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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第5章

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第6話「嘘と同じ」

殿下に言わずにここに来た。


その事実が、ゲオルクの問いによって、言葉の形を与えられた。


「いいえ」


エステラは答えた。


声は震えなかった。嘘をつかなかった。ここで「はい」と言うことはできた。だがそれは嘘だった。嘘をつかないと決めた人間が、商人の前で嘘をつく。それだけはできなかった。


ゲオルクが目を細めた。


「正直な方だ」


短い沈黙があった。


「——だが、正直なのと正しいのは違う」


ゲオルクの声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、三十年分の経験が裏打ちした重さがあった。


「殿下に内緒でここに来たのなら、それは殿下の顔に泥を塗ることになりませんかな」


エステラの胸を、その言葉が刺した。


顔に泥を塗る。


公務の責任者に断りなく、陪席者が交渉相手を訪ねた。それはレオンハルトの管理能力への疑義を生む行為だった。商会長の目から見れば、「殿下の婚約者が殿下に黙って動いている」という事実は、視察団の内部に統制が取れていないことを示す。


ゲオルクはそれを、一瞬で読んでいた。


「お嬢様の言葉は、嘘ではなかったと思っています。三十年前を繰り返させたくないという気持ちは本物でしょう。ですがね」


ゲオルクが茶碗を手に取った。


「覚悟というのは、一人で見せるものではありません。少なくとも、私たち商人の世界では」


その言葉が、エステラの中の何かを崩した。


覚悟を見せに来た。対等の証明のために来た。殿下にはできないことを、わたくしの力でやろうとした。


だがこの人は、そのやり方そのものを否定している。


一人で来たことが、覚悟の欠如だと。


「……失礼いたしました」


エステラは椅子から立ち上がり、深く一礼した。


ゲオルクは黙って頷いた。追及はしなかった。追い出しもしなかった。ただ、それ以上の対話が意味を持たないことを、静かに示していた。


会館を出た。


港の風が頬に当たった。潮の匂いが鼻を刺した。護衛の騎士と侍女が後ろについてきた。


正しいことをしていると思っていた。ゲオルクの不信感の核に触れられると思っていた。前世の「聞く技術」が、この人の前で機能すると思っていた。


機能した。ゲオルクの表情は確かに動いた。


だがその前に、もっと根本的なところで間違っていた。


迎賓館に戻った。


廊下を歩いていると、レオンハルトの部屋の扉が開いていた。


中にレオンハルトがいた。書類を手にしたまま、立っていた。


エステラの姿を見た瞬間、書類を机に置いた。


「ゲオルクに会ったな」


声は平坦だった。


だがその平坦さは、平坦を保とうとしている種類の平坦だった。怒りではない。だがそれに近い何か。感情を抑えるために、意図的に声の温度を消している。


護衛の報告で把握していたのだろう。エステラが迎賓館を出た時点で、護衛の騎士から行き先が伝えられていたはずだった。


「はい」


エステラは嘘をつかなかった。


レオンハルトの目がエステラを見た。あの回廊で嘘泣きを見破った時の目ではなかった。王家会議で代案を説明した時の目でもなかった。


もっと静かで、もっと深い何かがある目だった。


「陪席者が公務の責任者に断りなく交渉相手に接触した場合、公私混同と見なされる」


制度上の事実を述べていた。声は政務の調子だった。


「お前がしたことは——俺の公務に対する越権だ」


越権。


その言葉は正しかった。制度上、正しかった。


だがレオンハルトの声の奥に、制度とは別のものがあった。


「なぜ俺に言わなかった」


声が変わった。


政務の調子が消えた。平坦を保とうとする力が、一瞬だけ緩んだ。


制度の問題として問うているのではなかった。信頼の問題として問うていた。


なぜ相談しなかった。なぜ一人で行った。なぜ俺に言わなかった。


エステラの胸の中で、何かが割れた。


嘘はつかないと決めた。嘘をつかないことが、この人との関係の根だった。あの回廊で嘘泣きを見破られた日から、嘘のない関係を積み上げてきた。


なのに——全部を言わないことで、嘘と同じことをした。


配偶者教育の実地として港を見学すると言った。嘘ではなかった。だが全てではなかった。本当の目的を隠して、形式的に正しい理由だけを告げて出た。


それは嘘と同じだった。


「殿下」


声が出た。震えていた。


「わたくしが殿下に言わずに動いたのは——」


言葉を探した。正確な言葉を。嘘のない言葉を。


「対等でありたかったからです」


レオンハルトの目が動いた。


「殿下にばかり守られていることが——耐えられなかったのです」


声が震えていた。止められなかった。


「代案は殿下が作りました。数字は殿下が並べました。王家会議で説明したのも殿下です。交渉を動かしているのも殿下です。わたくしはいつも——殿下の後ろから追いついているだけでした」


レオンハルトは黙って聞いていた。


「陪席として黙って座る。それが正しいと分かっていました。でも——ゲオルク様の不信感の構造が見えた時、わたくしにしかできないことがあると思ったのです。殿下の力ではなく、わたくしの力で」


言葉が途切れた。


「だから殿下に言わなかった。相談すれば止められると分かっていたから。それは——殿下を信じなかったということですわ」


沈黙が落ちた。


レオンハルトが口を開いた。


「この件は俺の管理の問題として処理する」


声は静かだった。


「お前の名前は出さない。陪席者の行動は、公務の責任者の管理下にある。俺の管理が不十分だったと報告書に書けばいい」


エステラの呼吸が止まった。


守ろうとしている。


エステラの独走の責任を、自分が被ることで守ろうとしている。陪席者の越権行為を、公務責任者の管理不足にすり替えて、エステラの名前を報告書から消そうとしている。


それは——。


「殿下」


エステラの声が震えた。だが今度は、泣きそうな震えではなかった。


「それは——わたくしを守っているのではなく、わたくしの責任を奪っているのですわ」


レオンハルトの表情が動いた。


「わたくしが殿下に言わずに動いたのは、対等でありたかったからです。殿下にばかり守られていることが耐えられなかったのです。なのに——わたくしが起こした問題の責任まで殿下が被るなら、それはまた同じことですわ」


声はもう震えていなかった。


「わたくしが間違えました。殿下に言わずに動いたことは越権です。嘘と同じことをしました。その責任は——わたくしのものです」


レオンハルトの口が閉じた。


二人の間に、長い沈黙が落ちた。


窓の外で、港の灯りが夕暮れに滲んでいた。潮の匂いが、開けたままの窓から入ってきていた。


翌朝。


迎賓館の廊下で、アルヴィンがエステラを見つけた。


「少し話をしませんか」


穏やかな声だった。再教育を経た人間の、自省の行き届いた声。


エステラは顔を上げた。一晩泣いた後の目ではなかった。だが眠れなかった痕があった。


アルヴィンの目が、それを静かに見ていた。

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