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被害者面だけはお上手ですこと。では、わたくしも同じ手を使わせていただきますわ  作者: 月雅
第2章

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第8話「嘘と本当」

「あの商会の件で、一つ片付いた」


レオンハルトの声が、回廊に低く響いた。


ルートヴィヒが貸付先の子爵家を通じて王家会議に提出させた嘆願。御用商人申請の再審査を求めるもの。それが、崩壊した。


ヴィクトール公爵の仲裁を受けたフォルスター子爵家が、王家会議の場で証言した。「エールバッハ商会からの借財の圧力により、推薦状および嘆願書の提出を強いられた」と。


子爵家の当主が自ら出席し、声を震わせながら述べたという。公爵家が間に入り、借財の再交渉を保証したことで、子爵家は商会の圧力から離れる道を得た。その道が見えた瞬間に、溜まっていたものが溢れ出た。


商会の工作の実態が、公式に認知された。


御用商人申請は正式に却下の方向へ動き始めた。ルートヴィヒの宮廷進出計画は、実質的に頓挫した。


エステラはレオンハルトの報告を聞きながら、静かに息をついた。


終わった——のだろうか。


回廊の窓際。政務書類の受け渡しの体裁。だが二人の間の空気は、書類のやり取りとは異なる温度を帯びていた。


レオンハルトが書類を手渡し終えた後も、その場を離れなかった。


「もう一つ、話がある」


声の質が変わった。政務の声ではなかった。


「場所を変えたい。ここでは——」


レオンハルトが言葉を切った。回廊を行き交う生徒の足音を気にするような視線の動き。


「庭園の東側。生垣の奥に、ベンチがある。侍女は小径の入口に控えさせろ」


エステラは頷いた。


学園の庭園、東側。


生垣に囲まれた小さな空間。以前、婚約が解消された後に二人で話した場所に近い。午後の光が生垣の隙間から差し込み、石のベンチを斑に照らしていた。


侍女は小径の入口に控えている。半私的な距離。


レオンハルトは生垣に背を預けて立っていた。腕は組んでいない。珍しく、手持ち無沙汰のように両手が身体の横にあった。


エステラはベンチに腰を下ろした。


沈黙が落ちた。


レオンハルトが口を開いた。


「あの時——噂が流れた時。公爵家を動かして、問題の焦点を商会に移した。あれは、合理的な判断だったのか」


エステラの心臓が、一拍だけ強く打った。


この問いが来ることは、分かっていた。あの日、レオンハルトが「守られたことがない」と言った日から、この問いの形が、ずっと空気の中に浮いていた。


「合理的な判断でしたわ」


エステラは答えた。声は穏やかだった。


「殿下の調査が止まれば、商会の工作を阻止できなくなります。協力者の信用を守ることは、わたくし自身の利益にもなりますもの」


「それだけか」


短い問い。


エステラの口が開きかけ、閉じた。


それだけか。合理的な判断だけだったか。自分のリスクを取ってまで動いた動機は、本当に戦略だけだったか。


答えを返せなかった。


前世で培った「最適な言葉を選ぶ」技術が、あの日と同じように、何も出力しなかった。嘘を言えば、この人には通じない。回廊で初めて会った日から、嘘をつく相手ではないと分かっている。だが本当のことを言えば——。


言えば、何が変わるのか。


沈黙が長くなった。生垣の葉が風に揺れる音だけが、二人の間を埋めていた。


レオンハルトが口を開いた。


「俺は——お前に対して、合理的でいられなくなっている」


エステラは顔を上げた。


レオンハルトの目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。回廊での観察者の目ではなかった。政務補佐の目でもなかった。何かを言うために覚悟を決めた人間の目だった。


「それが怖い」


声は低かった。


「感情で動く人間は兄上のようになる。そう思ってきた。感情で判断を歪め、涙を信じ、事実を見ず、駒にされたことにも気づかない。ああはなりたくないと思って、事実と論理だけで判断する人間になろうとした」


レオンハルトが視線を一度逸らし、また戻した。


「だが——お前がリスクを取って俺を守った時。合理的に説明がつく行動だと分かっていて、それでも、合理性だけでは説明できない何かがあったことも分かった。お前の中にも。俺の中にも」


エステラは呼吸を止めていた。


「感情を認めれば、合理的な人間ではいられなくなる。兄上と同じように、判断を歪める人間になるかもしれない。それが怖い」


レオンハルトが言葉を切った。


長い間。


「急かすつもりはない。だが——嘘はつきたくない。お前の前では」


エステラの胸の内側で、何かが静かに崩れた。


嘘をつきたくない。お前の前では。


それは——エステラが回廊で初めてレオンハルトと向き合った日に感じたことの、対称形だった。嘘泣きを見破られ、嘘と認め、嘘をつく相手ではないと感じた。あの日から、この人の前では演技の必要がなかった。


そしてレオンハルトもまた、同じことを感じていた。


互いに「嘘をつけない相手」であること。それが確認された。だが、だからこそ——本音を言えば、関係が不可逆に変わる。嘘がつけないということは、曖昧にもできないということだった。


エステラは口を開いた。


だが言葉が出なかった。


合理的な返答なら作れる。前世の技術を使えば、相手を傷つけず、関係を壊さず、曖昧なまま先送りにする言葉を選べる。


でも、それは嘘になる。


嘘をつきたくないと言ったこの人の前で、嘘を返すことは——できない。


「わたくしも——」


声が小さかった。


「嘘はつきたくございません。殿下の前では」


それだけだった。答えになっていないことは、自分でも分かっていた。


レオンハルトは何も言わなかった。


数拍の沈黙の後、一歩引いた。


「今日はここまでにする」


その声は穏やかだった。急かしてはいなかった。だが引いた。一歩。感情を認めかけて、しかし最後の一歩を踏み出せずに、引いた。


エステラにはそれが見えた。


「感情で動くことが怖い」と言ったレオンハルトが、まさにその恐怖に従って引いた。合理的な判断に見える。問題が片付くまで感情の話は持ち出さない方がいい。それは正しい。


正しいのに。


レオンハルトが背を向けて歩き出した時、エステラの胸に小さな傷が残った。


傷。そう呼ぶには浅い。だが確かに、何かが欠けた感覚があった。


同時に、「引いてくれた」ことへの安堵もあった。あと一歩踏み込まれていたら、エステラは答えを出さなければならなかった。感情を認めなければならなかった。それはまだ——怖い。


前世では誰も待ってくれなかった。窓口に立つ自分の事情を、誰も待ってはくれなかった。


この人は待ってくれる。


それが嬉しくて、同時にもどかしかった。


夕刻。自室で侍女が淹れた茶を飲みながら、エステラは窓の外を見ていた。


商会の工作は表面上、決着に向かっている。御用商人申請は却下される。子爵家の証言で、工作の実態は公式に認知された。


だが、胸に残っているのは商会の話ではなかった。


「嘘はつきたくない。お前の前では」


その言葉が、鐘の余韻のように、消えなかった。


茶を一口含んだ時、侍女が控えめに声をかけた。


「お嬢様。レオンハルト殿下の政務室の文官が申しておりました。商会の貸付記録に、まだ一つ、未確認の貸付先があるそうです」


エステラの手が止まった。


「未確認の貸付先?」


「はい。殿下が確認を急いでいらっしゃるとのことです」


まだ終わっていなかった。


エステラは茶器を置いた。


その貸付先が判明した時、何が動くのか。


答えは、まだ見えなかった。

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