第4話「手放す日」
手放すことは、手に入れることよりも難しい。
エステラは審議の間に入る直前、そう思った。以前この場所に足を踏み入れた時は、守るために来た。婚約を一方的に奪われないために。出席記録を武器に、ミルフィの証言の矛盾を突くために。
今日は違う。
自分の意志で、手放しに来た。
王城の審議の間。高い天井から朝の光が差し込み、石壁を白く照らしている。壇上に三つの椅子。その前に書記官の机。壇上の左右に近衛騎士が直立し、入口にも二名が配置されていた。
前回と同じ光景。だが、意味が違う。
エステラは侍女とともに広間に入り、指定された席に着いた。正装に近い装い。公爵家の紋章を留めた胸元の飾り。背筋を伸ばし、呼吸を整える。
広間の右手にヴィクトール公爵が既に着席していた。目が合うと、小さく頷いた。いつもの父の顔だった。
左手にアルヴィンが立っていた。王太子の正装。端正な佇まい。だが、以前この場所で婚約破棄を提起した時とは、纏う空気が違っていた。あの時のような攻撃的な硬さはない。代わりに、どこか居所の定まらない落ち着きのなさが目元に滲んでいた。
ミルフィの姿はなかった。当然だった。宮廷退去、社交界出入り禁止。あの少女はもうこの場にはいない。
書記席に、レオンハルトが座っていた。政務補佐としての正規の席。前回と同じ位置。表情は平静そのもので、エステラとも、アルヴィンとも、等しく距離を置いた佇まい。
壇上に、三名が入った。
国王が中央。王妃がその右。宰相が左。全員が着席し、国王が口を開いた。
「グランツハイム公爵家からの婚約見直し申入れに基づき、アルヴィン王太子とエステラ・フォン・グランツハイムの婚約に関する協議を開始する」
声は静かだったが、広間の隅まで通った。
前回の審議は「婚約破棄の提起」だった。アルヴィンの側からの一方的な断罪。
今回は「見直しの協議」。エステラの側からの、合意に基づく解消の申入れ。手続きが違う。意味が違う。
国王がエステラに視線を向けた。
「グランツハイム嬢。見直しを申し入れた理由を述べよ」
エステラは立ち上がり、壇上に向かって深く一礼した。
呼吸を整えた。
泣かない。演技しない。書き物机の上で何度も書き直した言葉を、そのまま口にする。
「国王陛下。王妃殿下。宰相閣下。お時間を賜りましたこと、感謝いたします」
声は落ち着いていた。震えも、感情の揺れもない。
「わたくしは、アルヴィン殿下との婚約の円満な解消を希望いたします」
広間の空気が静まった。
「殿下を悪く申し上げるつもりはございません。ただ、信頼のない婚約を維持することが、殿下にもわたくしにも益にならないと考えました」
言葉を選んだ。王太子を貶めない。だが真実を曲げない。
「この婚約は、国家間の契約として王家会議のご決議により成立いたしました。その重みは十分に理解しております。ですが、婚約の当事者であるわたくし自身が、この関係に信頼を見出せなくなったこともまた、事実でございます」
壇上の三名は黙って聞いていた。国王の表情は読めない。王妃がわずかに目を伏せた。宰相は無表情のまま、書記官の筆記を確認している。
「わたくしの意志として、この婚約の見直しをお願い申し上げます」
一礼して、席に戻った。
声は完璧に制御されていた。だが、制御の内側で、心臓が強く脈打っているのが分かった。
前世の接客業で培った感情制御。泣くべき時に泣き、黙るべき時に黙る技術。それが今、泣かずに、演技せずに、自分の言葉を述べるために使われていた。
同じ技術。だが使い方が変わった。
国王がアルヴィンに視線を向けた。
「アルヴィン。聞いたな。お前の考えを述べよ」
アルヴィンが立ち上がった。
沈黙が長かった。
広間の空気が張り詰めた。エステラは視線を正面に向けたまま、呼吸を一定に保った。レオンハルトが書記席で微動だにしない気配を、視界の端に感じていた。
アルヴィンが口を開いた。
「私も——」
声が一度途切れた。
「この婚約が、エステラにとって幸福なものではなかったことは認める」
明確な謝罪ではなかった。自身の過ちを全面的に認める言葉でもなかった。だが、エステラの耳には、そこに含まれる最低限の誠実さが聞こえた。
王太子としての矜持が、率直な謝罪を許さなかったのだろう。だが、事実の一部を認めた。それがアルヴィンにとって、どれほどの重さを持つ発言だったか。エステラには想像がついた。
「解消に同意する」
短い一言だった。
それ以上は語らなかった。壇上に一礼し、席に戻った。
国王が王妃と宰相に目配せした。王妃が小さく頷いた。宰相が書記官の記録を確認し、頷いた。
「双方の合意を確認した。アルヴィン王太子とエステラ・フォン・グランツハイムの婚約を、本日をもって円満に解消する。グランツハイム嬢の公爵令嬢としての身分および権利には、一切の影響を与えないものとする」
国王の声が、広間に響いた。
終わった。
エステラは壇上に深く礼をした。立ち上がった時、視界が一瞬だけ揺れた。涙ではない。緊張の解放だった。
王太子婚約者。
その立場が、今、正式に離れた。
エステラ・フォン・グランツハイム。グランツハイム公爵令嬢。それだけが、今の自分の立場だった。
広間を出る際に、書記席のレオンハルトと視線が交差した。
レオンハルトは何の表情も見せなかった。前回の審議の時と同じ——いや、違った。あの時はかすかに顎を引いた。今回は、視線がわずかに長く留まった。それだけの違い。だが、その視線の中にあるものを、エステラは感じ取っていた。
広間の外、控室に向かう廊下で。
レオンハルトが追いついてきた。政務書類を手にしている。書記席からの移動としては自然な動線だった。
「一つだけ」
声を落として、すれ違いざまに。
「これで、俺たちの接触に婚約者の問題は絡まなくなった」
エステラの足が止まりかけた。
その言葉の含意が、胸の内側で広がった。婚約者。アルヴィンの婚約者であるエステラと、アルヴィンの弟であるレオンハルト。その間にあった制度上の壁が、今、消えた。
エステラは答えを返せなかった。
言葉が見つからなかった。前世で培った「最適な言葉を選ぶ」技術が、この瞬間に限って、何も出力しなかった。
レオンハルトは答えを待たなかった。書類を手に、廊下の先へ歩いていった。
エステラは侍女とともに控室に入り、椅子に腰を下ろした。
解放感があった。義務から離れた軽さ。
同時に、喪失感もあった。失ったのは愛情ではなかった。信頼ですらなかった。形式だけの婚約。義務の関係。それでも、一つの関係が終わったことの重みが、胸の底に静かに沈んでいた。
そして、レオンハルトの言葉。
「婚約者の問題は絡まなくなった」。
その先に何があるのか。
エステラにはまだ、それを考える準備ができていなかった。
窓の外で、鐘が午後の刻を告げていた。新しい時間が始まっている。だが、次の感情に踏み出す足が、まだ地面を見つけられずにいた。




