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5-6

 カミラは怒っていた。


 当然である。あれから十日もたったのに、カミラはアロイスとろくに言葉も交わせていないのだ。

 アロイスはほとんど部屋にこもりきり、外にもろくに出てこない。部屋を訪ねても追い返されるし、廊下で声をかけても「忙しいから」と逃げられる。これで怒りがおさまる方がおかしいというものだ。

 閉じこもって何をしているのかといえば、どうやらずっと仕事をしているらしい。食事も部屋に運び入れ、わき目もふらずに書類をさばいているのだとか。


 ――現実逃避だわ!

 ふざけるな、の気持ちを込めて、カミラはビスケットの生地を叩きつけた。この腹立ちをどれほど製菓にぶつけても、まるで鎮まる気配がない。カミラの鬼気迫る様相に、厨房の生意気な料理人たちも怯え、ここ数日は縮こまっている。

 おかげでカミラの作ったビスケット生地は、結構な量になっていた。最初は焼いてみたりもしたが、焼くより力任せにこねる方が今のカミラには向いているらしく、結局生地ばかりが増えていく。

 ――人の話くらい聞きなさいよ! 逃げるんじゃないわよ! やけ食いなんてもってのほかだわ!

 厨房にいると、アロイスの食事事情も聞こえてくるものだ。最近のアロイスは、すっかり前の食欲を取り戻してしまっているらしい。一日に何食も、あのおかしな料理を食べ続ける。これでは、せっかくのカミラの努力も台無しだ。

 やっと人並みに痩せて、運動もはじめて、これから味付けだって変えていこうというところだったというのに。

 アロイスはきっと、このままカミラに対面することなく、王都に返すつもりだ。それがカミラにとって良い事なのだと、彼は本当に思っているのだ。

 ――臆病者! 小心者! そんなの、ただ怖くて逃げているだけだわ!!

 アロイスは出てこないし、小箱だって見つからないし、菓子作りも上手くならないし。ニコルは相変わらず、瘴気が濃いとすぐに肌を掻く。ギュンターはカミラの腕を認めないし、ゲルダは忌々しいままだ。

 なにもかも腹立たしい。それもこれも、全部アロイスのせいだ。

「――――相変わらず、荒れてんなあ」

 カミラに怯える料理人たちの中。恐れもせずにそう言ったのは、呆れた顔のギュンターだ。

「当り前だわ!」

 噛みつくようにカミラが言えば、ギュンターが顔をしかめる。厨房を荒らすカミラを咎めるでもないあたり、もしかしたらカミラに共感しているのかもしれない。

 が、それでも彼は、アロイスの味方だ。

「まあ、坊ちゃんの気持ちもわかってくれ。自分から話をしただけでも、坊ちゃんにとっては勇気のいることだったはずだ」

 ふん、とカミラは鼻で息を吐く。訳知り顔のギュンターは、最初からアロイスの後ろ暗さを、何もかも知っていたのだ。「公然の秘密ってやつだ」と、この男は言っていた。屋敷の中でも、古株の使用人はだいたいみんな知っているのだとか。

 もちろん、わざわざ公言するようなことでもない。ギュンターが黙っていたのも当然なのだが、それでも気に食わないものは気に食わないから仕方がない。

「話すだけなら誰でもできるわ! 相手と二度と関わらないつもりなら、なおさらよ!」

 相手の反応も顧みず、言葉を吐くだけなら簡単だ。そんなもの、壁に向かって話すのと大差ない。

「二度と関わらないって言っても、それはお前のためなんだろう? お前だって、王都に未練があるんだろ? ……ユリアン王子もいるしな」

「私のためってなによ! 自分はどうでもいいって言うの? アロイス様は、簡単に私を諦められるわけ!?」

 ギュンターは顔をしかめる。カミラが、ユリアン王子を諦められなかったことを知っているからだ。アロイスを敬愛する彼は、アロイスに向かないカミラの視線を、いまだ苦々しく思っている。

「……みんながみんな、お前と同じ考えじゃねえんだ。相手のためだからこそ、身を引くこともあるだろう」

「私のためだって言うのなら!」

 ばちん、とカミラが生地を平手でたたく。

「私は、諦めてなんてほしくなかったわ! アロイス様の過去に怖気づくとも、簡単に諦められる相手とも、思われたくはなかったわ!」

 ユリアン王子に恋をしたとき。カミラはずっと彼の力になりたいと思っていた。重荷を預かりたかった。自分が彼の支えになりたかった。

 だけどアロイスは、カミラに支えを望まなかった。怯え、突き放し、拒んだ。カミラが、心を預けるに足る人間だと思っていなかったからだ。臆病な男は、カミラを信じることができず、逃げ出すことを選んでしまった。

 それが許せない。どうしようもなく悔しい。腹が立って仕方がない。それでいて、苦しい。

「アロイス様にとって私は、その程度の人間だったんだわ……!」

 荒く息を吐き出し、カミラは怒る。居ても立っても居られない。落ち着かないカミラの様子を、ギュンターはいぶかしげに見やった。

「…………お前、それ。その言い方」

 半信半疑の視線がカミラを捉える。カミラの怒りに気圧されつつも、彼の表情はどこか、不思議そうだった。

「それって――いや、お前がユリアン王子を好きだってことは知っているし、俺が言うようなことじゃねえんだが……もしかして」

「なによ」

 はっきりしない口ぶりに、カミラは苛立った。言葉を濁すのは、ギュンターにしては珍しい。カミラに詰められても、彼はどうにもためらいがちだった。

 だが、一度首を振ると、彼は意を決したように口を開く。

「ああ――――いや、言っちまうぞ! 女に縁のない俺だけから、自信ねえがな」

 ギュンターは頭を掻くと、カミラに顔を向ける。

 今度はカミラが、彼に気圧される番だった。自信がないと口では言いつつ、厳つい顔に妙な気迫を湛え、彼はカミラに言ってのけた。

「お前、その言い方だと、まるで――――まるで、アロイス様のことが好きみたいじゃねえか!」


 カミラはきょとんとした。

 まったく、まったく思いがけない言葉だった。


 ギュンターの視線に、カミラはしばし瞬きだけを返す。言われた言葉をかみ砕き、頭の中で反芻する。生地をこねる手も止まり、息さえも止まりそうな静寂。ギュンターがひとり、居心地の悪そうな顔をするのが見えた。

 長い間のあと、やっと返した言葉は、ひどく間の抜けたものだった。

「…………考えたこともなかったわ」

 アロイスの人となりを考えたことはある。婚約の話も、結婚のことも考えた。アロイスと夫婦になることを、上手く想像はできずとも、思い浮かべたこともある。

 だけどそう。不思議と。


 ――私が、アロイス様を好き?


 カミラの心に、ずっとユリアン王子がいたからだろうか。最初のアロイスの印象から、恋などできないと、無意識に避けていたのだろうか。あるいは自分自身の心変わりを恐れていたのかもしれない。

 カミラ自身が、アロイスを好きになる。

 そんな、一番大切で単純なことを、カミラは想像すらもしなかった。


「……私、アロイス様ともう一度話をするわ」

 きゅっと手を握りしめ、カミラは宣言した。また逃げられるかもしれない。拒まれるかもしれない。それでも、いても立ってもいられない。

「このままじゃ終われないわ!」

 自分自身の気持ちはわからない。アロイスをどう思っているのか、カミラは確かめなければならない。アロイスが逃げるなら、カミラはそれ以上に追いかけるまでだ。


 ――だって、こんな中途半端なまま、王都へ帰れるものですか!

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