5-8
躍起になってアロイスを追いかけまわすこと数日。
逃げ続ける彼と、カミラは思いがけない形で顔を合わせることになった。
「アロイス様! ご、ご無事ですか!?」
夜更けだと言うのに大きな声を上げながら、カミラは転がるようにアロイスの部屋へ駆け込んだ。
部屋には大きなベッドが一つ。本の入った棚が一つ。暖炉と椅子。他には、ほとんど何もない。何度訪れても、息が詰まるほど簡素な部屋だった。
そのベッドの上に、アロイスが横たわっている。侍医がひとり傍に付き、使用人たちが数人、ベッドを囲んで立っている。家令のウィルマーに、侍女長ゲルダ、執事や女中頭など、長いことモンテナハト家に仕える上級の使用人ばかりだ。
彼らは、慌ただしく部屋に飛び込んだカミラに一瞥をくれた。一斉にカミラを見、それ以上反応することなく、アロイスに視線を戻す。示し合わせたかのような人々動きに不快感を覚えるが、今はそれどころではない。
カミラは、使用人たちの間を割ってベッドへ駆け寄った。少し遅れて、カミラに急を告げに来たニコルもついてくる。彼女は部屋の雰囲気に恐縮し、入り口近くで縮こまっているが、それももう気にならない。
「毒……毒を盛られたって本当ですか! お体に障りはありませんか!?」
「大丈夫です。カミラさん。すみません、ご心配をおかけして」
アロイスはベッドの上で、半身を起こした。着ているのは、病人めいた白い服。声はしっかりしているが、顔色はひどく悪い。見るからに無理をしていた。
「たいしたことではありません。ほとんど飲み込むこともできませんでした。安静にするのも念のためだと、医者も言ってくれています」
「たいしたことじゃないって!」
「騒ぎ立てるほどのものではありません。私はこの通り、無事なのですから」
「アロイス様!?」
なんということはない、とでも言うようにアロイスは首を振る。その姿が、カミラには信じられなかった。だって、アロイスは領主だ。王家の血を引く公爵だ。その彼が、何者かに毒を盛られた。無事だから良い、というものでは断じてない。
誰かが、アロイスを亡き者にしようとしたのだ。命を狙っている輩がいるのだ。大騒ぎをしてしかるべきだろう。
そう思ったのは、カミラだけではなかったようだ。
「そうはまいりません。アロイス様」
口をはさんだのはゲルダだった。ベッドからは少し離れ、他の使用人たちに紛れて彼女は立っていた。
「毒を盛った犯人を探す必要があります。すみやかに調べ、見つけ出す必要があるでしょう」
「不要だ。私に大事はない。この件はこれでしまいとする。屋敷の外への口外も禁止だ。他の物たちにも伝えておけ」
アロイスのかたくなな言葉を受け、ゲルダがかすかに片目を細める。二人がにらみ合う間、他の誰も口を開くことはできなかった。これだけの人がいると言うのに、息をひそめるような沈黙が流れた。
「アロイス様を危機に晒した人間を探すのです。なぜ止めるのですか」
先に声を上げたのは、ゲルダの方だった。
ゲルダの当然の問いに、アロイスは答えない。感情の消えた顔が、ただ彼女の姿を見つめている。
「――――誰かをかばっているのですか。犯人に心当たりでも?」
アロイスはやはり無言のままだ。かすかに息を呑み、瞬きをする。それだけが彼の動きのすべてだった。
「かばいたくなる相手なのですね。良いでしょう。――――毒の出所を探しなさい。まずは食事を運んだメイドたちに話を」
「はい」
ゲルダに命じられ、女中頭は険しい顔で頷いた。それから、数人の使用人を率いて部屋を出て行く。彼女はアロイスではなく、ゲルダの言葉の方に従ったのだ。
「ゲルダ」
アロイスは顔をしかめ、ゲルダの名を呼んだ。非難を含んだその声にも、ゲルダは怖じない。
「いかにアロイス様の命といえども、このままにはしておけません。犯人は必ず、私どもで見つけ出しましょう。アロイス様がなにかする必要はありません」
両手を体の前に重ね、背筋を伸ばし、ゲルダは無機質に言った。
「なんの憂慮もいりません。あなたはただ、旦那様のお言いつけを守るだけでよろしいのです。これまでも、これからも変わらず」
そして、一礼。よくできた使用人らしい一糸乱れ仕草だった。
「お夜食は、お部屋に用意してございますので。『食べなさい。残すことは許されない』、旦那様のお言葉を、違えることのなきように」
ゲルダの言葉に、カミラは瞬いた。アロイスは青ざめた。先ほどまでの鉄の表情が嘘のように崩れ、唇を震わせる。
「――――では、失礼いたします」
だが、その様子を見ることもなく、ゲルダは部屋を出ていった。他の使用人たちもまた後に続く。
そうして、アロイスと侍医、おろおろするニコル。そしてカミラだけが残った。
広くなった部屋で、カミラは一人つぶやいた。
「――――夜食?」
毒を盛られたばかりだというのに、今のアロイスがそんなものを口にできるはずがない。カミラも人のことを言えた義理ではないが、あまりにも無神経ではないだろうか。
それに、アロイスに「なにもしなくてもいい」なんて言い草も気に食わない。
これまでもゲルダは、厳格な使用人らしい風体とは裏腹に、アロイスに対してかなり出過ぎた態度をとってきていたが、さすがに言い過ぎである。
――そりゃあ、犯人を見つけた方がいいとは思うけど。
言っている内容自体は、カミラはゲルダに賛成だ。むしろ、毒を盛られても、このまま終わりにしようとするアロイスには疑問がある。きちんと犯人を捕まえなければ、また同じことが起こるに違いない。
――でも、それにしたってあんな言い方!
聞いているカミラの方が腹が立ってくる。いくら古株の使用人でも、いくら屋敷の大半を取り仕切る権力を持っていても、いくら威圧感があって、ちょっと口出すのがためらわれるほど怖くても、あの態度はあんまりだ。
「アロイス様! 夜食なんて!」
「食べないと」
「……はい!?」
小さなアロイスのつぶやきは、カミラにとって信じられないものだった。驚いてアロイスを見やれば、彼はかすかにふるえていた。
「残すことは許されないのに、どうして僕は吐き出してしまったのだろう」
「アロイス様……?」
アロイスは両手で体を抱き、視線を伏せている。カミラの声が聞こえていないのか、呼びかけに反応しない。
「どうして飲み込めなかったんだろう……」
自らを抱く手に、アロイスは力を籠める。カミラは反射的に後ずさった。なにかがぞっと肌を撫でる。視界の端で、ニコルが「ひっ」と怯えるのが見えた。
この感覚に覚えがある。
――――アインストと同じだわ。
カミラを撫でつけ、肌を痺れさせるのは、強い魔力だ。不安定なアロイスの心が、身の内の魔力を抑えきれず、暴発寸前の濃さとなって部屋に満ちていた。
「食べないと……吐いた分だけ、食べないと」
おののくカミラたちには目をくれず、アロイスは立ち上がった。侍医も震え、止めることを忘れている。カミラもニコルも、彼に言葉をかけられない。
アロイスはふらふらと、一人部屋を出て行く。扉を開け、扉を閉め、姿が見えなくなってやっと、カミラは息をすることができた。魔力が徐々に引いていくのがわかる。
「――――って、アロイス様! 行っちゃったわ!」
追いかけないと、と駆けだそうとするカミラの腕を、誰かが掴んだ。振り向けば、怯えた顔のニコルが見える。しがみつくようにカミラの腕を掴み、彼女は血の気のひいた顔で訴えた。
「だめです! 今のアロイス様を刺激したらいけません! 爆発しちゃいます!」
魔力の強いニコルのことだ。カミラよりも正確に、アロイスから漏れ出す魔力の量を計ることができたのだろう。
「あんなの、ひとたまりもないです! 落ち着くまで待たないと!!」
「ニコル……」
カミラは引き留めるニコルの懸命な瞳を見た。
必死な様子は、逆に言えばそれほど危険ということ。カミラの身を案じてくれているのだ。
「ごめんなさい。でも、あんなアロイス様は放っておけないわ」
カミラが見てきたアロイスは、常に穏やかだった。感情をほとんど動かさず、怒ることも嘆くこともめったにない。自分を律し続けてきた男が、自分の魔力も操れないほど揺れているのだ。
アロイスに寄り添う人間は、おそらく屋敷のどこにもいない。明日になれば、アロイスのこと。いつも通りに装うことができるのだろう。
だけど、それでは今日のアロイスはどうなる? 限界を迎えても押し殺し、誰の助けもないまま朝を迎えることになる。それはあまりにも、苦しい。
「ちょっと様子を見るだけよ。行ってくるわ」
ふふんと笑って胸を張ると、カミラはニコルの髪を撫でた。
それから、不安な瞳のニコルを置いて、部屋を飛び出した。
アロイスはどこにいるだろう?