第10話「その先の朝」
朝の光が、王城の広間の窓から差し込んでいた。
婚約披露の宴当日。
広間は舞踏会の時よりも小さかった。だが格式は高かった。天井から下がる燭台は数を絞られ、石の壁に掛けられた王家の紋章が正面に据えられている。卓には花が飾られ、杯が並び、招待された主要貴族家の当主と夫人が席についていた。
エステラは広間の入口に立っていた。
隣にレオンハルトがいた。
正装だった。舞踏会の夜と同じ——いや、違った。あの夜は全貴族の前で踊るための装いだった。今日は、正式な婚約者として紹介されるための装い。
エステラの胸元に、レオンハルトから贈られた婚約の証の飾りがあった。素朴だが品のある意匠。あの白い野花のように華美ではなく、だが確かにそこにある。
壇上に国王と王妃が着いた。
国王の表情は穏やかだった。王家会議で「本婚約を承認する」と言った時の重さとは違う、もう少し柔らかい顔。
王妃マルガレーテが国王の隣に座っていた。薔薇園で手を重ねてくれた人。「退く癖は、もうやめなければね」と笑った人。今日の王妃は、あの客間で秤を持っていた時の顔ではなかった。静かに、広間を見渡していた。
エステラとレオンハルトが壇上の前に進み出た。
国王が立ち上がった。
「第二王子レオンハルトとグランツハイム公爵家令嬢エステラの婚約を、ここに正式に披露する」
国王の声が広間に響いた。
拍手が起きた。主要貴族家の当主たちが順に立ち上がり、祝意を述べた。ブレンナー侯爵夫人。他の上位貴族家の当主たち。あの茶会でエステラを測る目で見ていた侯爵夫人が、今は祝いの言葉を述べていた。
アルヴィンが席から立った。
「弟の婚約を、王太子として祝福する」
短い一言だった。装飾のない、明確な言葉。再教育を経た王太子としての公式な祝福。かつてミルフィの涙に動かされ、エステラとの婚約を解消した人間が、今は弟の婚約を王太子の立場で認めている。
宰相グラーフは宴の手続きを監督する立場で列席していた。異を唱えなかった。制度の番人は、制度に沿った結果を静かに見届けていた。
宴の途中、王妃がエステラの傍を通りかかった。
「よろしくお願いしますね」
短い一言だった。声は穏やかだった。
義母としての言葉だった。
あの客間での隙のない問いの声でもなく、薔薇園で秤を降ろした震える声でもなく、配偶者教育で実務的に教えていた声でもなかった。もう少し自然で、力の抜けた声。義母として——まだ完全にはなれていない、だがそうあろうとしている人の声だった。
「こちらこそ、王妃様」
エステラは深く一礼した。
侍女が控えめに耳打ちした。
「お嬢様。カッセル侯爵家は、本日の宴にはお招きされておりません」
エステラは小さく頷いた。
国王の直接叱責を受け、政治的影響力を完全に喪失した侯爵は、婚約披露の宴に招待される立場になかった。噂工作に始まり、舞踏会での孤立、外交問題への便乗、そして国王の逆鱗。全てが積み重なった結果が、この不在だった。
「通商条約の代案については、交渉が継続中だそうです。婚姻を条件とする提案は撤回されたとのことです」
侍女が付け加えた。
代案が機能している。レオンハルトとアルヴィンが共同で作成した港湾整備投資の提案が、婚姻に代わる交渉材料として受け入れられつつある。条約の最終的な妥結はまだ先だが、婚姻条件は取り下げられた。
エステラはその報告を聞き、静かに息をついた。
宴が終わった。
招待客が順に広間を去り、燭台の灯りが一つずつ消されていく。
庭園の東側。
いつもの場所だった。生垣に囲まれた小さな空間。石のベンチ。「嘘はつきたくない」と言い合った場所。「踊ってくれるか」と聞かれた場所。「好きだ」と「好きですわ」を交わした場所。
侍女は小径の入口に控えている。半私的な距離。
レオンハルトは生垣の傍に立っていた。正装のまま。宴の後の疲労がわずかに目元にあったが、その表情は穏やかだった。穏やか——という言葉が、この人に似合う日が来るとは思わなかった。
エステラの足音に振り返った。
「終わったな」
「ええ」
エステラはベンチに座らず、レオンハルトの前に立った。あの告白の朝と同じ距離。
レオンハルトが口を開いた。
「義母上が——俺に、詫びると言った」
声は平坦を保とうとしていた。保てていなかった。
「母として至らなかったと」
エステラは黙って聞いた。
あの薔薇園で王妃が言った言葉。「あなたから伝えてくださらない」と。エステラは「直接、殿下にお伝えになりませんか」と返した。王妃は「退く癖は、もうやめなければね」と答えた。
王妃は退かなかった。直接、レオンハルトに向き合った。
「どう答えればいいか分からなかった」
レオンハルトの声が低かった。感情を言葉にすることへの抵抗。あの庭園で「怖かった」と打ち明けた時と同じ種類の、だがもう少し複雑な戸惑い。
「殿下がどう答えたか、教えてくださいませんか」
エステラは静かに聞いた。
レオンハルトが一拍の間を置いた。
「——もういい、と言った。それだけだ」
短い一言だった。
許しではなかった。清算でもなかった。「母と呼んだことはない」と言った距離が、一朝一夕に消えるはずがない。長い年月をかけて固まった距離は、一度の詫びで溶けるものではない。
だが「もういい」は、こだわらないという意味だった。
過去に縛られない。距離を恨まない。そこから先に進む。
この人なりの前進だった。
合理性でも感情でもなく、ただ「もうこだわらない」と決めた。それはどちらかを選ぶことではなく、両方を受け入れた上で、次に進むという選択だった。
エステラの胸が静かに熱くなった。
「そうですか」
それだけを返した。それで十分だった。
風が生垣の葉を揺らした。夕暮れの庭園に、宴の後の静けさが広がっていた。
翌朝。
配偶者教育のために王城に通う日々が始まっていた。今朝もその一日だった。
エステラは自室に向かう廊下の窓辺で足を止め、朝の光を見ていた。
東の空が白んでいた。あの舞踏会の翌朝に見た光と同じ色。だが今朝の光は、あの日よりも少しだけ明るく見えた。同じ窓から差し込む同じ光なのに。
嘘泣きで始まった物語だった。
あの庭園で、涙を武器にすると決めた。相手より先に、相手より巧く。前世で十年間培った技術を使って、この宮廷を生き延びようとした。
嘘泣きを見破られた。回廊で、冷めた目の少年に。嘘と知った上で手を組んだ。婚約を解消し、商会の工作を退け、嘘のない関係を選び、不完全な言葉で感情を確認し合った。
冷却期間。宰相の忠告。カッセル侯爵の噂。茶会の棘。裏方の癖。空の広間。兄弟の橋。父と子の沈黙。十年分の重さを越えた一曲。宰相の前で明言した意志。胸元の白い野花。嘘のない告白。
そしてこの世界で——書面の重さを知り、王妃の秤を知り、条約の影に怯え、辞退の癖に流されかけ、父の一言に立ち止まり、前提を崩す道を見つけ、義母の冷たい手に触れ、王家会議で退かないと宣言した。
前世の十年間で学んだこと。泣き方。耐え方。読み方。返し方。相手の感情を測り、最適な対応を選ぶ技術。
この世界の十七年間で学んだこと。立ち方。選び方。信じ方。好きと言い方。退かない方。
退く癖は、もう自分のものにならない。
あの窓口に戻ることはない。
エステラは胸元の婚約の飾りに指先で触れた。素朴で品のある意匠。あの白い野花と同じように華美ではなく、だが確かにそこにある。
レオンハルトの手が隣にある。
この手を取ったのは自分の意志だった。嘘泣きの演技からではなく、嘘のない言葉で選んだ。退かなかったのも自分の意志だった。癖に負けず、父の問いに支えられ、王妃の手に触れ、王家会議の場に立った。
全てが自分の意志だった。
窓の外で、朝の光が広がっていた。
嘘のない朝は、一回で終わりではなかった。あの舞踏会の翌朝に見た光が、今朝もまた来ている。明日もまた来る。
その先に、まだ朝が来る。
エステラは窓辺を離れ、廊下を歩いた。
向こうから、足音が聞こえた。
政務の装い。書類を持っていない手。名目のない朝。
レオンハルトが歩いてきた。
エステラの足音に気づいて、立ち止まった。
「おはよう」
短い一言だった。政務の声ではなかった。平坦でもなかった。ただ朝の挨拶だった。当たり前の、何でもない、朝の挨拶。
エステラは微笑んだ。
「おはようございます、殿下」
朝の光が、廊下の石の床を白く照らしていた。
二人の影が並んでいた。
その先の朝が、始まっていた。
(完)
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