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八甲田山転生 ~現代知識で雪中行軍を生き抜く。犠牲者は、出さない~  作者: 露李鈴
第六章 1902年1月27日(五日目)

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第四十八話 生きてるだけでは足りてない

 田代新湯の宿、二階。


 山口鋠ヤマグチ シン少佐が静養する部屋、

 その隣で――


 永井源之助ナガイ ゲンノスケ三等軍医による、

 弘前隊の最終的な検診が行われていた。


 俺と、福島泰蔵フクシマ タイゾウ大尉、

 そして、神成文吉カンナリ ブンキチ大尉が、その様子を見守っている。


 しばらくして――


 永井軍医は眼鏡を外し、

 曇ったレンズを拭いながら、こちらを向いた。



「案内人の方々は、

 全員、深い眠りにつかれました」


 その一言に、

 部屋の空気がわずかに緩む。


「重度の凍傷への悪化は、

 間一髪のところで食い止めています」


「……そうですか」


 福島大尉の肩から、目に見えて力が抜けた。



 * * *


 史実では――


 後世に「案内人を酷使した」として、

 福島大尉の名は厳しく語られることになる。


 * * *



 だが、今、目の前にいる、

 福島大尉の背中は、それとは違っていた。


 部下と、協力者の命を預かった者として、

 その無事に、心から安堵する、一人の指揮官だった。



「明日には、それぞれが、

 自分の足で歩けるようになるでしょう」


 永井軍医が続ける。


「小林少尉、貴官の指示した、

 段階的な復温が、決定打でしたな……」


 その言葉に、

 福島大尉の視線が、静かに俺へ向いた。



――――――――――


「……小林少尉、

 改めて、貴官に問いたいことがある」


 福島大尉はそう言うと、自らの手袋を脱いだ。


 露わになった指先は、

 氷に焼かれたように赤黒くなっていた。



「我が三十一連隊は、凍傷を防ぐため、

 靴下を三枚重ねにし、その上から唐辛子をまぶし、

 さらに油紙を巻くという処置を施している」


「はい」


 俺は、頷いてみせる。


「これは、マタギの知恵も借り、

 三年に及ぶ研究の末に辿り着いた結論だ……」


 福島大尉の声には、

 積み重ねてきた試行錯誤への、矜持があった。


 この人も、また、何も知らずに、

 ここまで辿りついたわけではないのだ。



「だが……貴官の部下たちはどうだ」


 福島大尉は、

 自分の指先を見下ろしながら言った。


「唐辛子の匂いもしなければ、油紙も巻いていない……。

 装備そのものは、我々と大差ないはずだ……」


 そして、まっすぐ俺を見る。


「それなのに、なぜ、

 誰一人として指を失っていないのだ?」


 問いは、まっすぐだった。


 責めるでもなく、疑うでもなく、

 ただ、本気で知ろうとしている人の目だった。



「福島大尉の『油紙』は、

 外からの湿気を防ぐ意味で非常に合理的です」


 まず、俺はそう言った。


 それは、本心だ。

 福島大尉は間違っていない。


「ですが、それ以上に重要なのは、

 『内側の湿度管理』と『空気の層』なのです」


「空気の……層?」


 聞き慣れぬ言葉に、

 福島大尉の眉がわずかに寄る。



「私は、木綿の下に可能な限り布を挟ませ、

 あえて足首をきつく締めすぎないよう徹底させました」


 俺は言う。


「少尉から言われた時は、

 皆、気休め程度に思っていたものだ……」


 隣で神成大尉が、小さく苦笑する。


「血流を阻害せず、

 暖かい空気を層として閉じ込めるんです」


 俺は、言葉を選びながら説明を続ける。


「そして、何より、濡れたら即交換する」


「そのために『乾いた状態へ戻せる場所』を、

 常に確保し続けたんです……」


 冬の雪山、野営の失敗は許されないのだ。



「……血流の維持、乾燥による空気層の保持か」


 福島大尉は、俺の言葉を解きほぐしていくように聞き、


「我々は『防ぐ』ことばかりを考えていたが、

 貴官は『維持し、回復させる』ことを、

 最初から、この戦術に組み込んでいたのか……」


 と、福島大尉は深く息をついた。



「ただ、死なせないだけでは足りません……」


 俺は、静かに答えた。


「五体満足、動ける形で戻り、

 そこで初めて、連れて帰れたと言えるのです」


 口にしながら、自分の中でも、

 すこしずつ答えが形を取っていくのを感じた。


 ずっと、胸の奥に引っかかっていた、最後の一片。



 そうだ。


 ただ、生きて帰るだけでは、

 足りないのだ――



 * * *


 史実では――


 八甲田山第五連隊の、数少ない生存者たちもまた、

 凍傷によって腕や足を失い、


 その後の人生を、

 深い傷とともに生きることになった。


 生きて帰るだけでは、足りない。


 彼らに「未来」が戻ってきてこそ、

 その時、本当に「連れて帰ってきた」と言えるのだ。


 * * *



「連れて帰る、か……」


 福島大尉が、低く繰り返す。


「行軍とは、ただ、

 目的地へ辿り着くことではないのだな……」


 この時代の軍では、

 任務を果たすことが何より最優先される。


 負傷者が出れば、

 次の者を前へ出せばよい――


 そうした発想が、

 至極当然と、まかり通っている。


 だが、それではいずれ、行き詰まる。


 人を消耗品のように扱う軍は、

 いつか必ず、その歪みの報いを受けることになるのだ……。



「連れて出た者を、どれだけ元の形で戻せるか。

 そこまで含めての全体指揮、か……」


 神成大尉が静かに目を細める。


 『生きて帰ることもまた、指揮官の務めだ』と、

 彼もまた、鳴沢で学んでいた。


 そんな「生きる」という基本に対する考え方が、

 今、こうして部隊に広がりつつある。


 それが、少し嬉しかった。



――――――――――


 福島大尉は、ゆっくり立ち上がった。


 そして、窓の外――

 夜気の中に湯気を上げる田代新湯の方を見た。


「小林少尉、貴官がいなければ……」


 その声は、低く、重かった。


「私は、恩人である彼らの指を――

 あるいは、その命を奪っていたかもしれない」


 一瞬の沈黙。


 やがて福島大尉は振り返り、

 まっすぐに俺を見た。


 そして、短く、だが重みのある敬礼を送る。



「……感謝する。

 軍人として、一人の人間として」


 その敬礼を、

 俺は、背筋を伸ばして受け止めた。



 史実では、

 七勇士は使い潰されるように働かされ、

 後に非業の末路を辿ることになる。


 だが、この世界線では違う。


 彼らは今、

 救われるべき英雄として、

 青森隊の兵たちに大切に介抱されていた。



 福島大尉もまた、

 彼らをただ使うのではなく、

 無事に戻すべき者として、そこに立っている。


 そのことが、たまらなく嬉しかった。



 後の時代は、

 あの八甲田で何が正しく、

 何が誤りだったのかを語るだろう。


 だが――


 今、この田代新湯で脈打つ二百五十五名の命だけは、

 誰にも否定されることのない真実だった。



――――――――――


 夜の帳が降り、

 八甲田が深い藍色に沈んでいく頃。


「夕食の準備が整いました!」


 木村勇上等兵の朗々とした声が、

 田代新湯に夜空に響きわたる。



 一月二十七日、夜。



 青森第五連隊。


 弘前第三十一連隊。


 史実では、残酷なまでにすれ違い、

 ついに交わることのなかった二つの部隊は、


 いまや一つの「生存共同体」として、

 確かな絆を結び始めていた。


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― 新着の感想 ―
>内側の湿度管理 今回の遭難事件は外国も読める形の報告書なり論文が出るんだろうけれど、二重帝国はともかくドイツとフランスは真面目に読んだ方が良いよね 塹壕足的に
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