第2話「後妻の指先」
「レオンハルトの婚約者として名前が挙がっていることは承知しています」
王妃マルガレーテの声は、穏やかだった。穏やかで、隙がなかった。
王城の客間。窓から差し込む午後の光が、白い壁と調度品を柔らかく照らしている。王妃付きの侍女が壁際に一人控え、エステラの侍女は客間の外に待機していた。
非公式の面会。
王妃からの呼び出しを受けたのは、前日の夕刻だった。侍女が持ってきた書簡には、王妃の印章と簡潔な文面。「王家会議の前に、少しお話を伺いたいと思いました」。父ヴィクトールが予測した通りだった。婚約審議の当事者を事前に確認したいと考えるのは、王妃としての職責の範囲。断る理由はなかった。
「グランツハイム公爵家のご令嬢。お父上はヴィクトール殿」
王妃は正面の椅子に座り、エステラを見ていた。四十代の女性。穏やかな目元と、整った佇まい。宮廷の公式行事で遠くから見かけた時の印象と同じだったが、近くで向き合うと、言葉の一つ一つに隙のない選び方が際立っていた。
「ええ、王妃様。お招きいただき光栄でございます」
エステラは深く一礼した。背筋を伸ばし、公爵令嬢としての作法を崩さなかった。
「堅くならないでくださいな。今日はあくまで非公式のお話です」
王妃の声は柔らかかった。だがその柔らかさの中に、問いの形を持った刃が潜んでいることを、エステラは直感で感じ取った。
「まず、経歴を確認させてくださいね」
王妃の問いは丁寧だった。公爵家での教育。学園での成績。社交の場での経験。淑女としての基礎的な確認から始まった。エステラは一つ一つ、正確に答えた。
問いと答えが重なっていく。茶が運ばれ、湯気が立ち、王妃の口調は終始穏やかだった。
だが、核心は別の場所にあった。
「エステラ嬢。一つ伺っても構いませんか」
王妃の目がわずかに変わった。柔らかさの中に、測る色が混じった。
「元の婚約者であったアルヴィン殿下ではなく、弟殿下をお選びになった。その経緯を、あなたの言葉でお聞かせいただけますか」
空気が変わった。
経歴の確認ではなかった。核心だった。
エステラの胸の奥で、複数の感覚が同時に動いた。宰相の執務室で意志を明言した時の感覚。カッセル侯爵令嬢の棘を受けた茶会の感覚。だがどちらとも違う。王妃の問いには、宰相の制度的な冷静さも、侯爵令嬢の悪意もなかった。
もっと個人的な何かが、問いの底に沈んでいた。
エステラは嘘をつかなかった。
「婚約解消の経緯は、王妃様もご存じかと存じます。アルヴィン殿下のご判断に、わたくしは異議を申し立てませんでした。解消が正式に成立した後、レオンハルト殿下との関係は——」
言葉を選んだ。だが選びすぎないようにした。
「最初から好意があったわけではございません。共に事実に向き合い、嘘のない言葉を交わす中で、関係が変わりました」
王妃は黙って聞いていた。
「レオンハルト殿下を選んだのは、わたくし自身の意志でございます」
宰相の前で明言した時と同じ言葉だった。だが今、同じ言葉を口にしながら、エステラは王妃の反応に宰相との違いを感じていた。
宰相は「承った」と制度の言葉で受け取った。手続きに沿う限り異を唱えないという、制度の番人の反応だった。
王妃は——黙っていた。
承ったとも、理解したとも言わなかった。エステラの言葉を聞きながら、何かを測っている。だがその秤の目盛りが、エステラには見えなかった。
「経緯が経緯ですから」
王妃がようやく口を開いた。
「宮廷がどう見るかは、気にせずにいられません」
声は穏やかだった。だがその一言に込められた懸念は本物だった。元王太子婚約者が弟を選んだ。宮廷がどう解釈するか。その社交的な影響を、王妃は職責として量っている。
それは正当な懸念だった。宰相が冷却期間中の接触に注意を促した時と、構造は同じだった。制度の壁。
だがエステラの直感が、それだけではないと告げていた。
王妃の目の中にあるもの。制度と職責の奥にある、もう少し個人的な色。問いの形に隠された何か。王妃自身がそれを言語化できていないような、輪郭の曖昧な感情。
この人は「制度」で量っているのではない。「悪意」で測っているのでもない。
もう少し個人的な——だが本人が名前をつけられていない基準で、わたくしを見ている。
前世で十年間培った対人技術が、その気配を捉えていた。相手の感情を読み、最適な返しを選ぶ力。だが読み取れたのは気配までだった。その気配の正体が何なのかは、分からなかった。
宰相の壁は制度だった。対処の型がある。カッセル侯爵令嬢の壁は悪意だった。見破る技術がある。
王妃の壁は、そのどちらでもなかった。
「もう少し考えさせてください」
王妃が言った。判断は下さなかった。保留だった。
「今日はありがとう。お時間を取らせましたね」
穏やかな声。面会は終わった。
公爵家の屋敷。父の書斎。
エステラは王妃との面会の内容を、正確に報告した。経歴の確認。婚約解消の経緯への問い。「経緯が経緯ですから」という懸念の表明。そして保留。
ヴィクトールは黙って聞き、それから静かに言った。
「王妃様の懸念は正当なものだ」
予想通りの言葉だった。
「だがあのお方は体面だけの人ではない。見極める目をお持ちだ」
父が繰り返した言葉。先日も同じことを言っていた。
「お父様。王妃様の秤が、わたくしには見えませんでした」
声は静かだった。弱音ではなかった。事実の報告だった。
「宰相閣下の秤は制度でしたわ。手続きに沿う限り異を唱えない。その基準は分かりやすうございました。カッセル侯爵令嬢の秤は悪意でした。噂で足を掬おうとする。それも見えました」
ヴィクトールは黙って聞いていた。
「王妃様は——分かりません。職責として量っていらっしゃるのは確かです。けれどそれだけではない気がしますの。もう少し個人的な何かが混じっているように感じました。でも何なのかは」
言葉が止まった。
ヴィクトールは数拍の間を置いた。
「お前の感覚は正しいだろう。王妃様には職責だけでは説明できない何かがある。だが——それが何であれ、お前に必要なのは嘘をつかないことだ」
エステラは顔を上げた。
「王妃様の秤がどのようなものであっても、お前が載せるものは変わらない。自分自身の意志だ。それは宰相閣下の前でも、茶会の場でも、舞踏会の広間でも、お前がやってきたことと同じだ」
父の声は穏やかだった。公爵家当主の秤ではなく、父の声だった。
エステラは深く頷いた。
自室に戻り、窓辺の椅子に座った。
王妃の目は冷たくはなかった。だが温かくもなかった。
宰相の秤は「制度」だった。カッセル侯爵令嬢の秤は「悪意」だった。王妃の秤は——分からない。
分からないことが、今までの壁よりも重かった。
制度は学べる。手続きを踏めばいい。悪意は受け流せる。嘘を見破ればいい。
だがこの人の秤は、何を載せれば傾くのか。
前世で母親は早くに家を出た。母親的な存在との関係の記憶がない。年上の女性が「評価と感情」を混在させて向き合ってくる状況は、前世でも今世でも未経験だった。
対処の型がない。
エステラは膝の上で指を組んだ。
その時、侍女が控えめに声をかけた。
「お嬢様。レオンハルト殿下の侍従から、お伝え事がございます」
エステラは顔を上げた。
「殿下が政務の報告として、お伝えしたいことがあると」
回廊の窓際。翌日の政務書類の受け渡し。
レオンハルトが書類を手渡しながら、声を落とした。
「ヴェルディーア公国の特使が通商交渉に入った。交渉と並行して——王族間の婚姻提案を持ち込む可能性がある」
エステラの指が、書類の上で止まった。
「特使のニコラウスという男だ。通商条約の改定交渉を任されているが、条約だけが手持ちの札ではないらしい」
レオンハルトの声は政務の調子だった。事実と論理を並べる、いつもの声。
「公国の公女——公王の姪を、婚姻の相手として打診してくる可能性がある。通商条約の交渉と絡める形で」
エステラの心臓が一拍、強く打った。
公国の公女。婚姻提案。通商条約との結合。
その情報がエステラの婚約に直結することを、二人とも理解していた。
レオンハルトの声は平坦だった。政務補佐としての報告。感情を排した事実の提示。
だがエステラは、その平坦さの下に何かを聞き取った。あの冷却期間中に「踊りたい」と言えなかった時と、同じ質感の抑制だった。
「まだ可能性の段階だ。正式な提案にはなっていない」
レオンハルトはそう付け加えた。
エステラは頷いた。書類を胸に抱え直し、一礼した。
自室への帰路、馬車の中で窓の外を見た。
王妃の秤。外交の影。
一つの壁の正体が分からないまま、もう一つの影が背景で動き始めていた。
婚約の書面は出された。手続きは進んでいる。
だがその手続きの道は、思っていたよりもずっと長かった。




