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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第2章

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第10話「嘘のない朝」

嘘のない朝が来るとは、思っていなかった。


エステラは自室の窓辺に立ち、朝の光を見ていた。男爵家の領地から戻って三日。ミルフィの言葉がまだ胸の中にあった。「自分の涙が本物かどうか、自分で分からない」。あの声が、朝の静けさの中で繰り返し響いていた。


同時に、レオンハルトに「本物でした」と伝えた時の、自分の声も。


侍女が扉を叩いた。


「お嬢様。王家会議の決定が正式に通達されました」


エステラは窓から振り返った。


「エールバッハ商会に対する処分です。御用商人申請の永久却下。貴族家への不当な影響力行使に対する商業活動の監視強化。そして宮廷への出入りの永久禁止」


侍女は書簡を差し出した。エステラは受け取り、目を通した。


ルートヴィヒ・エールバッハ。ミルフィの実父。娘を駒として宮廷に送り込み、貸付関係で貴族家に圧力をかけ、御用商人の地位を通じて宮廷への経済的影響力を画策した男。


直接の犯罪行為ではないため、逮捕や追放には至らない。だが、商会の信用は失墜し、宮廷への道は永久に閉ざされた。合法のグレーゾーンで積み上げた影響力が、同じ制度の枠組みの中で崩された。


「それと——」


侍女が声を落とした。


「エールバッハ男爵家が、ミルフィーユ様との養子縁組を取消したそうです。家名保全のための判断とのことです」


エステラの手が、書簡の上で止まった。


ミルフィは平民に戻った。


男爵家養女という身分を失い、貴族社会との繋がりが完全に断たれた。それは男爵家の判断であり、ルートヴィヒの工作がもたらした結果だった。ミルフィ自身が招いた処罰ではなく、父親の工作に巻き込まれた末の帰結。


だが、あの少女はもう一つの選択をしていた。父の指示に従わず、手紙を書かなかった。「書けません」と言った。あの静かな拒否が、ミルフィの中にあった最初の——そしておそらく最も重い——自分自身の意志だった。


「ミルフィーユ様は、お父上の商会ではなく、別の町で暮らされるそうですよ」


侍女がそう付け加えた。別の侍女から聞いた話だという。


ルートヴィヒの支配からも離れた。


エステラは書簡を畳み、静かに息をついた。


午後。回廊の窓際。


レオンハルトが書類を手にして立っていた。いつもの場所。だが、手渡されたのは書類だけではなかった。


「兄上が、国王陛下に申し出たそうだ」


レオンハルトの声は低く、平坦だった。いつもの事実を述べる声。だが、兄について語る時の冷たさが、今日はわずかに薄かった。


「『判断力を鍛え直したい』と。王太子としての再教育を、自ら願い出た」


エステラは目を上げた。


アルヴィンが。自尊心の高いあの人が。自ら。


「商会の工作の全容を知ったことが大きかったのだろう。ミルフィーユが駒だったと知り、自分もまた利用されていたと知った。それで——」


レオンハルトが一瞬、言葉を切った。


「自分の判断がなぜ誤ったのか、向き合う気になったらしい」


エステラは黙って聞いていた。


あの庭園の日。アルヴィンがエステラを断罪しようとした日。あの日のアルヴィンは、自分の感情に真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎて、利用されていることにも気づかなかった。


それを今、アルヴィン自身が認めた。自尊心からではなく、事実を突きつけられた結果としての自省。


「国王陛下は受け入れたの?」


「ああ。王太子の教育方針は陛下の専権だ。正式に再教育が始まる」


レオンハルトは書類を整え直した。


「兄上のことは、これで区切りがつく」


その声に、兄への軽蔑はなかった。かつての「感情で動く人間は兄上のようになる」という冷えた距離感とも違っていた。ただ、事実として受け止めている声だった。


書類の受け渡しが終わった。


だが、レオンハルトはその場を離れなかった。


「もう一つ」


声の質が変わった。政務の声ではなかった。庭園でエステラに「嘘はつきたくない」と言った時の、あの声に近かった。


「ミルフィーユとの対面の報告。あの時、お前は『本物でした』と言ったな」


「ええ」


「約束通りだな」


エステラは首を傾げた。


「約束?」


「俺の前では本物の方を、と言ったはずだ」


エステラの記憶が、あの夕暮れの庭園を呼び起こした。婚約の撤回が決まった後。レオンハルトが「泣きたいなら、本物の方を頼む」と言い、エステラが「善処いたしますわ」と答えた、あの瞬間。


「あれは殿下の前でとは仰っていませんでしたわ」


「そうだな」


レオンハルトが一拍の間を置いた。


「次は俺の前で頼む」


エステラの心臓が一つ、強く打った。


庭園で一歩引いたレオンハルト。「感情で動くことは兄と同じだ」という恐怖に従って、踏み出せなかったレオンハルト。


あの一歩を、今、踏み直そうとしている。


エステラがミルフィのもとに合理的な理由もなく会いに行き、本物の涙を流して戻ってきた。感情で動くことを恐れずに選んだ。その姿を見て——感情で動くことは必ずしも愚かではないと、この人は知ったのだろう。


エステラは口を開いた。


「殿下。わたくしは——」


言葉を探した。


完璧な台詞が出てこなかった。前世の接客業で培った「最適な言葉を選ぶ」技術が、あの庭園の日と同じように、何も出力しなかった。


いつもなら言葉は見つかる。相手に合わせた最適な返しを、瞬時に組み立てられる。十年間の訓練がそうさせてきた。


だが今、この人の前では、最適な言葉ではなく、本当の言葉が必要だった。


「——まだ、うまく言葉にできませんの」


声が小さかった。


「でも、あなたの前では嘘をつきたくないということだけは、確かですわ」


不完全だった。告白と呼ぶには足りない。好意と呼ぶには形がない。


だが嘘のない言葉だった。


レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。


エステラの顔を見ていた。回廊で初めて会った日の観察者の目ではなかった。嘘泣きを見破った日の冷めた目でもなかった。


「それで十分だ」


声は静かだった。


「俺も——同じだ」


エステラの目が熱くなった。


泣きそうになった。だが、今は泣かなかった。泣く必要がなかった。


嘘から始まった関係だった。嘘泣きを見破られ、嘘と知った上で手を組み、嘘の同盟として共闘した。その全てを経て、今ここにあるものは——嘘ではなかった。


王家の体面上、正式な関係に進むには手続きが要る。元王太子婚約者との婚姻は「兄の婚約者を弟が取った」という外形を生む。冷却期間と、改めての婚約提起。それらの手続きを踏まなければ、密通の噂が再燃する。


すぐには進めない。


だが二人の間の感情は、嘘なく確認された。


それで十分だった。今は。


夕刻。自室で侍女が茶を淹れてくれた。


エステラは窓辺の椅子に座り、刺繍枠を膝に置いていた。針を動かす手は穏やかだった。


侍女が、もう一つの報告を持ってきた。


「ミルフィーユ様のことですが——お父上の商会には戻られず、王都から離れた町で暮らし始められたそうです。男爵家の使用人から聞いた話では、小さな仕立て屋で針子の仕事を探していらっしゃるとか」


エステラの手が一瞬止まり、また動き出した。


ミルフィは宮廷を追われ、養子縁組を取消され、平民に戻った。父の商会からも離れた。


だが、あの対面でエステラに語った言葉——「何が本当の気持ちか分からなくなった」——あの言葉の中に、自分自身の感情を取り戻そうとする兆しがあった。父の指示を拒んだ日に芽生えた、「道具ではない自分」の最初の輪郭。


それがどこに向かうのか、エステラには分からない。分かる必要もなかった。


エステラは刺繍の針を動かした。


窓の外では、夕暮れの光が学園の中庭を染めていた。鐘楼の鐘が夕刻を告げた。低く長い余韻が窓硝子を微かに震わせて消えた。


あの頃——ミルフィの涙に身体が強張り、アルヴィンの言葉に備え、次に何が来るかと鐘の音のたびに緊張していた頃——エステラは同じ土俵に立つことだけを考えていた。泣く。相手より先に、相手より巧く。それが唯一の武器だった。


今は違う。


同じ土俵から降りて、自分の足で立つ場所を選んだ。


嘘泣きから始まった。嘘を認めることで信頼が生まれた。信頼の中で感情が芽吹いた。感情を恐れ、逃げ、それでも最後に、嘘のない言葉を選んだ。


不完全な言葉だった。形のない感情だった。


でもそれは本物だった。


エステラは針を止め、窓の外を見た。


夕暮れの空が、淡い橙から藍に変わろうとしていた。


「それで十分だ」


あの声を思い出して、エステラは小さく笑った。


演技ではない笑みだった。


(完)


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― 新着の感想 ―
被害者面だったけど被害者だったのも事実。
他人を陥れるのが問題なのに、主人公どうしちゃったの。 実は主人公、ポンコツ?反省しなくてもいい部分にまで反省 するのは、自虐に酔いしれてるのと一緒だと思うけど。 ミルフィが相手を陥れてまで、自分の欲望…
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