第6話「嘘と同じ」
殿下に言わずにここに来た。
その事実が、ゲオルクの問いによって、言葉の形を与えられた。
「いいえ」
エステラは答えた。
声は震えなかった。嘘をつかなかった。ここで「はい」と言うことはできた。だがそれは嘘だった。嘘をつかないと決めた人間が、商人の前で嘘をつく。それだけはできなかった。
ゲオルクが目を細めた。
「正直な方だ」
短い沈黙があった。
「——だが、正直なのと正しいのは違う」
ゲオルクの声は穏やかだった。だがその穏やかさの中に、三十年分の経験が裏打ちした重さがあった。
「殿下に内緒でここに来たのなら、それは殿下の顔に泥を塗ることになりませんかな」
エステラの胸を、その言葉が刺した。
顔に泥を塗る。
公務の責任者に断りなく、陪席者が交渉相手を訪ねた。それはレオンハルトの管理能力への疑義を生む行為だった。商会長の目から見れば、「殿下の婚約者が殿下に黙って動いている」という事実は、視察団の内部に統制が取れていないことを示す。
ゲオルクはそれを、一瞬で読んでいた。
「お嬢様の言葉は、嘘ではなかったと思っています。三十年前を繰り返させたくないという気持ちは本物でしょう。ですがね」
ゲオルクが茶碗を手に取った。
「覚悟というのは、一人で見せるものではありません。少なくとも、私たち商人の世界では」
その言葉が、エステラの中の何かを崩した。
覚悟を見せに来た。対等の証明のために来た。殿下にはできないことを、わたくしの力でやろうとした。
だがこの人は、そのやり方そのものを否定している。
一人で来たことが、覚悟の欠如だと。
「……失礼いたしました」
エステラは椅子から立ち上がり、深く一礼した。
ゲオルクは黙って頷いた。追及はしなかった。追い出しもしなかった。ただ、それ以上の対話が意味を持たないことを、静かに示していた。
会館を出た。
港の風が頬に当たった。潮の匂いが鼻を刺した。護衛の騎士と侍女が後ろについてきた。
正しいことをしていると思っていた。ゲオルクの不信感の核に触れられると思っていた。前世の「聞く技術」が、この人の前で機能すると思っていた。
機能した。ゲオルクの表情は確かに動いた。
だがその前に、もっと根本的なところで間違っていた。
迎賓館に戻った。
廊下を歩いていると、レオンハルトの部屋の扉が開いていた。
中にレオンハルトがいた。書類を手にしたまま、立っていた。
エステラの姿を見た瞬間、書類を机に置いた。
「ゲオルクに会ったな」
声は平坦だった。
だがその平坦さは、平坦を保とうとしている種類の平坦だった。怒りではない。だがそれに近い何か。感情を抑えるために、意図的に声の温度を消している。
護衛の報告で把握していたのだろう。エステラが迎賓館を出た時点で、護衛の騎士から行き先が伝えられていたはずだった。
「はい」
エステラは嘘をつかなかった。
レオンハルトの目がエステラを見た。あの回廊で嘘泣きを見破った時の目ではなかった。王家会議で代案を説明した時の目でもなかった。
もっと静かで、もっと深い何かがある目だった。
「陪席者が公務の責任者に断りなく交渉相手に接触した場合、公私混同と見なされる」
制度上の事実を述べていた。声は政務の調子だった。
「お前がしたことは——俺の公務に対する越権だ」
越権。
その言葉は正しかった。制度上、正しかった。
だがレオンハルトの声の奥に、制度とは別のものがあった。
「なぜ俺に言わなかった」
声が変わった。
政務の調子が消えた。平坦を保とうとする力が、一瞬だけ緩んだ。
制度の問題として問うているのではなかった。信頼の問題として問うていた。
なぜ相談しなかった。なぜ一人で行った。なぜ俺に言わなかった。
エステラの胸の中で、何かが割れた。
嘘はつかないと決めた。嘘をつかないことが、この人との関係の根だった。あの回廊で嘘泣きを見破られた日から、嘘のない関係を積み上げてきた。
なのに——全部を言わないことで、嘘と同じことをした。
配偶者教育の実地として港を見学すると言った。嘘ではなかった。だが全てではなかった。本当の目的を隠して、形式的に正しい理由だけを告げて出た。
それは嘘と同じだった。
「殿下」
声が出た。震えていた。
「わたくしが殿下に言わずに動いたのは——」
言葉を探した。正確な言葉を。嘘のない言葉を。
「対等でありたかったからです」
レオンハルトの目が動いた。
「殿下にばかり守られていることが——耐えられなかったのです」
声が震えていた。止められなかった。
「代案は殿下が作りました。数字は殿下が並べました。王家会議で説明したのも殿下です。交渉を動かしているのも殿下です。わたくしはいつも——殿下の後ろから追いついているだけでした」
レオンハルトは黙って聞いていた。
「陪席として黙って座る。それが正しいと分かっていました。でも——ゲオルク様の不信感の構造が見えた時、わたくしにしかできないことがあると思ったのです。殿下の力ではなく、わたくしの力で」
言葉が途切れた。
「だから殿下に言わなかった。相談すれば止められると分かっていたから。それは——殿下を信じなかったということですわ」
沈黙が落ちた。
レオンハルトが口を開いた。
「この件は俺の管理の問題として処理する」
声は静かだった。
「お前の名前は出さない。陪席者の行動は、公務の責任者の管理下にある。俺の管理が不十分だったと報告書に書けばいい」
エステラの呼吸が止まった。
守ろうとしている。
エステラの独走の責任を、自分が被ることで守ろうとしている。陪席者の越権行為を、公務責任者の管理不足にすり替えて、エステラの名前を報告書から消そうとしている。
それは——。
「殿下」
エステラの声が震えた。だが今度は、泣きそうな震えではなかった。
「それは——わたくしを守っているのではなく、わたくしの責任を奪っているのですわ」
レオンハルトの表情が動いた。
「わたくしが殿下に言わずに動いたのは、対等でありたかったからです。殿下にばかり守られていることが耐えられなかったのです。なのに——わたくしが起こした問題の責任まで殿下が被るなら、それはまた同じことですわ」
声はもう震えていなかった。
「わたくしが間違えました。殿下に言わずに動いたことは越権です。嘘と同じことをしました。その責任は——わたくしのものです」
レオンハルトの口が閉じた。
二人の間に、長い沈黙が落ちた。
窓の外で、港の灯りが夕暮れに滲んでいた。潮の匂いが、開けたままの窓から入ってきていた。
翌朝。
迎賓館の廊下で、アルヴィンがエステラを見つけた。
「少し話をしませんか」
穏やかな声だった。再教育を経た人間の、自省の行き届いた声。
エステラは顔を上げた。一晩泣いた後の目ではなかった。だが眠れなかった痕があった。
アルヴィンの目が、それを静かに見ていた。




