おじさんの好きな動物
幼女さんが海で拾ってきた美女は、銀色の髪をしていた。
僅かに湿った髪は存分に海水を吸い込み、それでもなお艶やかに輝いている。
「おじさん、助かりますか?」
「――魔術C」
身体に叩き込まれた魔術を、言葉によって発現させる。
青空のようなドレスを透き通り、皮膚や肉を通り抜け、身体の奥底まで透過して美女の身体を覗き込む。
「外傷なし、心臓も動いている。水も溜まってないし、呼吸も安定してるね。大丈夫、助かるよ」
「そうですか。拾った甲斐がありました」
「しかし、どうやってここまで運んだ……いや何でもない」
幼女さんにそういう物理法則的な話は通用しない。
海で散歩していて、鯨が漂流していても持って帰ってくるような子だ。人ひとり、なんてことないだろう。
「しかしまあ……嫌な予感がするなぁ」
規則的な呼吸をして眠る女性には、外傷がない。
では、何故海岸に漂流していたのか。
昨日は晴天、船がひっくり返ることは決してないだろう。
「幼女さん、船とか近くにあった?」
「いえ。この綺麗なお姉さん以外は何もありませんでした」
「荷物とかも?」
「ゼロです」
「ふーむ」
この離島付近に、人が立ち寄れる場所などひとつもない。そして、船がこの付近を通る理由もただのひとつもないのだ。
当然、大陸方面でおぼれたってここまで辿り着く前に魚の餌になること間違いなし。
つまるところ……この人は何らか面倒な事態に巻き込まれている可能性が高い。
「おじさんおじさん」
「なんでしょう」
「この人を保護しましょう」
「まあ、この島俺達しかいないしなぁ」
さてさて、嫌な予感がひしひしとしてきた。
「こけこっこー」
という一言で、眠っている人を確実に目覚めさせる魔法を幼女様が生み出してしまわれた。
世の魔術師が聞いたら卒倒するだろう。
「チョイ待とうよ幼女さん、俺外国語とか分からないよ?」
「あ、でも目を覚ましましたよ」
「うぇっ――っ」
凄く、綺麗だった。
澄み渡るような、エメラルドの瞳が俺を覗き込んでいた。
マズい。これは、どうしようもなくマズい。
生まれたときから片田舎に引きこもっていたような青少年が、こんな綺麗な人に応対できると思うか、いやできない。
しかも相手はどう見ても外国人。
「……あなたは、誰ですか?」
すげぇ流暢な日本語を喋る外国人。
「おじさんはおじさんです」
「……あなたは?」
エメラルドの瞳が、今度は幼女さんを見つめる。
俺と違って幼女さんは動揺した姿を見せず、じっとその瞳を見つめ返していた。
「幼女さんは幼女さんです」
「なるほど」
まだ意識が朦朧としているのだろう。
上半身だけ起こした女性は、俺達の言葉をゆっくり咀嚼するように黙り込み。
「では、私は誰なのでしょうか?」
「分かりません」
「分かりません」
しばらくの間色々と話をした結果分かったこと。
美女は記憶喪失である。名前も出身も、どうして自分が海に流れ着いていたかすら不明だ。
とても優しい声をしていて、聞いていると落ち着くこと。
スタイルが非常に良いこと。
幼女さんと気が合いそうなこと。
以上だ。
「まあ、とりあえず明日にでも警察に連絡するとして」
「名前を決めましょう」
「どうしてそうなった」
「とても良い案だと思います」
「ええぇ……」
幼女さんの提案により、美女さんの名前を決めることになった。
「おじさんおじさん」
「はい、何でしょう」
「好きな動物は?」
「兎かな」
素直に答えてみると、幼女は無慈悲な宣告を下した。
「じゃあうさぎさんで」
「おかしいおかしい」
「じゃあラビさんで」
「とても素敵な名前です。ありがとうございます」
こうして、ラビさんに決定してしまったのです。
「ラビさんラビさん」
「はい、なんでしょうか」
漂流した女性、ラビさんは意識を取り戻して以降、青少年の心を揺さぶる素敵な女性へと変貌していった。
いや、実際には元の正確に戻ったというべきなのだろうが。
幼女さんが話しかけると、ラビさんはいつでも優しい笑みを浮かべて応えてくれる。
でもまあ、幼女さんが拾ってきたわけで、まず間違いなく訳有りなので。
「お散歩行きまませんか?」
「ええ、お供させていただきます」
「駄目に決まってるでしょ」
幼女さんの言うことに、基本反対してくれない。
夜は魔獣が出るから出ちゃ駄目だよって、毎日言っているのに聞いてくれない。
「ですが、おじさん」
「なんでしょう」
「警察が役立たずな以上、ラビさんの記憶を取り戻す手がかりを探すのは重要だと思うのです」
「ふむ、立派な言い訳だね。夜に行く理由は?」
警察に来てもらい、ラビさんについて調べてもらったが進展はない。
幼女さんが来て1週間、ラビさんは未だ俺の家で過ごしていた。
「簡単です。私は毎朝散歩に行きます。毎夕散歩に行きます」
「散歩は良いことですよ、お兄さん」
なぜそうなったのか、ラビさんは俺のことをお兄さんと呼んでくれる。幼女さんはおじさんとしか呼んでくれないのにだ。
そして、ラビさんは基本幼女さんの発言にイエスマンである。
「つまり、どういうこと?」
「ラビさんが島に来たのは、私が散歩していない夜の間ということです」
「なるほどね。じゃあ、お留守番していようか」
「…………」
「駄目です、拗ねても夜の散歩は禁止です」
幼女さんはやけに散歩に拘る。
朝、夕方、夜に散歩に行かないとすこぶる期限が悪くなるそうだ。だが、この島に来てからは夜の散歩を禁じている。
幼女さんにとっては、それがすこぶる不愉快なようだった。
「おじさんは優秀な魔術師ですよね」
「駄目です」
「もし魔獣が襲ってきたら、おじさんが守ってくれるのではないかと思うのですが」
「それさ、俺がひとりで海岸見に行く方が安全だよね」
「おじさんがピンチのときは私が守ります」
「頼もしいけどお休み」
魔獣は、想像を絶する力を持っていることがある。いくら幼女さんがとんでもない魔術師だとしても、危険なことには変わりない。
それに……。
「ラビさんラビさん」
「はい?」
「ラビさんは、記憶が戻ったら幸せですか?」
「その記憶が無いので、幸福かどうかは判断できませんね」
「……では、散歩は諦めるとしましょう」
これだ。
幼女さんは、身近な人間の幸福に対して異常な執着を見せる。
それが俺はとてつもなく怖い。
「諦めてくれて何よりだよ」
少しの安堵と、窮屈な思いを申し訳なさ。
そんなものを抱えて皆で家の中まで戻る。
幼女さんは何だかんだ聞き分けが良くて助かる…………と思っていたけど。
「はい、朝ごはんのピーマンです」
「…………」
「まあ、甘辛く煮たのですね。とても美味しそうです」
これはお説教だ。
約束を破った幼女さんへの、厳しいお説教。
「おじさんおじさん」
「今朝のご飯は白米とピーマンだけです」
「何故でしょう」
「幼女さん、昨日の夜に外出したよね」
容赦なく事実を突き付けてみると、幼女さんはたっぷり1分間黙り込んでしまった。
どうして気づかれたのか、嘘をつくべきかどうか。きっと悩んでいるのだろう。
「昨晩、俺は玄関と幼女さんのサンダルの裏、そして家の門にテープを貼っておきました。それが今朝起きた段階ではすべて剥がれています」
「……いただきます」
反論する余地はないと悟ったのだろう。
幼女さんは渋々といった様子で、白米にだけ手を付け始めた。決してピーマンには手を出さない。
幼女さんは、幼女らしく野菜類が好きではない。中でも、ピーマンはこの世の悪のように扱う。
「幼女さん、残さず食べようね」
「……はい」
俺達の静かな攻防は、幼女さんが屈服する形で幕を引いた。
とはいえ、だ。
「どうしても夜に散歩に行きたくなったら、今後は俺に言うこと」
「……連れて行ってくれるんですか?」
「娯楽も何もない島で遊んでもらう以上、あんまり不便な思いをさせたくはないからね」
ほかにだれも住んでいない離島に、当然娯楽施設などありはしない。
幼女さんも、日々の日課である散歩以外は基本ゴロゴロしているばっかりだ。
「身体、慣らしておかないとなぁ」
とはいえ、この娯楽は少々危険が伴いすぎる。
魔獣に、固定の形はない。
四足歩行をする狼のような姿をしているものや、二足歩行で動く巨大な熊みたいな奴もいる。
過去には、全長60メートルを超える化物が出現した例も存在する。
どんな時でもイレギュラーが発生する可能性を考慮しなくてはいけない。当然、そんなところに小さな女の子を連れて行くなど言語道断……なのだが。
「――魔術D」
幼女さんを本格的に怒らせるほうが、魔獣を相手取るよりよっぽど怖いというものだ。
ならば、多少の困難は乗り越えるとしよう。
剣を手に顕現させる。イメージしたのは、西洋の両刃剣。ずっしりとした重みが手に触れたところで強く握りしめると、魔力の集合体は鋼へと打ち替わる。
「よしっと」
「……これが、魔術」
武器の生成を横で見ていたラビさんは、興味津々で剣を覗き込んでいた。
何もない空間から、金属が出現したのが不思議なのだろう。
「ラビさん、本当にラビさんもついてくるの?」
「はい。命の恩人であるおふたりが死地に挑むというのであれば、私もお供しましょう」
「死地とか物騒なこと言わんでください」
まあ、確かに危険は伴うのだが。
本当に、そうとは思えないほど暢気なメンバーだ。
走る気なんて一切なくサンダルを履いた幼女さん。
俺の母親の服を借りているラビさんは、かろうじてランニングシューズ。だけど、スカート姿で機敏な動きを取るのは難しいだろう。
「んじゃ、夜のお散歩に行きますかね」
危険で、血が流れる楽しいお散歩に。