あたたかな冬の星空の下で
音楽が聞こえる。タイトルは知らないけれど、ゆったりとしたクラシックの曲だ。
とても心地よい。
あたたかくて、ふわふわと浮いているような気分になる。
目を開けると、暗闇に無数の小さな光が輝いていた。見える範囲、視界の端までいっぱいに星空が広がっている。
ゆっくりゆっくり動いていく、たくさんの小さな星。
ああ、そうだ。
私達は今、星の海に浮かんでいるんだ。
ふわふわ、きらきら、いい気持ち。
もう少しだけ、このまま……。
◇
痛いほどに冷たく澄んだ冬の空気は、夜空の星をいつもよりいっそう輝いて見せる。だから私は冬の空が好きだ。これが本当の星の輝きなのだと、思い知らせてくれるような気がする。
でも、この辺りは冬にすっきり晴れることが少なく、往々にして空は雪雲に覆われている。
結露で曇った窓の外にちらちらと舞う雪を眺めながら、私は小さくため息をついた。今夜も星を見るのは難しそうだ。
変化に乏しい真っ白な景色から視線を屋内に移すと、広いロビーには、私以外の客は誰もいなかった。静かで現実感が無くて、自分だけがこの世界に取り残されてしまったような錯覚に陥る。周囲を見回すと、少し離れた受付で若い女性職員が退屈そうに自分の髪を弄んでいるのを見つけ、いつもと変わらない日常の一部なのだと安心した。
一月も半ばを過ぎた、ある土曜日の午後。私は直樹の勤める天文台にやって来ていた。
年末年始は二人とも帰省していたし、なかなかお互いの休みが合わないこともあって、彼に会うのは約一ヶ月ぶりになる。
基本的に週末が休みの私と違って、彼は今日も仕事だ。少し残念だけれど、これを逃したらまたしばらく会えなくなってしまいそうで、彼に会うついでにプラネタリウムを見に来たのだった。幸い明日の日曜日は彼も休み。一緒に遅めの初詣に行くつもりだ。
久しぶりに彼に会える。それだけで嬉しくて、遠足の前日の小学生みたいに、昨夜はよく眠れなかった。だけど、離れた場所に住む彼とは頻繁に会えるわけではないのだから、こんな気持ちになるのも悪いことではないと思う。
ロビーの壁には、何枚もの星の写真が飾られている。望遠鏡を使って撮影した月や木星、満開の桜の上に広がる星空など、どれもとても綺麗だ。
私が写真に見入っていると、プラネタリウムの入口の方から歩いて来る直樹が視界に入った。彼の姿が見えた途端、心がじんわりあたたかく幸せな気持ちになる。まるで夕暮れの空に一番星を見つけた時のように。
彼は私には気付かない様子でそのまま受付へ向かい、ぼんやりしていた同僚の女性に何か話しかけた。ここからでは話の内容は聞こえないが、一言二言会話を交わした後、彼女が笑って直樹の腕に軽く触れた。
何故だろう。
見た瞬間、胸が締め付けられるように痛んだ。
二人はとても親しそうに見えた。同じ職場で働く同僚なのだから、親しいのは当然なのだろう。でも急に、よく知っているはずの直樹が遠くへ行ってしまったように感じた。
直樹は私の知らない世界を持っている。
それは当たり前のことだ。どんな恋人同士だろうと、夫婦だろうと、四六時中ずっと一緒にいることなんて出来ないのだから。彼だって、私の職場での様子や普段の生活を知らない。
当然のことだ。
それなのに、どうしてこんなに、息がうまく吸えなくなるのだろう。
二人を見つめたまま動けずにいる私に気付いて、直樹が小走りに駆け寄ってきた。
「杏子さん! ごめん、来てくれたのに放っておいて」
「ううん。仕事だし、仕方ないよ」
私は内心を悟られないように、なんでもない風に彼に答えた。
私を見る直樹の目はやさしくて、笑顔だって、私が知っているいつもの彼の笑顔だ。私が不安に思うようなことは無いと分かっている。
でも。
他に好きな人が出来たと言って私から離れていったあの人も、私の知らない世界を持っていた。
違う。
私の考えすぎだ。
「そろそろ投影始まるよ。行こう」
彼に促され、ぐちゃぐちゃに絡まった思考のまま一緒に入口へ向かう。途中受付の前を通り過ぎる時に女性職員に会釈すると、彼女もにっこりと笑顔で会釈を返してくれた。
プラネタリウムのドームに入るとすぐに、中央に鎮座している大きな投影機が目に飛び込んできた。投影機の周りに並ぶ座席には、ぽつぽつと数人の客が腰掛けて、投影が始まるのを待っている。
雪の無い季節にはバーベキューをしたり公園の遊具で遊んだりする親子連れも多く、このプラネタリウムもたくさんの人で賑わっている。でもこの時期になると、週末でもあまり人は来ないようだ。
場内の後方にある操作ブースへ向かう直樹に小さく手を振って、私は後列の端まで進み腰を下ろした。
背もたれに体を預け、上を見る。これから星空が映される天井には、今は投影中の注意事項が表示されている。
腰掛けて落ち着くと、頭の中にさっき見た光景が再生された。
仲が良さそうな二人。
離れた場所に住む私よりも、同僚の彼女の方が、直樹と過ごす時間は多いのかもしれない。いや、たぶんそうだろう。彼女はきっと、私の知らない直樹を知っている。
そもそも私は、彼のことをどれほど知っているだろうか。
出身地、家族構成、血液型。ハンバーグやオムライスのように子供が好きな料理が好みで、ビール一杯ですぐに顔が真っ赤になってしまう。
それから……。
私はまだ彼について知らないことがたくさんある。子供の頃のあだ名、初恋の女の子、初めて見た映画。
それに、同僚の彼女と、どんな話をするのか。
知らないことばかりだ。
たぶん私より年下で、まだ二十歳を過ぎたばかりのように見えた彼女は、屈託なく笑っていた。
別にあの二人の間に何かあるとは思っていない。私に対する彼女の態度も、何もやましいことは無いように見えた。
それでもただの「受付の女性」だった彼女が、彼といるのを見た途端、自分の中で「彼のすぐ近くにいる可愛い女の子」に変わった。
そんな風に考える自分の心の狭さが嫌になる。
私はこんなに嫉妬深くて独占欲の強い女だっただろうか。
私が自己嫌悪に陥っていると、ふっと場内の明かりが消えた。投影が始まったようだ。
せっかく来たんだから、星空を楽しまないと。
頭を切り替えて、ドームの天井に目を凝らす。
映し出された、まだうっすらと青い空。西の空に太陽が沈み、一つ二つと星が見え始めた。空が暗さを増すにつれ、見える星の数もどんどん増えていく。ドームの空はあっという間に、無数の星座に彩られた。
『今見えているのが、今夜9時頃の星空です。晴れていれば、こんな風に見えます』
マイク越しの直樹のやわらかな声が、静かすぎるドームの空気をふわりと包む。
この時間のプログラムは今夜の星空案内で、既製の番組ではなく全て職員の生解説によるものだ。今日は彼が解説を担当するらしい。
『南の空を見てください。冬の代表的な星座、オリオン座が浮かんでいます。オリオン座を作る星は、一等星や二等星の明るいものが多いので、家の近くでも見つけやすいです。みなさんも、夜になったら家の外に出て、南の空を見上げてみてください』
直樹が言う南の空を見上げる。オリオン座のオレンジ色の星ペテルギウスと、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオンを結ぶと、冬の大三角だ。これくらいなら解説が無くても、自分で見つけられる。それはもちろん、彼に教えてもらったからなのだけれど。
私が冬の大三角を見つけるとすぐに、直樹がその説明を始めた。冬の大三角の説明が終わると、次は、冬のダイヤモンド。小さな子供にも分かるように、ゆっくり丁寧に話す彼の話し方が、私は好きだ。
解説はおうし座の星へと移っていく。
『おうし座の背中辺りに星がいくつも集まっているところがあります。これが、プレアデス星団です。日本では別の名前の方が有名です。聞いたら「ああ」と思う人もいるかもしれません。プレアデス星団の別名は、「すばる」といいます』
プレアデス星団。そうだ。
私はバッグから双眼鏡を取り出し、プレアデス星団を探した。
あった。肉眼では一つの塊のように見えたけれど、双眼鏡のレンズを通して見ると、いくつもの星の集合だということがよく分かる。そこから双眼鏡を今度はオリオン座に向け、オリオン大星雲を見つけた。本物と同じように、ぼんやりとしたガスの広がりも再現されている。
最近のプラネタリウムは数千万もの星を投影出来るので、双眼鏡を使えば、いつもよりもっと楽しめる。これも彼が教えてくれたことだ。
ひとしきりレンズ越しに暗めの星々を観察してから、私は双眼鏡を膝の上に置き、再び星空全体を見渡した。明るい星、暗い星。白や青、それに赤い星。私達の頭上には、こんなにたくさんの星がある。
ドームの中は暖房が効いていてあたたかい。本物の空で満天の星を見ようと思ったら、こんなに快適な状態では見られないだろう。
静かな場内には、相変わらず直樹のやさしい声だけが聞こえている。
とても居心地の良い空間だ。
頭上には、静かに光るたくさんの星。
暗さとあたたかさと、穏やかな彼の声。
どうしよう、今頃眠くなってきてしまった。
寝てはいけないと頭では分かっているけれど、誘惑に抗えずに、少しだけ、と目を閉じる。
このまま星の下で眠ったら、気持ちいいだろうな……。
「……さん。杏子さん」
やさしくて、でも少しくすぐったいような声が、私を呼んでいる。
重いまぶたを開けると、すぐ傍に直樹が立っていた。
ここは……。
ドーム状の白い天井、並んだ座席。彼に遮られてよく見えないが、私達以外には誰もいないようだ。
だんだん頭がはっきりしてきた。私はプラネタリウムの投影途中で眠ってしまったのだ。すでにプログラムは終了して、観客は皆帰ってしまったらしい。
「やだ、寝ちゃったんだ。ごめんね、直樹君が解説してたのに」
「……ううん。寝るのもプラネタリウムの楽しみ方の一つだから」
彼はそう笑ったが、一瞬何か言いたげな顔をしたように見えた。
どうしよう、怒らせた? それとも呆れた?
久しぶりに会えるからと子供みたいにはしゃいで眠れなくて、それで今寝てしまうなんて最悪だ。こういうことの積み重ねが、気持ちが離れてしまう原因になるかもしれないのに。
「ごめんね、本当にごめん」
「え? そんなに謝らなくても……。どうしたの? 具合悪い? もしかして、疲れてるのに無理して来てくれた?」
直樹が心配そうに私の顔を覗き込む。
私は本当に駄目だ。彼は彼のままで、何も変わっていない。それなのに、私が一人で勝手に不安になって、彼に心配をかけている。
「ううん、大丈夫。昨日楽しみで眠れなかっただけ」
私は彼を安心させるために笑顔を作った。
「本当? じゃあ、帰ったら杏子さんにだけ特別解説してあげるよ」
ほっとしたような表情で直樹が言う。
いつも大勢の観客に解説している彼を独り占め出来ると思うと、少し嬉しい。
でも。
私はプラネタリウムの投影前に見た空を思い出す。
「でも、今日は星見えないよ。プラネタリウムも無いし」
「アプリを使えばいいよ」
直樹の言う「アプリ」とは、スマホをかざした方角の星空が画面に映しだされるものだ。初めて会った時に彼に教えてもらって、私も今ではよく使っている。
彼は座る私に手を差し出して言った。
「空が曇っていても、雲の向こうにはこの星空が広がっているんだって想像するのも面白いよ」
ああそうか。
曇っていても、街の明かりで見えなくても、空には確かに星があるんだ。
遠く離れていても、私の知らない世界を持っていても、私が知っている彼はそこにいる。
それでいいんだ。
彼の手を取って、私は座席から立ち上がった。
そのままぎゅっと彼の手を握る。
いつからか、彼と手を繋ぐのに緊張しなくなったし、彼はもう私に敬語を使わない。
私を見つめる目、私の名前を呼ぶ声、私に触れる手。
私が知っている彼のこと。
私しか知らない彼のこと。
繋いだ手は、温もりを分け合って、だんだん同じ温度になっていく。
「ねえ、寝たの本当に怒ってない?」
「怒ってないよ。……でも、杏子さんの寝顔、他の人に見られるのは、ちょっと嫌かも」
ためらいがちに目を逸らしながら、直樹が小さく言った。もしかして、横に立っていたのは他の観客に見られないように私を隠していたからなのだろうか。
「今、すごく直樹君に抱き着きたくなったんだけど」
「え、今? ここで?」
キョロキョロと周りを見回す彼。皆もう帰って、私達だけなのに。
「誰もいないよ。あ、キスでもいいけど」
「えっ!? い、今は、ちょっと」
私の言葉に、直樹は分かりやすく狼狽える。こういう反応は相変わらずだ。こんなことを言ったら彼は嫌がるかもしれないけれど、とても可愛らしい。
そんな彼の様子を見ていたら、愛おしさで胸がいっぱいになって、思わず笑みがこぼれた。
「うん、仕事中だもんね。じゃあ後にする。だから、早く帰って来てね」
「分かった。待ってて」
落ち着きを取り戻して、彼も笑顔でそう言ってくれる。
もう大丈夫。
また不安になることもあるかもしれない。
でも私はきっと、私が知る彼を、信じていられる。
◇
誰かが私の名前を呼んでいる。
聞き慣れた、落ち着く声。
「おはよう、杏子さん。よく眠れた?」
「……直樹君」
目を開けると、直樹がこちらを覗き込んでいた。今見た夢とそっくりで、これが現実なのかよく分からなくなる。
ぼうっとした頭のまま周りを見回す。夢と同じく、明るくなったプラネタリウムの場内にはもう他の観客の姿は見えなくなっていた。
「うん、眠れた」
私は眠気覚ましに座ったまま伸びをして、膝に掛けていたブランケットを手に取った。温もりとふわふわの手触りが名残惜しくて、必要以上にゆっくり丁寧に畳んでしまう。
「でもちょっともったいない気もするよね。せっかく綺麗な星空が投影されてるのに見ないなんて」
「そういうイベントだよ。星の下で眠るのって、気持ちいいでしょう?」
「うん、そうだね」
今日は十一月二十三日、勤労感謝の日。年に一度、プラネタリウムで寝ようというイベントが開催される日だ。全国各地のプラネタリウム施設で一斉に行われるこの催しは、ここ、直樹の勤める天文台でも毎年開催されている。私が参加するのも今回で四度目になる。
彼の言う通り、星空の下で眠るのはとても気持ちいい。とはいえ、普段のプラネタリウムで眠るのには抵抗があるというのも事実だ。けれどこの日だけは堂々と寝られる。
私は、直樹に見た夢の話をした。
「あのね、夢を見たの。前に、プラネタリウムで寝ちゃった時の夢。直樹君が私の寝顔、他の人に見られたくないって言ってた時」
「はは、そんなこと言ってたかな」
彼が照れ臭そうに笑う。いつもの、私をほっとさせてくれる笑顔だ。膝に掛けたブランケットみたいにあたたかくて、夜空に光る星みたいにそっと見守ってくれるような。
「途中で目を開けたら星がいっぱいで、星の海に浮かんでるのかと思った」
「そっか。じゃあこの子も一緒に宇宙遊泳してたのかな。将来は宇宙飛行士かもね」
「もう、気が早いよ」
直樹が、大きくなった私のお腹を愛おしそうに撫でる。
宇宙飛行士になるかどうかは分からないけれど、この子もきっと、パパに似て星が大好きな子になると思う。だってお腹の中にいる時から、こうして一緒に星を見ているんだから。
私はほんの少し先の未来を想像する。
この子が生まれたら、いつか三人で一緒に星空を見に行こう。
春の夜空の夫婦星を探して、夏は流れ星に願い事を、秋には丸い月を眺めながら月の兎の話をして。
晴れない日にはプラネタリウムのドームに映った星空を見上げて、たまには星の下で一緒にお昼寝しよう。
彼がこの子に望遠鏡の使い方を教えるから、私は二人にあたたかい飲み物とおやつを用意して行こう。
それから。
夜空に輝く無数の星を繋いで、一緒に星座を作ろう。
見上げればきっと、小さな光はそこにある。
何年後も、何十年後も、ずっと。