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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第3章

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第10話「本物の朝」

嘘のない朝が来るとは、思っていなかった。


舞踏会の翌朝。エステラは自室の窓辺に立ち、朝の光を見ていた。昨夜の燭台の灯りとは違う、白く透明な光が窓硝子を通って床に落ちている。


胸元の白い野花は、昨夜のうちに小さな水差しに挿しておいた。花弁がわずかにしおれ始めているが、まだ白い。


昨夜の記憶が、朝の静けさの中で輪郭を持っていた。


レオンハルトの手の温度。広間の中央で踊った一曲。全貴族の視線。拍手。そして——すれ違いざまの一言。


「一つ、伝えていないことがある」


「明日——庭園で」


今日だった。


庭園の東側。


生垣に囲まれた小さな空間。石のベンチ。午前の光が葉の隙間から斑に差し込んでいる。


何度目だろう、ここに来るのは。「嘘はつきたくない」と言い合った場所。「踊ってくれるか」と聞かれた場所。


侍女は小径の入口に控えている。半私的な距離。


レオンハルトは生垣の傍に立っていた。昨夜の正装ではなく、いつもの政務の装い。だが書類は持っていなかった。


エステラの足音に振り返った。


「来たか」


「ええ」


エステラはベンチには座らず、レオンハルトの前に立った。


朝の光がレオンハルトの横顔を照らしていた。回廊で書類を渡す時と同じ顔。だが今日は書類がない。名目がない。政務でも事務連絡でもなく、ただこの人に会いに来た。


冷却期間が終わり、舞踏会で踊り、全貴族の前で関係を示した翌朝。もう名目は要らなかった。


レオンハルトが口を開いた。


「あの時——庭園で、嘘はつきたくないと言った」


エステラは頷いた。


「だが全部は言えなかった。お前の前では嘘をつきたくないと言いながら、一番肝心なことを言葉にしなかった」


レオンハルトの声は低かった。いつもの平坦さを保とうとしていた。だがその平坦さの下に、何かが震えていた。あの庭園で「怖い」と言った時と同じ種類の震え。


「だから今言う」


レオンハルトがエステラの目を真っ直ぐに見た。


「俺はお前が好きだ」


エステラの心臓が止まった。


止まって、動いた。強く、一つ。


好きだ。


あの回廊で「俺も同じだ」と言った。あれは嘘ではなかった。だが——あの時の言葉は、エステラの不完全な告白に応じた返答だった。エステラが「嘘はつきたくない」と言い、レオンハルトが「俺も同じだ」と返した。互いの感情を確認する言葉ではあったが、自分から踏み出す言葉ではなかった。


今、レオンハルトは自分から言った。


仮面なしの言葉。事実と論理ではなく、感情そのもの。


感情で動くことを恐れていたこの人が。兄と同じになることを怖がっていたこの人が。感情を公にすることの重さを、国王の前で知ったこの人が。


それでも、この言葉を選んだ。


エステラの目が熱くなった。


泣きそうだった。だが今は泣かなかった。泣く必要がなかった。嘘泣きではない。本物の涙でもない。涙よりも先に、言葉を返したかった。


あの回廊で「まだうまく言葉にできませんの」と言った。あの時は本当に言葉が見つからなかった。前世で培った「最適な言葉を選ぶ」技術が、何も出力しなかった。


今も、最適な言葉は出てこなかった。


前世のスキルを使えば、洒落た返しができるかもしれない。相手を感動させる完璧な台詞を組み立てられるかもしれない。十年間の接客業で磨いた技術は、そういう言葉を作ることに長けていた。


だがそれは嘘になる。


嘘をつかないと決めた。この人の前では。


ならば——一番簡単で、一番本当の言葉を選ぶ。


「殿下」


声が小さかった。


「わたくしも、殿下のことが好きですわ」


完璧な台詞ではなかった。洒落てもいなかった。公爵令嬢の品格に相応しい優美な告白でもなかった。


ただ本当のことだった。


前世の十年間で、この言葉を口にしたことは一度もなかった。窓口に立つ人間は自分の感情を口にしない。求められた対応を返し、自分の気持ちは飲み込む。それが十年間の作法だった。


だからこそ、この一言が重かった。


レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。


エステラの顔を見ていた。あの回廊で初めて会った日の観察者の目ではなかった。嘘泣きを見破った日の冷めた目でもなかった。庭園で「十分だ」と言った日の柔らかい目でもなかった。


もっと——近い目だった。


「ああ」


短い一言だった。だがその声は、今まで聞いたどの声とも違っていた。平坦でもなく、感情を排した声でもなく、かといって震えてもいなかった。


静かで、確かな声だった。


風が生垣の葉を揺らした。朝の光が二人の間を斑に照らしていた。


自室に戻ると、侍女が控えめに声をかけた。


「お嬢様。お父様からお手紙が届いております」


ヴィクトール公爵の手による短い書簡だった。


「昨夜の舞踏会を受けて、レオンハルト殿下との正式な婚約について、私から王家へお願い申し上げましょう。手続きの準備を進めます」


エステラは書簡を読み、静かに畳んだ。


父が動いてくれる。公爵家からの婚約申入れ。王家会議での審議。正式な手続き。


父の領分は父に委ねる。あの書斎で商会の件を報告した時に学んだこと。それぞれの領分を認め、自分の領分に集中する。


エステラの領分は——今朝、庭園で果たした。


侍女がもう一つ、報告を持っていた。


「舞踏会でのことですが——カッセル侯爵家について、宮廷内で話が出ているそうです」


「どのような」


「王太子変更論を推されていたのは侯爵家だと皆様ご存知でしたが、国王陛下が明確にお止めになった後も態度を変えられなかった、と。昨夜の舞踏会でお一人だけ拍手をなさらなかったことが、随分と目立ったそうです」


エステラは黙って聞いた。


「主要な貴族家がカッセル侯爵家とお距離を置き始めているとか。ブレンナー侯爵夫人の茶会にも、次回からお招きがないのではと」


カッセル侯爵。王太子変更論を推進し、レオンハルトを自派閥に取り込もうとした貴族。社交の場でエステラの評判を貶める噂を流した貴族。


国王の明言に反して動いていたことが、宮廷内で明確になった。「国王の意に反する貴族」として、社交的信用を失い始めている。


報いは、宮廷の慣習の中で、静かに下されていた。


侍女はさらに続けた。


「それと——あの頃エステラお嬢様に冷たくされた令嬢方ですが、舞踏会でもお嬢様にご挨拶すらなさらなかったそうです。いえ、できなかった、というべきでしょうか。お嬢様のお席の近くにいらしたのに、声をおかけになれないご様子でしたわ」


かつてエステラに手のひらを返した令嬢たち。社交的立場の低下が続いている。舞踏会の場でも、公爵令嬢に近づくことすらできなかった。


エステラはその報告を聞いても、胸に何も浮かばなかった。怒りも、溜飲が下がる感覚もなかった。


もう、あの人たちのことは終わっている。


エステラは窓辺の椅子に座り、水差しの白い花を見た。


嘘泣きから始まった物語だった。


あの庭園で、涙を武器にすると決めた日。嘘泣きを見破られた回廊。嘘と知った上で手を組んだ日々。婚約を解消し、商会の工作を退け、本物の涙を知り、不完全な言葉で感情を確認し合った。


冷却期間。宰相の忠告。カッセル侯爵の噂。茶会の居心地の悪さ。裏方の癖。踊れない足。兄弟の橋。父と子の沈黙。十年分の重さを越えた広間。宰相の前で明言した意志。胸元の白い花。嘘のない一曲。


そして今朝——「好きだ」と「好きですわ」。


嘘から始まった関係が、嘘のない言葉で結ばれた。


正式な婚約は、これから手続きに入る。公爵家から王家への申入れ。王家会議での審議。宰相は手続きの正当性を確認し、制度上の承認を行うだろう。国王は正式な婚約審議を承認するだろう。アルヴィンは再教育を続けつつ、弟の婚約に王太子として異を唱えないだろう。


まだ先がある。手続きがあり、社交があり、政治がある。


だが今日のこの朝の光の中で確かなことが一つある。


エステラは自分の足で、隣に立つ人を選んだ。


あの庭園で一人立った。嘘泣きの自分から離れ、本物の涙を知り、涙すら要らない言葉を見つけた。裏方の自分を越えて、中心に立った。


一人で立てる人間が、隣に誰かを選ぶ。それは依存ではなく、選択だった。


前世の十年間は無駄ではなかった。あの窓口で培った全てがこの一言を言うための準備だった——とまでは思えない。十年間の苦しさは苦しさのままで、都合のいい意味に変えることはできない。


だがあの十年がなければ、この十七年は違うものになっていた。それだけは確かだった。


エステラは白い花に指先で触れた。


花弁はわずかにしおれていたが、まだ白かった。


嘘のない朝が、窓の外に広がっていた。


(完)


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「昨夜の舞踏会を受けて、レオンハルト殿下との正式な婚約について、私から王家へお願い申し上げましょう。手続きの準備を進めます」 これは侍女が読み上げたならわかるんですけど、 エステラは書簡を読み、静かに…
カッセル侯爵が何をしたいのかが分からなかったので、物語上の障害とは認識できても、設定上敵対しているだけのように感じて、主人公に感情移入できなかった。 侯爵令嬢をレオンハルトに近づけて王妃に、という感じ…
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