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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第5章

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第1話「実地の朝」

配偶者教育の教室に差し込む朝の光が、机の上に広げた外交儀礼の書物を白く照らしていた。


婚約披露の宴から二週間が経っていた。


王妃マルガレーテの管掌下で始まった配偶者教育は、座学の段階だった。宮廷作法の深化。外交儀礼の細則。王家の系譜と姻戚関係の整理。公爵令嬢として身につけてきた知識の、さらに上の層。王族の配偶者だけに求められる領域を、エステラは一つ一つ学んでいた。


王妃の教え方は変わらなかった。言葉で説明する前に、まず自分の手で見せる。「こう」と短く言いながら、指先を動かす。あの薔薇園で「退く癖は、もうやめなければね」と笑った人の、実務的で温かい教え方だった。


穏やかな日々だった。


婚約が承認され、披露の宴が終わり、通商条約の婚姻条件は撤回され、代案の交渉が継続している。レオンハルトは政務補佐として日々の業務に追われ、エステラは配偶者教育に通う。すれ違う回廊で短い言葉を交わし、書類の受け渡しの名残のような、だが今はもう名目のいらない接触が続いていた。


その穏やかさの中で、座学の書物を開くたびに、エステラの中で一つの感覚が静かに育っていた。


今朝の教育の後、王妃が教室を出がけに足を止めた。


「エステラ嬢」


王妃の声は穏やかだった。だがいつもの座学の声とは、少し違う響きがあった。


「実地段階に入ります」


エステラは背筋を伸ばした。


「レオンハルト殿下に、東部港湾の視察命令が下りました。国王陛下から正式に。通商条約の代案——港湾整備投資の実現可能性を、現地で確認するための視察です」


港湾整備投資。あの王家会議の前に、レオンハルトが作り上げた代案。婚姻条件に代わる交渉材料として、宰相が合理性を認め、国王が承認した提案。


「あなたには、殿下の視察に同行していただきます。配偶者教育の実地段階として」


王妃の目がエステラを見た。あの客間で秤を持っていた時の目でも、薔薇園で手を重ねた時の目でもなかった。教育者の目だった。


「見てくるだけではなく、あなたの言葉で何かを持ち帰りなさい」


短い指示だった。だがその一言の中に、座学では得られないものを求める意志があった。


「承知いたしました、王妃様」


エステラは深く一礼した。


回廊の窓際。午後の光。


レオンハルトが視察の概要を話した。


「行き先はフェルトハーフェン。王国東部の主要港湾都市だ。ヴェルディーア公国との通商の要衝で、港湾の老朽化が進んでいる。代案の投資対象はこの港だ」


声は政務の調子だった。事実と論理を並べる、いつもの声。


「港湾は貿易商の組合——港湾商会が実質的な経済運営を担っている。商会長のゲオルクという人物が鍵だ。この人物の合意なしに投資計画は機能しない」


エステラは頷いた。


「ゲオルクは三十年前に、中央から派遣された役人が計画を押しつけた結果、港湾の改修工事が頓挫するのを見ている。その間の損失で貿易商が複数廃業した。中央に対する不信感が根にある人物だ」


三十年前の失敗。中央からの計画の押しつけ。現場の損失。


レオンハルトの声が続いた。


「数字の正しさだけでは動かない可能性がある。三十年前も数字は正しかった。だが現場で機能しなかった」


数字が正しくても動かない。


その言葉を聞きながら、エステラの頭の中で、別のことが動いていた。


代案はレオンハルトが作った。交渉記録を精査したのもレオンハルトだった。港湾整備の試算にアルヴィンが協力した。王家会議で代案を説明したのもレオンハルトだった。


エステラはあの会議室で何をしたか。


「この婚約はわたくし自身の意志でございます」と言った。「退くことはわたくしの癖でした」と言った。退かないと宣言した。


意志を宣言した。


それだけだった。


代案の全ての場面で——通商条約の分析も、港湾整備の試算も、宰相への提出も、特使との交渉の切り分けも——レオンハルトが先に動き、先にリスクを取り、エステラはその後ろから追いついてきた。


振り返れば、最初からそうだった。


嘘泣きを見破られた日、回廊で手を組んだのはレオンハルトだった。商会の工作を退けた時も、レオンハルトの信用調査が決め手だった。冷却期間中、政治的リスクを引き受けたのもレオンハルトだった。


常にこの人が先に立っていた。


退く癖は克服した。隣に立つ覚悟は持った。王家会議の場で退かなかった。


だがこの関係の中で、自分は「守られる側」を脱しているのか。


資格の問題ではなかった。隣に立つ資格はある。王家会議が承認した。披露の宴で確定した。


対称性の問題だった。


レオンハルトが背負ってきた重さと、自分が背負ってきた重さは、同じではない。


その気づきが、穏やかな二週間の座学の中で、静かに育っていたものの正体だった。


公爵家の屋敷。父の書斎。


ヴィクトールは娘の報告を聞き、机の上で指を組んだ。


「視察への同行か。王妃様の判断は妥当だ。配偶者教育の実地段階として、王族の公務に同行することは制度上も整っている」


エステラは頷いた。


「殿下の視察に、陪席として同行いたします。配偶者教育の実地ですわ」


ヴィクトールの目がわずかに動いた。


娘の声は落ち着いていた。報告の声だった。だが父は、その声の底にあるものを聞き取ったのだろう。


「何を考えている」


エステラの手が膝の上でわずかに動いた。


「お父様」


言葉にしようとして、止まった。何を考えているのかを、まだ正確に言語化できなかった。焦りに似た何か。不足に似た何か。


ヴィクトールは数拍の間を置いた。


「お前がその人の隣にいるのは、同じ力を持っているからではない」


エステラは顔を上げた。


「お前にしかない力があるからだ」


静かな声だった。公爵家当主の秤ではなく、父の声だった。あの書斎で「癖か」と問うてくれた時と同じ、娘の核心に届かせる声。


エステラはその言葉を受け止めた。


だが——「お前にしかない力」が何なのか、分からなかった。


殿下が作った代案。殿下が説明した数字。殿下が取ったリスク。わたくしはあの場で「退かない」と宣言した。それは——わたくしの力だったのか。それとも、殿下が守ってくれた場所で声を上げただけだったのか。


父は「お前にしかない力」と言った。


前世の十年間で学んだことは、泣き方と耐え方と読み方と返し方だった。この世界で学んだことは、立ち方と選び方と信じ方と好きの言い方だった。


でも——「働き方」は、まだ学んでいない。


殿下の隣で何かを背負うということを、まだ一度もしていない。


公爵家の屋敷を出る前日。


レオンハルトからの伝言が届いた。


「ゲオルクという商会長は、三十年前に中央の計画の失敗を見ている。数字が正しくても動かない可能性がある。そのことを頭に入れておいてほしい」


情報の共有だった。政務補佐として、視察の同行者に必要な情報を渡す行為。


もう一つ、侍女が付け加えた。


「アルヴィン殿下も視察に同行されるそうです。国王陛下のご判断で、王太子としての実地経験と、レオンハルト殿下の公務の補佐を兼ねる形でとのことです」


アルヴィン。再教育の中で領地経営を学び、代案のために港湾整備の試算を提供した兄。弟の婚約を王太子として公式に祝福した人。


王都から馬車で三日の距離。


フェルトハーフェンへの出発は、翌朝だった。

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