第13話 1945年秋—カトリーヌの静かな始まり
## 上
秋。
パリの秋は、金色だった。
セーヌ沿いの街並み。葉が色づく樹々。その中を歩く市民たち。
カトリーヌは、兄のアパートを出た。
完全に出たのではなく、兄のもとから独立した人生を始めようとしていた。
四ヶ月。それが、彼女がパリで過ごした時間だった。
その四ヶ月の間に、彼女の身体は、わずかに回復していた。
歩行がより確かになった。食事も、少しずつ普通に戻った。
だが、心の回復は、より複雑だった。
赤十字の心理療法士は、彼女に言った。
「You need to build a new life」
新しい人生を作る必要がある。
「Not to erase the past, but to integrate it」
過去を消すのではなく、それと統合させることだ。
カトリーヌは、その言葉を理解していた。
だが、実行することは、難しかった。
-----
## 中
九月初旬。
フランス政府からの正式な通知。
レジスタンス活動に対する勲章。
カトリーヌは、それを受け取った。
フランス国内復興勲章。その他、複数の勲章。
その中の一つは、戦闘で大きな功績があった兵士だけに贈られる特別なものだった。
彼女は、かつて銃を撃ったことはない。
だが、彼女の活動が、多くの人間の命を救ったと評価されていた。
その評価が、勲章となっていた。
授与式。フランス政府高官の前で。パリの重要な施設で。
カトリーヌは、その式に参加した。
白いドレスを着た。兄が特別に作ったドレスを。
彼女は、勲章を受け取った。
だが、その時の彼女の表情は、喜びというより、複雑な感情に満ちていた。
勲章。その価値。その意味。
それは、彼女の苦しみを、何らかの形で正当化するのか。
マリアの死を、何かの代価にするのか。
何千人の死を、彼女の一人の生存で、釣り合わせることができるのか。
そのような問いが、彼女の心を占拠していた。
授与式の後、彼女は、兄に言った。
「I need to do something」
何かをしなければならない。
「Not for France. For myself」
フランスのためではなく、自分のためにだ。
クリスチャンは、妹を見た。
その目には、何か決意のようなものが浮かんでいた。
「Tell me what you need」
何が必要か言ってくれ。
「I need to work. I need to create something」
働く必要がある。何かを作る必要がある。
「Like you」
兄さんのように。
-----
## 下
九月中旬。
カトリーヌは、一人の男性と会った。
マルク・ボワイエ。
彼女の恋人。かつてのレジスタンスの指導者。
彼は、地下から出ていなかった。
解放後も、彼は、何かの危険を感じていたのか、あるいは、社会への復帰が困難だったのか。
彼の顔は、より老けていた。
一年半。その間に、彼も、多くを失っていた。
「Catherine」
彼が、彼女の名前を呼んだ時、その声には、何か深い感情が含まれていた。
「You survived」
生き残ったのか。
「Yes」
カトリーヌは、答えた。
二人は、何も言わずに、抱擁した。
その抱擁の中に、全てが含まれていた。
愛。悲しみ。喜び。絶望。生存。
言葉など、必要ではなかった。
その晩、マルクは、カトリーヌに提案した。
「Let’s start something new」
新しい何かを始めよう。
「Something beautiful」
美しい何かを。
「Like your brother is doing」
兄さんがしているように。
カトリーヌは、聞いていた。
「What do you have in mind?」
何を考えているのか。
「Flowers」
花だ。
「We will sell flowers. From all over the French colonies」
世界中のフランス領から届いた花を売るのだ。
「Beauty. Something that reminds people that life continues」
美しさ。人生が続いていることを思い出させるもの。
カトリーヌは、その提案を聞いて、何か心の中が、明るくなるのを感じた。
花。
その言葉の中に、何か希望があった。
-----
## エピローグ—花との日々
十月初旬。
レ・アール中央市場。
パリの食糧と、花の中心地。
カトリーヌとマルクは、小さな店舗を借りた。
名前は、特につけなかった。
ただ、花屋。それだけ。
営業開始は、朝四時。
市場の中でも、最も早い時間。
その時間に、世界中のフランス領からの花が、市場に到着する。
アフリカ。インドシナ。南米。
様々な地域からの花。
カトリーヌは、毎朝、朝四時に起きた。
彼女の身体は、まだ完全には回復していなかった。
だが、その時間に目覚めることで、彼女は、新しい人生のリズムを取り戻していた。
マルクと共に、花を仕入れる。
値段を決める。陳列する。
その単純な作業が、カトリーヌに、何か深い満足感を与えていた。
客たちが来る。
朝の市場の中での、わずかな客たち。花商人。時には、市民たち。
「These are beautiful」
これは美しい。
その言葉を、毎日、何度も聞いた。
その言葉が、彼女の心を、少しずつ、癒していた。
十月末。
マルクは、彼女に聞いた。
「Are you happy?」
幸せか。
カトリーヌは、その質問に、数秒、答えずにいた。
幸せか。
その言葉が、彼女にとって、何を意味するのか。
彼女は、答えた。
「I don’t know if it’s happiness. But it’s something」
幸せかどうかは、わからない。だが、何かある。
「Something real」
何か現実的なものが。
マルクは、彼女を見て、微笑んだ。
その微笑みには、深い理解があった。
戦争を経験した二人にとって、「幸せ」という言葉は、もはや、戦前のそれではない。
それは、より複雑で、より微妙で、より矛盾に満ちたものになっていた。
だが、その複雑さの中にこそ、新しい人生が成立していた。
十一月初旬。
初霜が降りた。
パリの初冬。
その中で、カトリーヌは、毎朝、朝四時に起きて、花屋を開いていた。
花の香り。色。形。
それらが、彼女の日々を、わずかに、前へ進ませていた。
兄クリスチャンは、彼女のために、新しいドレスを作った。
仕事着としてのドレス。
だが、その中にも、兄の愛が込められていた。
妹が花屋で、毎日、朝四時から働く。
その妹を見守ることが、クリスチャンの新しい役割だった。
兄妹は、別々に、新しい人生を歩み始めていた。
だが、その別々の人生は、実は、同じ愛から出発していた。
フランスへの愛。
失われたものを取り戻したいという、強い願い。
そして、互いへの愛。
兄は、美しいドレスで、フランスの優雅さを取り戻す。
妹は、美しい花で、人生の継続を示す。
その二つの営為は、相互に支える存在だった。
パリの秋から冬へ。
その季節の転換の中で、カトリーヌ・ディオールは、新しい人生を、静かに、始めていた。




