第7話「兄の背中」
雨の音が、政務室の窓を叩いていた。
エステラがその報告を受けたのは、御用商人申請の保留が決まってから三日後のことだった。レオンハルトの情報網——男爵家の侍女から文官を経由する、いつもの経路——が、二つの動きを同時に伝えてきた。
回廊の窓際。雨音が二人の会話を自然に覆い隠していた。
「ルートヴィヒが二つの手を打った」
レオンハルトの声は低く、簡潔だった。
「一つ目。男爵家を訪ねて、ミルフィーユに手紙を書かせようとしている。王太子宛てに。反省の弁と、もう一度機会をほしいという内容で」
エステラの指が、書類の上でわずかに動いた。
ミルフィを再び駒として使う。退去させられた娘を、もう一度盤の上に引き戻そうとしている。
「二つ目。貸付先の子爵家を通じて、王家会議に御用商人申請の再審査を求める嘆願を出させようとしている」
申請の保留に対して、正面からの突破を図っている。一つ目は感情の経路——アルヴィンの心に残っているかもしれないミルフィへの情を利用する。二つ目は制度の経路——嘆願という正規の手続きで保留を覆す。
「同時に二つ。片方が駄目でも、もう片方が通ればいい」
「商人の発想ですわね。投資を分散して、回収の確率を上げる」
レオンハルトは頷いた。
「だが、一つ目の手について、男爵家の侍女から入った情報がある」
レオンハルトが一瞬、言葉を切った。珍しい間だった。
「ミルフィーユは手紙を書かなかった」
エステラは目を上げた。
「書かなかった?」
「ルートヴィヒの指示を受けて、しかし従わなかった。侍女の証言では、ミルフィーユは指示を聞いた後、しばらく窓の外を見ていて、それからただ『書けません』と言ったそうだ」
エステラは黙った。
ミルフィが、父の指示に従わなかった。
あの少女が。涙を武器に、言われるがまま——あるいは自ら進んで——宮廷を動かしていた少女が。
領地に退去してから、何があったのか。エステラには直接知る術がない。だが、想像はできた。涙を流しても誰も庇いに来ない日常。男爵家の使用人に特別扱いされない生活。宮廷とは違う、冷たくはないが温かくもない、ただ淡々と流れる時間。
泣いても意味がない世界で過ごした日々が、ミルフィから何かを削り、何かを残した。
それが「書けません」という一言になった。
積極的な反抗ではないのだろう。覚醒でもない。ただ、泣いて従う以外の選択肢が、初めて手の中にあった。それだけのことかもしれない。
だが、それだけのことが、ルートヴィヒの計画を内側から崩した。
同じ日の午後。
レオンハルトがもう一つの報告をした時、その声は普段とわずかに違っていた。
「兄上が、俺に話しかけてきた」
エステラは足を止めた。
「『ミルフィーユの件で、私が知らないことがあるなら教えてくれ』と」
アルヴィンが。自分から。弟に。
あの兄弟の間にある溝を、エステラは知っていた。アルヴィンがレオンハルトに「肩入れするな」と命じた日。政務が移管された日。その溝は深く、冷えたまま固まっていると思っていた。
「殿下は、どうなさったの」
「事実を伝えた」
レオンハルトの声は平坦だった。だが、その平坦さを維持するのに、いつもより力が要っているように見えた。
「エールバッハ商会の工作の全容を。ルートヴィヒがミルフィーユを男爵家に養子に入れた経緯を。貸付関係で複数の貴族家に影響力を持っていたことを。御用商人の申請を通じて宮廷への進出を図っていたことを。全て」
「アルヴィン殿下は——」
「黙っていた。長い間」
レオンハルトは窓の外を見た。雨はまだ降っていた。
「それから、一言だけ言った。『ミルフィーユは——最初から、あの商人に動かされていたのか』と」
エステラは胸の奥で、あの日の審議の間を思い出していた。アルヴィンがミルフィを庇い、ミルフィの涙を信じ、エステラを断罪しようとした日。あの日のアルヴィンは、自分の感情に真っ直ぐだった。真っ直ぐすぎて、何も見えていなかった。
そのアルヴィンが今、知った。
自分が信じたミルフィだけでなく、ミルフィ自身もまた駒だった。感情で動いていたと思っていた少女の背後に、感情ではなく利権で動く人間がいた。
「殿下。アルヴィン殿下に事実を伝えたのは——正しかったとお思いですの?」
レオンハルトは答えなかった。
数拍の間。
「分からない」
その言葉に、エステラは息を止めた。
レオンハルトが「分からない」と言うのを、初めて聞いた。事実と論理で判断する。それがこの人の行動原理だった。事実を集め、事実に基づいて判断する。その行動原理に従えば、兄に事実を伝えることは正しい。
だが、その事実が兄をさらに傷つけることも、レオンハルトには分かっていたはずだった。
「事実を伝えるのは、俺の原則だ。事実を隠すことは俺にはできない。だが——」
レオンハルトの声が、かすかに揺れた。
「兄上の顔を見て、これが正しかったのかは、分からない」
エステラは何も言えなかった。
この人にも、迷う瞬間がある。
論理で割り切れない判断がある。事実を渡すことが正しいと知っていて、それでも、渡した後の兄の沈黙の重さに、答えが出ない瞬間がある。
それは弱さではなかった。
エステラにはそう思えた。弱さではなく、兄弟の間にまだ何かが残っている証だった。完全に冷え切っていたなら、「分からない」という言葉は出ない。
「殿下」
エステラは静かに言った。
「事実を伝えられる人が、殿下しかいらっしゃらなかったのですわ。それだけで十分ではございませんこと」
レオンハルトはエステラを見た。
何かを言いかけて、飲み込んだ。代わりに、かすかに——本当にかすかに——口の端を上げた。
「お前は時々、妙に的確なことを言う」
「前の職場で覚えましたの」
「十年分の、か」
「ええ。十年分の」
雨音が、二人の間の沈黙を柔らかく埋めた。
夕刻。自室に戻ったエステラは、窓辺に立って雨を見ていた。
ミルフィが手紙を書かなかった。ルートヴィヒの一つ目の手は崩壊した。
だが二つ目の手——子爵家を通じた嘆願——はまだ動いている。ヴィクトール公爵の仲裁と、子爵家の証言が、次の焦点になる。
商会との戦いは続いている。
だが、今日エステラの胸に残ったのは、商会の話ではなかった。
ミルフィの「書けません」。
あの一言に込められていたもの。積極的な反抗ではなく、ただ「もう従う理由がなくなった」という静かな拒否。涙を流しても意味がない世界で、涙以外の自分を探し始めた少女の、最初の一歩。
そしてレオンハルトの「分からない」。
事実を兄に渡した後の、珍しい迷い。論理では正しいと分かっている。だが正しさだけでは割り切れないものがある。
二人とも、自分の中の何かと向き合い始めている。
エステラは自分の手を見た。
わたくしは、何と向き合っているのだろう。
答えは、まだ形にならなかった。
雨は夜まで降り続いた。




