第5話「一人の判断」
わたくしがゲオルク様に会えば、何かが変わるのではないか。
その問いが、朝の光の中で形を持った。
回答期限の前日だった。
迎賓館の一室で、レオンハルトが書類と向き合っていた。目元の影が昨日より深い。夜通し検討していたのだろう。
「王家保証条項を投資計画に組み込む案を考えている」
レオンハルトの声は政務の調子だった。だがその声に、普段にはないわずかな焦りが混じっていた。
「工事の遅延や失敗によって商会側の損失が一定額を超えた場合、王家が補填する仕組みだ。ゲオルクが求めている『責任の形』として、制度上の根拠を持たせられる」
王家保証条項。
それは合理的な回答だった。ゲオルクの「誰が責任を取るのか」という問いに対して、制度の中で示せる最も具体的な形。
だが——。
「ただし、政務補佐の権限で約束できるものではない。国王陛下の裁可が必要だ」
レオンハルトの声が低くなった。
「視察中に国王陛下に報告し承認を得るには、往復の書簡だけでも日数がかかる。回答期限に間に合わない」
間に合わない。
「回答期限の延長をゲオルクに求めることを検討している」
レオンハルトの手が書類の上で止まった。
延長の依頼。それ自体は交渉として不自然ではない。だがゲオルクの目を思い出した。三十年前の怒りが沈んだ、あの目。「数字が正しくても動かない」理由を持つ人間に、「もう少し時間をください」と言うことが何を意味するか。
中央の人間は、いつも時間をくれと言う。待ってくれと言う。そして結局——。
レオンハルトはそれを理解していた。だから声に焦りがあった。
アルヴィンが記録を閉じながら口を開いた。
「延長を求めること自体は制度上の問題にはならない。だが商会長の心証を考えると、慎重に運ぶべきだ」
二人が次の手を検討している。
エステラは同じ部屋にいた。陪席として。黙って座る役割として。
二人の声を聞きながら、胸の中で別のものが動いていた。
自室に戻った。
窓辺の椅子に座り、港を見下ろした。
ゲオルクの不信感の核は「責任の所在」だった。港の老人から聞いた三十年前の話が、それを裏づけていた。前世で「現場の側」にいたからこそ、その構造が読める。
レオンハルトは王家保証条項という制度的な回答を用意しようとしている。正しい手だった。だがその手は時間を必要とし、時間を求めることはゲオルクの不信感を深める。
わたくしがゲオルクに直接会って、不信感の核に触れられたら。
覚悟を——言葉で見せられたら。
制度の回答ではなく、感情の回答。数字ではなく、声で。あの人の怒りの底に届く言葉を、わたくしなら持っている。前世の「聞く技術」がある。相手の要求の核を聞き取り、その核に直接応える言葉を返す力がある。
回答期限の延長なしに、合意が取れるのではないか。
その考えが、胸の中で形を取った。
同時に、別の声も聞こえていた。
殿下に相談すべきだ。
当然のことだった。陪席者が公務の責任者に断りなく交渉相手に接触することは、越権にあたる。そのことを知っていた。制度上の問題があることを理解していた。
だが——。
殿下に相談すれば、殿下は止めるだろう。陪席者が商会長に会う必要はないと言うだろう。正しい判断だ。制度上、正しい。
でもそれは——また殿下に守られることになる。
殿下が代案を作り、殿下が数字を並べ、殿下が交渉し、殿下が保証条項を考え、殿下が期限延長を頼む。全てが殿下の手で動く。わたくしは黙って座る。
対等でありたかった。
殿下の隣で、殿下と同じ重さを背負いたかった。退く癖は克服した。だが「何もしない」ことは、退くこととは別の形で、非対称を固定する。
前世の行動様式が、新しい動機と結びついた。
百貨店の窓口で十年間培った習慣。自分の仕事は自分で処理する。上司に相談する前に、まず自分で動く。問題を見つけたら、自分で解決策を持っていく。それが「できる人間」の振る舞いだった。
その習慣が、「対等の証明」という衝動と一つになった。
わたくしにしかできないことがある。わたくしにしか読めない構造がある。それを殿下に頼らずに形にすれば——対等であることを証明できる。
エステラは椅子から立ち上がった。
護衛の騎士と侍女を伴い、迎賓館を出た。
「配偶者教育の実地として、港をもう一度見学したいのです」
侍女に告げた理由は嘘ではなかった。だが全てでもなかった。
港湾商会の会館に向かった。
会館の入口で、番頭らしき男が立っていた。
「商会長様にお目通り願えますでしょうか。お時間を少しだけいただければ」
エステラの声は落ち着いていた。公爵令嬢としての礼節を崩さなかった。
番頭は護衛の騎士と侍女の姿を確認し、奥に引っ込んだ。しばらくして戻ってきた。
「商会長がお待ちです」
会館の奥の部屋。昨日の面会で使った大きな部屋ではなく、商会長の私室に近い小さな部屋だった。窓から港が見えた。
ゲオルクが椅子に座っていた。
「お嬢様が直接いらっしゃるとは」
声に驚きがあった。だが不快さはなかった。礼節をもって応じていた。
「突然のお伺い、申し訳ございません。私的にお話を伺いたく存じました」
エステラは椅子に座り、背筋を伸ばした。
ゲオルクの目がエステラを見た。あの面会の時と同じ、追従のない目。だが昨日よりも少し——好奇心に近い色があった。公爵令嬢が護衛一名と侍女だけで商会に来る。それ自体が、この人の興味を引いたのだろう。
「わたくしは、計画が失敗した時に責任を取らない人間の側にいたくはありません」
エステラの声は静かだった。震えてはいなかった。
「商会長様が三十年前に見たものを、繰り返させたくないのです」
ゲオルクの表情が動いた。
わずかに——だが確かに。あの面会の時には見せなかった表情だった。数字の正しさでは動かなかった目が、言葉の温度に反応した。
前世の「聞く技術」が機能している手応えがあった。この人の不信感の核に触れている。数字ではなく、声で。制度ではなく、感情で。
正しいことをしている。
そう思った。
だが——。
ゲオルクが茶碗を置いた。
「お嬢様」
声が変わった。好奇心が消え、商人の目に戻っていた。率直な目だった。
「殿下はご存じですかな、お嬢様がお越しになったことを」
エステラの呼吸が止まった。
ゲオルクの問いは丁寧だった。だがその丁寧さの下に、商人としての正確な判断があった。公務の責任者に断りなく、陪席者が交渉相手を訪ねている。それが何を意味するかを、この人は分かっている。
窓の外で、港の荷揚げの声が聞こえていた。
エステラの胸の中で、二つのものがぶつかった。
正しいことをしている、という確信。
殿下に言わずにここに来た、という事実。
嘘はつかないと決めた。嘘をつかないことが、この人との関係の根だった。
全部を言わないことは、嘘と同じではないのか。
ゲオルクの目が、静かにエステラを見ていた。




