第6話「流言の毒」
噂はいつも、気づいた時にはもう手遅れだ——そうではないか?
エステラがその問いを自分に投げかけたのは、侍女の報告を聞いた朝だった。
「お嬢様。宮廷内で、新しい噂が流れ始めております」
侍女の声は慎重だった。慎重さの奥に、報告すべきか迷った形跡が見えた。
「レオンハルト殿下が、政務補佐の権限を濫用し、特定の商会を狙い撃ちにしている——と」
エステラの手が、朝食の茶器の上で止まった。
「加えて、エールバッハ商会の御用商人申請の審査が不当に遅延していると、商会の主が商務官に正式に抗議したそうです」
ルートヴィヒが動いた。
エステラは茶器を静かにテーブルに戻した。
予想はしていた。御用商人申請の遅延を察知すれば、ルートヴィヒは黙っていない。だが反撃の形が、エステラの想定とは違った。
政務書類の向こう側にいた「情報としての敵」が、初めて具体的な行動として姿を現した。噂を流す。商務官に抗議する。どちらも合法の範囲内。だが狙いは明確だった。
レオンハルトの信用を削ること。
「第二王子が政務補佐の権限を濫用している」。その噂は、レオンハルトの政務移管の経緯を知る者にとって、別の意味を帯びる。王太子から弟に政務が移された。その弟が権限を使って特定の商会を狙い撃ちにしている。「第二王子の野心」という解釈が生まれる土壌は、既にあった。
エステラは椅子から立ち上がり、窓辺に歩いた。
以前にも、似たことがあった。ミルフィがアルヴィンに告げ口をして、エステラとレオンハルトの仲を噂にした。あの時、レオンハルトの紙片は「噂は放置しろ。審議で勝てば片付く」だった。
だが今回は違う。
あの時は、噂の対象はエステラだった。エステラの評判が傷ついても、審議の場で証拠を出せば覆せた。
今回の標的はレオンハルトだ。政務補佐としての信用。それが噂で損なわれれば、調査そのものが「権限濫用」として問題視される。レオンハルトが集めた情報の正当性まで疑われかねない。
放置できない。
エステラはその判断を、瞬時に下していた。
回廊での政務書類の受け渡し。
レオンハルトの顔に、いつもの平静があった。だが、エステラの目には、その平静の下にある緊張が見えた。微かに力の入った顎。書類を持つ手の、わずかに強い握り。
「噂のことは聞いたか」
レオンハルトが先に切り出した。
「ええ」
「商務官への抗議も事実だ。申請者として審査状況を問い合わせることは合法的な権利だ。商務官は対応義務がある。向こうは正規の手続きで来ている」
「法に則った反撃ですわね。殿下が書類で戦うように、あちらも手続きで戦う」
レオンハルトが一瞬、苦い表情を見せた。すぐに消えたが、エステラは見逃さなかった。
「噂の出所は、貸付先の貴族だろう。商会が直接流したのではなく、借財関係にある貴族を通じている。証拠は残らない」
「殿下。これは放置できません」
エステラの声は静かだったが、明確だった。
レオンハルトが視線を上げた。
「以前の噂とは性質が違いますわ。あの時はわたくしの評判の問題でした。審議で勝てば片付く種類の噂でした。今回は殿下の職務の信用に関わります。政務補佐としての正当性が疑われれば、調査の継続自体が困難になる」
「分かっている。だが、俺が動いて噂を否定すれば——」
「『弁明している』と受け取られて逆効果ですわ」
レオンハルトは口を閉じた。
エステラは一拍の間を置いた。
この先に踏み出せば、リスクがある。公爵令嬢が第二王子を庇う行動を取れば、「やはり二人は密通している」の構図を強化しかねない。動けばリスク。動かなければレオンハルトの信用が削がれる。
どちらを選んでもリスクがある。
だが。
エステラは選んだ。
「わたくしは動きません。公爵家が動きます」
レオンハルトの目が、わずかに見開かれた。
「お父様を通じて、公爵家として王家に報告いたします。エールバッハ商会の貸付による貴族家への影響力行使の実態を、正式に。問題の焦点を移しますの。『第二王子の権限濫用』ではなく、『商会の不当な影響力』に」
言いながら、胸の内で二つの動機が重なっているのを感じていた。
一つは戦略的判断。噂の構図を転換し、攻撃の矛先を商会に向ける。公爵家には王家への報告・提言の権利がある。以前の審議でも、異議申立の実績がある。
もう一つは——。
レオンハルトを守りたい。
その動機が、合理性の皮を被って胸の中にあった。
エステラはその動機を「合理的な判断」として処理した。公爵令嬢として、協力者の信用を守ることは自身の利益にもなる。レオンハルトの調査が止まれば、商会の工作を阻止できなくなる。だから守る。合理的だ。
合理的だ。
そのはずだった。
「——事前に俺に相談しないのか」
レオンハルトの声は、いつもの平坦さを保っていた。だが、その平坦さの下に、エステラの耳では拾える程度の揺れがあった。
「殿下にご相談すれば、殿下は止めるでしょう? 『公爵令嬢にリスクを負わせるな』と」
「当然だ」
「ですから、ご相談いたしませんわ」
エステラは微笑んだ。公爵令嬢の完璧な微笑み。だがその微笑みの奥に、自分でも整理しきれない感情が混じっていることに気づいていた。
レオンハルトは数拍の間、何も言わなかった。
「分かった」
短い一言だった。同意でも感謝でもない。ただ、事実を受け止めた声だった。
その日のうちに、エステラは父への書簡を書いた。
ヴィクトール公爵は即座に動いた。
公爵家として王家に正式な報告書を提出した。エールバッハ商会の貸付関係を通じた貴族家への影響力行使の実態。返済条件の厳格化を示唆することによる間接的な圧力。御用商人申請の推薦状が、借財関係にある子爵家から出されている事実。
報告書は国王に届いた。
宮廷内の空気が変わった。
「第二王子が商会を狙い撃ちにしている」という噂は、「商会が貸付で貴族に圧力をかけている」という報告に上書きされた。問題の焦点が、レオンハルトから商会に移った。
レオンハルトがそれを知ったのは、翌日の政務書類の処理中だった。
エステラの行動を、事後に知った。
回廊で書類を手渡す際、レオンハルトは何も言わなかった。いつも通りの受け渡し。いつも通りの素っ気なさ。
だが、書類を渡し終えた後、一瞬だけ。
レオンハルトの手が止まった。書類を抱え直す動作の途中で、指先が微かに震えた。
エステラはそれを見た。
「殿下?」
「——何でもない」
レオンハルトは踵を返した。だが、数歩歩いて足を止めた。振り返らないまま、横顔だけをわずかにこちらに向けた。
「俺は——守られたことがない」
声が低かった。政務の声ではなかった。
「控えの駒だった。兄上の代わり。何かあった時のための予備。守られる対象ではなかった」
エステラは息を止めた。
「だから、こういう時にどういう顔をすればいいか、分からない」
レオンハルトはそれだけ言って、回廊の角を曲がった。
エステラは立ち尽くしていた。
胸の内側で、何かが大きく揺れた。
守りたかった。
合理的な判断だと思った。公爵家の報告権限を使った戦略的な手だと。
だが今、レオンハルトの言葉を聞いて、自分の動機の正体を誤魔化しきれなくなっている。
合理的な判断だけでは説明できない感情が、確かにそこにあった。
エステラは窓の外を見た。
これは合理的な判断だった。
そう自分に言い聞かせた。
だが、その言い聞かせが必要な時点で、もう答えは出ているのかもしれなかった。
夕刻。侍女が報告を持ってきた。
「ヴィクトール公爵様の報告を受けた国王陛下が、エールバッハ商会の御用商人申請を『保留』とされたそうです」
エステラは頷いた。
ルートヴィヒの計画に、正式な障害が発生した。
だが、あの商人が黙っているはずがなかった。




