第5話「帳簿の裏」
ルートヴィヒ・エールバッハという男が、エールバッハ男爵家の門を叩いたのは、婚約解消の正式決議から五日後のことだった。
エステラがそれを知ったのは、レオンハルトの情報網を通じてだった。男爵家の侍女から文官へ、文官からレオンハルトへ。以前と同じ経路で、情報は静かに流れてきた。
回廊の窓際。政務書類の受け渡し。
「ミルフィーユの実父が、男爵家を訪ねた」
レオンハルトの声は低く、平坦だった。
「養子縁組の今後について、男爵家当主と協議したらしい。男爵家は家名保全のために縁組取消を検討している。だが、ルートヴィヒは男爵家への貸付を楯に『取消を急ぐ必要はない』と」
「圧力ですわね」
「合法の範囲内での、な」
レオンハルトが書類を手渡しながら、もう一枚の紙片を挟んだ。
「同時に、こちらの調査も進んだ。ヴィクトール公爵の信用調査から出てきた情報だ」
エステラは紙片に目を落とした。
エールバッハ商会が御用商人申請の推薦状を、貸付先のフォルスター子爵家から取り付けていた。御用商人の認定申請には、貴族家からの推薦が必要となる。その推薦状が、借財関係にある子爵家から出されていた。
「推薦状の出所が、貸付先」
「借財の圧力で推薦を取り付けた可能性がある。だが、申請自体は合法だ。政務補佐として申請を却下させる権限は俺にはない」
レオンハルトの声に、かすかな苛立ちが滲んでいた。感情を排した声を保とうとして、わずかに綻びが出ている。それほどに、この問題は合理的な解決が難しいのだろう。
エステラは紙片を書類の間に戻し、考えた。
法的に止められないなら、申請の前提を崩す。
前世の記憶が動いた。百貨店時代、不当なクレームに対して「クレームそのもの」を止めることはできない場合がある。だが、クレームの根拠を崩すことはできる。「この商品が不良品だ」という主張に対して、商品検査の記録を出す。主張の土台を崩せば、クレーム自体が成立しなくなる。
「殿下。推薦状を出した子爵家が、借財の圧力で推薦させられたと証言すれば——推薦状の信頼性が損なわれますわ」
レオンハルトが視線を上げた。
「申請そのものは合法でも、推薦状の前提が不正であれば、王家会議に報告する根拠になります。申請の信頼性を損なう材料として」
「子爵家が証言するか。借財関係にある相手の商会に逆らって」
「そこが問題ですわね。子爵家は商会との関係悪化を恐れるでしょう。証言を引き出すための説得は、殿下のご職務の範囲を超える政治的行為——」
「公爵家の力が要る、ということだな」
エステラは頷いた。
「お父様に、お願いいたしますわ」
その言葉を、自然に口にできた。
以前なら——前世の自分なら——助けを求めること自体に抵抗があった。窓口に立つのは一人。一人で解決しなければ、一人で飲み込まなければ。その癖が、十年間で骨の芯まで染み付いていた。
今は、父に頼ることを選べる。レオンハルトの情報収集力と、ヴィクトール公爵の政治力と、エステラの戦略立案。三者が連携する構図が、自然に形を成していた。
「推薦状の前提を崩す。御用商人申請の信頼性を損なう。商会の宮廷進出を阻止する。この順序ですわ」
「明確だな」
レオンハルトが書類を整え直した。受け渡しを終える動作。
その手が止まった。
「婚約が解消されたのに、まだ俺に敬語か」
エステラは一瞬、言葉を失った。
レオンハルトの声は、いつもの政務の声とは微かに温度が違っていた。砕けた問いかけ。公務の合間に、ふと差し込まれた私的な言葉。
「殿下は王族でいらっしゃいますもの」
エステラは穏やかに答えた。
「それに——」
言葉が、思ったよりも正直に口をついて出た。
「距離を変えるのが怖いだけですわ」
沈黙が落ちた。
回廊を行き交う生徒たちの足音が、遠い場所の出来事のように聞こえた。
エステラは自分の言葉に驚いていた。「怖い」。本音の半分を、こんなに無防備に口にしてしまった。前世の接客業で培った感情制御が、この人の前では時折、制御の外に出る。
レオンハルトは答えなかった。
数拍の間を置いて、書類を抱え直した。
「子爵家への仲裁。公爵家の当主が動くなら、子爵家も商会の圧力から離れる道が見える。公爵家が間に入れば、借財の再交渉も可能だろう」
話題を戻した。感情の話から、事実の話へ。
エステラはそれを「仕方ない」と受け止めた。この人は感情より事実を優先する。それがレオンハルトの行動原理であり、信頼できる部分でもある。
だが。
戻された話題の向こう側に、飲み込まれた言葉があった。婚約が解消された後の敬語について。距離について。エステラが「怖い」と言ったことについて。レオンハルトがそれにどう反応したかったのか。
何も返さなかった。
それは、考えないことを選んだのか。それとも、考えた上で引いたのか。
エステラには分からなかった。分からないことが、小さな寂しさとして胸の内側に残った。
だがその寂しさを「仕方ない」と合理化する自分もまた、感情から逃げているのだと、薄々気づいていた。
自室に戻り、父への書簡を書いた。
フォルスター子爵家への仲裁のお願い。公爵家が子爵家に保護を申し出ることで、子爵家が商会の圧力から解放される道を示す。借財の再交渉を公爵家が仲裁する形を提案。
父に頼る。
その選択を、以前のような抵抗なく行えている自分に気づいた。
変わったのだろうか。
前世では、助けを求めることが敗北だった。今世では、助けを求めることが戦略になった。その差は大きい。だが、それだけではない気がした。
父がいる。レオンハルトがいる。
一人ではない。
それが戦略以上の何かを意味していることに、エステラはまだ名前をつけられずにいた。
封蝋を押し、侍女に伝令の手配を指示した。
ペンを置いた時、ふと思った。
レオンハルトは「距離を変えるのが怖い」という言葉に、なぜ何も返さなかったのか。
感情より事実を優先した——それは事実だろう。だが、感情の話を先送りにしたのは、本当に合理的な判断だったのか。それとも、あの人もまた、自分の感情に向き合うことから逃げているのか。
答えは出なかった。
エステラは刺繍枠を手に取り、針を動かし始めた。規則正しい運針。思考を整える時の癖。
その夜。侍女が新しい情報を持ってきた。
「ヴィクトール公爵様から、お返事でございます。子爵家への仲裁は承知したとのことです。それと——」
侍女が声を落とした。
「公爵様の信用調査の結果、エールバッハ商会が貸付先の貴族家に対して、返済条件の厳格化を示唆して影響力を強めていた実態が確認されたそうです。法的には合法ですが、貴族社会の慣習では——」
「平民の商家が貴族を脅している、と解釈される行為ですわね」
「はい。公爵様は、この情報を王家への報告材料として検討されているとのことです」
エステラは頷いた。
駒が動き始めていた。レオンハルトの情報、エステラの戦略、ヴィクトール公爵の政治力。三者の連携が、商会の工作の外壁を少しずつ削り始めている。
だが、商会の主——ルートヴィヒ——も黙ってはいないだろう。
エステラは窓の外を見た。夜の暗さの中に、学園の灯りが点々と浮かんでいる。
この相手は、感情では動かない。涙も演技も通じない。だが、構造を崩すことはできる。
エステラは刺繍枠を膝に置いたまま、目を閉じた。
次は、向こうが動く番だった。




