カインの手の傷
ゼファーが気づいたのは、偶然だった。
木曜の夕方、カインがコーヒーカップをテーブルに置いたとき、袖が少しまくれて、手首の内側が見えた。
古い傷だった。
刃物の傷に見えた。一本ではなく、複数。それも、偶然ついたものではなく、何かに慣れた手が残した跡だった。
ゼファーは魔術師として、人体の傷の見立てにはそれなりの知識がある。あの種の傷は、訓練か、実戦か、あるいはその両方でつくものだ。
カインは何事もなかったように袖を戻してカウンターへ戻った。
ゼファーはしばらく原稿用紙を見つめていた。ペンが止まっていた。
一時間後、帰り際にゼファーは言った。
「一つ聞いていいですか」
「どうぞ」
「あなたは以前、別の仕事をしていたとおっしゃっていましたね」
「はい」
「その仕事というのは、この店とは……ずいぶん違う種類のものでしたか」
カインは少し間を置いた。それから、静かに言った。
「はい。かなり違います」
「それは、今のあなたには話せないことですか」
「今は、ここがあればいいと思っています」
ゼファーはその答えを受け取った。直接的な答えではなかった。でも、何かを語っていた。
「……なるほど」
ゼファーはコートを羽織った。扉に向かいながら、もう一度だけ振り返った。
「一つだけ言わせてください」
「はい」
「あなたがここにいることは、多くの人間にとって、よかったことだと思います。以前どんな仕事をされていたかに関わらず」
カインは一瞬だけ、表情が変わった。
それはほんの一瞬で、ゼファーが見ていなければ気づかなかったかもしれない。
「……ありがとうございます」
カインは静かに言った。
ゼファーは路地に出た。夜風が冷たかった。
学者は歩きながら、頭の中で仮説を組み立てていた。いくつかの可能性が浮かんだ。傭兵。騎士。暗殺者。あるいは、もっと別の何か。
しかし、どれが正解であっても、ゼファーはそれを誰にも言わないと決めた。
カインが語らないことには、語らないだけの理由がある。
それがこの店のルールだと、ゼファーは知っていた。
翌週の木曜、ゼファーはまたSOLITAIREに来た。
「いつものを」と言った。
「かしこまりました」とカインが答えた。
それだけだった。
それでよかった。




