた。
一瞬体が震え、動きが止まるロリン。
緊張から一転、安堵の息を吐こうとしたフォウだったが、ロリンは血のような赤色をした右目を一瞬だけ輝かせ、そのまま何もなかったかのように続けた。
「その子に傷一つつけてみろ、殺すぞ」
フォウは何も返せなかった。
自分の魔法は相手に一切通じそうにない。
幻惑魔法は相手と力量が離れすぎていると効きづらくなるのだ。
魔法は通じない、近接戦闘は普通の獣人より多少強い程度。
勝てる気が一切しなかった。
しかし彼女も十傑。一つ深呼吸し、相手の言葉から人質は有効のはずだ、と自分に言い聞かせ、何とか口を開いた。
「こ、この娘が大事なら、まずは武器を置きなさい」
声を震わせながらも、何とか言い切る。
意外にもロリンは、何も言わずに二本のダガーから手を離した。
心の中で胸をなでおろすフォウ。
人質の有効性は確実になった。
そのことにより、少し気を取り直したフォウは、更に要求した。
「そのまま手を頭の後ろで組んで、こっちにゆっくりときなさい」
今度は声が震えることはなかった。
ロリンはやはり、何の抵抗もせずに従った。
手を頭の後ろで組み、緩慢とした速度で以って二人に近づいていく。
自分には手のつけられない猛獣のように感じていた相手が、自分の言うことに意外にも素直に従う様子は、フォウの余裕をかなり取り戻させた。無理をすれば笑顔を作れる程度には。
ロリンが後一メートルというところまで迫ったとき、引きつった笑みを浮かべながらフォウは制止した。
「止まりなさい」
ぴたり、と動きを止めるロリン。
実体すら持ちそうなほど濃厚な敵意を瞳から放ちながらも、やはり言うことを聞かせられる。自分のほうが優位に立っている。
真に余裕を取り戻したフォウが、冷徹で残酷な笑みで何か言おうとしたとき、彼女の意識は途切れた。
金縛りがとけ、口を開けるようになったシャロは、解放された安堵よりも、味わっていた恐怖よりも、困惑にしたがってロリンに聞いた。
「お姉ちゃん、あれ…」
シャロが指差すフォウを押しつぶしているものに片手を着きながら、にっこりと微笑んでロリンは言った。
「これね、ニ木プルーンの成木」
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