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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第3章

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第1話「三ヶ月の距離」

庭園の噴水が、午後の光の中で白い弧を描いていた。


水音は規則正しく、途切れることがない。婚約が解消されてから二ヶ月。エステラの日常もまた、この噴水のように穏やかな規則の中にあった。


学園の廊下を歩く。授業に出る。侍女と茶を飲む。刺繍枠に針を落とす。


平穏だった。


平穏の、はずだった。


回廊の窓際。いつもの場所、いつもの時間。


レオンハルトが数枚の書類を手にして立っていた。政務書類の受け渡し。婚約解消後も継続しているこの接触は、公爵家と王家の事務的な連絡経路として機能していた。侍女が数歩離れた位置に控え、回廊には他の生徒が疎らに行き交っている。


「公爵家宛ての控えだ。確認してくれ」


レオンハルトの声は平坦だった。いつもの声。書類を差し出す、いつもの動作。


エステラは礼をして受け取った。指先が書類に触れる、その一瞬の距離。


二ヶ月前、この回廊で「俺も同じだ」と言ったのと同じ声だった。同じ手だった。けれど今、その手は書類しか渡さない。


あの日の言葉は嘘ではなかった。レオンハルトの声の温度を、エステラは覚えている。だがあの言葉の後に続くはずだった何かは、二ヶ月経った今もまだ、形になっていなかった。


冷却期間。


元王太子婚約者と第二王子。その組み合わせで正式な婚約を結ぶには、国王が「十分な期間が経過した」と宣言するまで待たなければならない。宣言がないまま婚約を提起することは慣習違反となる。私的な二人きりの会合が公然と知られることも、体面上避けるべきとされていた。


だから二人の接触は、この回廊の窓際に限られている。政務書類という名目の下で。


「ありがとうございます、殿下」


書類を受け取る。目を通すふりをしながら、エステラはレオンハルトの横顔をちらりと見た。


政務補佐として実権が定着してからのレオンハルトは、以前よりも僅かに疲労の色が目元にあった。書類の量が増えている。アルヴィンの再教育が始まり、政務の多くが移管されたままの状態が続いているからだった。


書類を受け取り終えた。


本来なら、ここで一礼して離れる。いつもの手順。いつもの距離。


エステラは離れなかった。


「殿下。一つ、お伺いしてもよろしいですの」


レオンハルトの視線がわずかに動いた。事務的な受け渡しの範囲を超える気配を、即座に察知した目だった。


「宮廷内で、王太子の変更を求める声が出ていると聞きましたわ」


レオンハルトの表情は動かなかった。だが、書類を持つ手がほんの一瞬だけ止まった。


「カッセル侯爵家が推進派の中心にいるとも」


「どこで聞いた」


「侍女ですわ。宮廷の社交的な情報は、侍女の耳から入ってまいりますの」


レオンハルトは視線を回廊の先に移した。行き交う生徒の位置を確認するような、慎重な動作だった。


「事実だ」


声を落とした。


「俺の政務実績を評価する声と、兄上の再教育中という状況が重なって、王太子変更論が出ている。カッセル侯爵が中心にいるのも事実だ」


エステラの胸に、冷たい風が吹き込むような感覚があった。


王太子変更論。それは、レオンハルトとエステラの関係に直接跳ね返る問題だった。二人の婚約が正式に進めば、「第二王子が王位を簒奪するための政略結婚」と解釈される。公爵家の令嬢と結ぶことで政治基盤を固め、兄から王位を奪う——そういう物語が、勝手に作られる。


嘘の物語を。


エステラの指が、書類の上でわずかに力を込めた。


「殿下は、王太子になるおつもりはございますの」


率直に聞いた。回りくどい言い方をする気にならなかった。この人の前では嘘をつかないと決めた。嘘をつかないなら、問いも真っ直ぐであるべきだった。


レオンハルトの視線が戻ってきた。


「望んでいない」


明確だった。一拍の躊躇もなかった。


エステラは、その言葉が本物であることを疑わなかった。この人の声の温度を、もう読み違えることはない。


だがレオンハルトは、そこで言葉を切らなかった。


「望んでいない。だが——望んでいないと言うだけでは、政治的には何の意味もない」


エステラの呼吸がわずかに止まった。


「カッセル侯爵は俺を担ごうとしている。俺が王位を望んでいないと言っても、侯爵にとっては都合が悪いだけで、信じる理由がない。あの手の人間は、政治家は全員権力を望むと思っている。自分がそうだから」


レオンハルトの声は平坦だったが、その平坦さの下に苛立ちが滲んでいた。合理的な対処が見えていない時の、この人特有の感情の漏れ方だった。


「それを止める手段を、まだ俺は持っていない」


エステラは書類を胸に抱え直した。


レオンハルトが自分の弱点を認めている。政務補佐として実権を持ち、情報収集と論理的分析に長けたこの人が、政治的な噂と思惑の前では「止める手段がない」と言っている。


あの商会の工作の時とは違う。あの時は、書類と記録と証言で対処できた。事実の問題だったから。


今回は事実ではなく、解釈の問題だった。レオンハルトが王位を望んでいないという事実は、カッセル侯爵の解釈の前では無力だった。


「殿下」


エステラは声を落とした。


「わたくしたちの関係が、その解釈に利用されますわね」


レオンハルトの目がわずかに動いた。


「公爵令嬢と第二王子の婚約。それが実現すれば、カッセル侯爵の物語は完成いたします。『公爵家の政治力を背景に王位を狙う第二王子』という物語が」


言葉にすると、胸の奥が軋んだ。


嘘のない関係を確認したはずだった。あの回廊で、あの庭園で。嘘をつかないと決めた。本物の感情を、不完全なままでも認め合った。


それなのに、宮廷がまた新しい嘘を作ろうとしている。二人の関係を、二人の意志とは無関係な物語に書き換えようとしている。


前世でも同じだった。窓口に立つ自分の事情を、誰も聞かなかった。客の物語だけが通り、自分の言い分は消えた。


だが今は前世ではない。


「今すぐ答えの出る問題ではございませんわね」


エステラは呼吸を整えた。


「ですが、知っておくべきことは知りました。ありがとうございます、殿下」


書類を胸に抱え、一礼した。いつもの手順。いつもの距離に戻る動作。


レオンハルトは頷いた。踵を返しかけて、一瞬だけ足を止めた。振り返らない。横顔だけをわずかにこちらに向ける。


「お前も——気をつけろ。侯爵家は、お前の方にも目を向ける可能性がある」


それだけ言って、回廊の角を曲がった。


エステラはその場に立ったまま、書類を抱える手の力を少しだけ緩めた。


二ヶ月前、この回廊で感情を確認し合った。嘘のない言葉を交わした。それで十分だと思った。


十分だったはずだった。


けれど冷却期間は続いている。国王の宣言はまだない。その間に、王太子変更論という新しい壁が二人の間に割り込んできた。感情の問題ではなく、政治の問題として。


嘘のない関係を、嘘の多い宮廷の中でどう形にするか。


その問いが、午後の光の中で静かに輪郭を持ち始めていた。


自室に戻り、侍女が淹れた茶を飲みながら、エステラは刺繍枠を膝に置いた。針を動かす手は穏やかだったが、頭の中は穏やかではなかった。


カッセル侯爵。名前は知っている。宮廷の公式行事で何度か見かけた程度の、挨拶だけの面識。温和な物腰の、老練な貴族。あの人物が、レオンハルトを担ごうとしている。


そしてレオンハルトは、それを止める手段を持っていないと言った。


エステラの針が一瞬止まり、また動き出した。


夕刻。侍女が新しい情報を持ってきた。


「お嬢様。宰相グラーフ閣下が国王陛下に進言されたそうです」


「内容は」


「冷却期間中の第二王子殿下と公爵令嬢の接触について、宮廷内の視線が集まっていると」


エステラの手が、刺繍の針の上で止まった。


宰相が動いた。


冷却期間中の接触。政務書類の受け渡しという名目。その名目が、宮廷の目にどう映っているか。


壁が、また一つ増えた。


エステラは針を置き、窓の外を見た。


夕暮れの空が、淡い橙から藍に変わろうとしていた。二ヶ月前と同じ空だった。あの日、「それで十分だ」と言ったレオンハルトの声を思い出しながら、エステラは思った。


十分だった。あの日は。


けれど、十分なままでは進めない場所に、二人は立とうとしていた。

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