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ミス・ディオール  作者: はまゆう


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15/16

第15話 1950年代初頭—花屋の日々


一九五〇年。

五月。

レ・アール中央市場の花屋は、パリの市民たちの間で、完全に定着していた。

毎朝、午前四時。

カトリーヌとマルクは、世界中からの花を仕入れ、陳列した。

その営業スタイルは、今や、パリの一つの風物詩となっていた。

「The four o’clock flower shop」

朝四時の花屋。

その名前で、新聞に取り上げられたこともあった。

「A story of survival. A story of beauty after the war」

生存の物語。戦後の美についての物語。

カトリーヌは、その報道に、複雑な感情を覚えた。

自分が求めていたのは、メディアでの注目ではなく、ただ、静かに、花を売ることだった。

だが、その静かさそのものが、人々の心に触れていたのだ。

毎朝、常客たちが現れた。

マダム・ルック。六十代の未亡人。毎朝、ラッパズイセンを買っていく。

「For my daughter’s wedding」

娘の結婚式のために。

その結婚式は、もう五年前のことだった。だが、彼女は、毎朝、ラッパズイセンを買い続けていた。

ジャン。若い労働者。毎日、カーネーションを買っていく。

「For my sweetheart」

恋人のために。

その恋人が、今日からパリを去るという日も、彼は、カーネーションを買った。

その後、彼が戻ってきたのか、戻らなかったのか。カトリーヌは知らない。

だが、彼女は、毎朝、彼のために、一番美しいカーネーションを選んだ。

それが、カトリーヌの仕事だった。


-----



一九五〇年秋。

メゾン・ディオールは、パリを超えて、国際的な成功を収めていた。

『ニュー・ルック』は、単なるファッションの流行ではなく、戦後の時代精神の象徴となっていた。

クリスチャンは、ニューヨーク。ロンドン。ローマ。

世界中でファッションショーを開いていた。

メゾン・ディオールの拡大。スタッフの増加。国際的な認知。

すべてが、予想以上の速度で進行していた。

だが、その成功の中でも、クリスチャンは、妹のことを思い出していた。

毎朝、四時から働く妹。

花屋で、静かに、仕事を続ける妹。

その妹が、自分に与えてくれたインスピレーション。その妹への愛。

それらすべてが、兄の心の中に、常に存在していた。


秋。

クリスチャンのアトリエに、香水開発者たちが訪れた。

メゾン・ディオール初の香水。

その開発が、本格化していた。

「We need a name」

名前が必要だ。

「Something that represents the house」

メゾン・ディオールを象徴する何か。

デザイナー、香水開発者、マーケティング担当者。

複数の専門家たちが、名前の案を提示した。

「Dior」

「Elegance」

「Triumph」

だが、クリスチャンは、それらすべてに、首を振った。

その時、彼は、妹のことを思い出していた。

朝四時。パリの暗い時間に、妹は起きて、市場へ向かう。

その妹の静かな営為。その妹への愛。

その妹が、戦争を生き残ったこと。

すべてが、一つの香水に、集約されるべきだと、彼は感じていた。

「I have a name」

クリスチャンが言った。

「Miss Dior」

ミス・ディオール。

妹の名前。そのまま。

会議室は、静寂に包まれた。

「Miss Dior?」

香水開発者が、その名前を繰り返した。

「But that’s your sister’s name」

それはあなたの妹さんでしょう。

「Yes」

クリスチャンは、答えた。

「This perfume represents everything. The house. The woman. The beauty. The survival」

この香水は、すべてを表現する。メゾン・ディオール。女性。美しさ。生存。

「And my sister」

そして、妹。

その言葉の中に、全てが含まれていた。

妹への愛。妹の生存。妹が彼に与えたインスピレーション。

すべてが、『ミス・ディオール』という名前に、集約されるのだ。

マーケティング担当者が、異議を唱えた。

「This is not a commercial name」

これは商業的な名前ではありません。

「On the contrary」

クリスチャンは、答えた。

「It is the most commercial name. Because it is true」

むしろ、それは最も商業的な名前だ。なぜなら、それが真実だから。

「People sense truth. And they love truth more than empty elegance」

人間は、真実を感じ取る。そして、空虚な優雅さ以上に、真実を愛する。


-----



一九五〇年冬。

『ミス・ディオール』香水は、ついに発表された。

その名前と背景が、メディアで報道されるのに、それほど時間はかからなかった。

「Christian Dior’s sister survived the concentration camp. Now his perfume bears her name」

クリスチャン・ディオールの妹は、強制収容所を生き残った。今、彼の香水は、彼女の名前を付けられている。

「A story of love. A story of survival. A story of beauty after horror」

愛の物語。生存の物語。恐怖の後の美についての物語。

その物語が、『ミス・ディオール』に付与された意味を、より深くした。

単なる香水ではなく、歴史的な物語を背負った香水。

パリ社交界の女性たちが、その香水を求めた。

単に、その香りのためだけではなく、その背景にある物語のためにも。

クリスチャンは、花屋に訪れた。

妹に、『ミス・ディオール』の発表を報告するために。

カトリーヌは、朝四時から、いつもの仕事をしていた。

花を選ぶ。陳列する。客に説明する。

その日常的な営為の中で、彼女は、自分の名前が、兄の香水に付けられたことを、既に知っていた。

新聞で。ラジオで。人々の会話で。

だが、妹は、何も言わなかった。

兄に、何か特別な反応を示さなかった。

ただ、いつもの通り、花をアレンジメントしていた。

クリスチャンは、妹の側に立った。

「How do you feel?」

どう思う。

カトリーヌは、花をアレンジしながら、答えた。

「I don’t know」

わかりません。

「It is strange. To have my name on something so… visible」

変です。自分の名前が、こんなに目立つものに付けられるなんて。

「It should be yours」

それは君のものだ。

クリスチャンは言った。

「Everything that I created. Everything that I achieved. It is all because of you」

僕が作ったすべて。僕が成し遂げたすべて。それはすべて、お前のおかげだ。

「Your survival. Your strength. Your presence」

お前の生存。お前の強さ。お前の存在。

カトリーヌは、手を止めた。

彼女は、兄を見た。

その目には、涙が浮かんでいた。

だが、彼女は何も言わなかった。

代わりに、彼女は、白いバラを選んだ。

そして、それを兄に渡した。

その白いバラは、『ミス・ディオール』の香水に含まれる、主要な香りの一つだった。

バラの香り。その中に含まれる、複雑な層。

その複雑さが、二人の人生そのものを表現していた。


-----


エピローグ—永遠の花


一九五〇年代。

その十年は、カトリーヌとマルクにとって、静かで、充実した時間だった。

毎朝、午前四時。

レ・アール中央市場での営業。

世界中からの花。その色。その香り。その形。

それらが、市民たちの人生に、小さな美を提供し続けていた。

クリスチャンは、フランス国内だけでなく、国際的な成功を収め続けていた。

『ニュー・ルック』から派生した、複数のコレクション。

『ミス・ディオール』香水の国際的な流行。

メゾン・ディオールは、パリのファッション界の中心となっていた。

だが、その成功の源には、常に、妹の存在があった。

毎日、クリスチャンは、妹が営む花屋のことを思い出していた。

毎朝、四時から働く妹。

その妹が、自分に与えてくれたインスピレーション。

その妹への変わらぬ愛。

その思いが、彼の創造活動を支え続けていた。

一方、カトリーヌは、花屋での仕事に、静かな喜びを感じていた。

毎朝、朝四時。その時間に起きる。

かつてのレーゲンスブリュック収容所での朝六時の起床時間。

その悪夢のような時間が、今、花を選ぶ、美しい時間に変わっていた。

その変化。その転換。

それが、彼女の戦後の人生であり、彼女の回復であった。


一九五八年。

クリスチャン・ディオールは、五一歳で亡くなった。

その死は、世界中のファッション界に、深刻な影響を与えた。

だが、彼が遺したもの。『ニュー・ルック』。『ミス・ディオール』香水。

そして、何より、妹への愛を象徴するすべてのドレスと香水。

それらは、永遠に残された。

カトリーヌは、兄の死を知った時、花屋に立っていた。

朝四時。いつもの時間。いつもの場所。

彼女は、白いバラを選んだ。

そして、それをマルクに渡した。

二人は、何も言わなかった。

ただ、白いバラが、兄クリスチャンへの弔いであることを、二人は知っていた。

その後、カトリーヌは、兄の遺産である『ミス・ディオール』香水を、使い続けた。

毎日。その香りをまとい、朝四時に起きて、花屋で働いた。

兄の創造の続き。兄への思い。兄との絆。

それらすべてが、その香水に含まれていた。


一九六六年。

カトリーヌは、八九歳になっていた。

彼女は、相変わらず、レ・アール中央市場に、毎朝立っていた。

朝四時。その時間に。

世界中からの花。その色。その香り。その形。

それらが、彼女の人生を、八十年以上にわたって、支え続けていた。

戦争。収容所。解放。回復。

そのすべてを生き抜いた後に、彼女は、静かに、花屋で働き続けていた。

彼女の人生。彼女の選択。彼女の戦争。

すべてが、一つの香水『ミス・ディオール』に、象徴されていた。

その香水は、今も、世界中の女性たちが、身にまとっている。

そのたびに、彼女たちは、知らずに、カトリーヌ・ディオールの人生を、その身に受けている。

戦争を生き残った女性の強さ。その後の静かな再生。

そして、その中に含まれる、兄妹の変わらぬ愛。


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