第四十八話 生きてるだけでは足りてない
田代新湯の宿、二階。
山口鋠少佐が静養する部屋、
その隣で――
永井源之助三等軍医による、
弘前隊の最終的な検診が行われていた。
俺と、福島泰蔵大尉、
そして、神成文吉大尉が、その様子を見守っている。
しばらくして――
永井軍医は眼鏡を外し、
曇ったレンズを拭いながら、こちらを向いた。
「案内人の方々は、
全員、深い眠りにつかれました」
その一言に、
部屋の空気がわずかに緩む。
「重度の凍傷への悪化は、
間一髪のところで食い止めています」
「……そうですか」
福島大尉の肩から、目に見えて力が抜けた。
* * *
史実では――
後世に「案内人を酷使した」として、
福島大尉の名は厳しく語られることになる。
* * *
だが、今、目の前にいる、
福島大尉の背中は、それとは違っていた。
部下と、協力者の命を預かった者として、
その無事に、心から安堵する、一人の指揮官だった。
「明日には、それぞれが、
自分の足で歩けるようになるでしょう」
永井軍医が続ける。
「小林少尉、貴官の指示した、
段階的な復温が、決定打でしたな……」
その言葉に、
福島大尉の視線が、静かに俺へ向いた。
――――――――――
「……小林少尉、
改めて、貴官に問いたいことがある」
福島大尉はそう言うと、自らの手袋を脱いだ。
露わになった指先は、
氷に焼かれたように赤黒くなっていた。
「我が三十一連隊は、凍傷を防ぐため、
靴下を三枚重ねにし、その上から唐辛子をまぶし、
さらに油紙を巻くという処置を施している」
「はい」
俺は、頷いてみせる。
「これは、マタギの知恵も借り、
三年に及ぶ研究の末に辿り着いた結論だ……」
福島大尉の声には、
積み重ねてきた試行錯誤への、矜持があった。
この人も、また、何も知らずに、
ここまで辿りついたわけではないのだ。
「だが……貴官の部下たちはどうだ」
福島大尉は、
自分の指先を見下ろしながら言った。
「唐辛子の匂いもしなければ、油紙も巻いていない……。
装備そのものは、我々と大差ないはずだ……」
そして、まっすぐ俺を見る。
「それなのに、なぜ、
誰一人として指を失っていないのだ?」
問いは、まっすぐだった。
責めるでもなく、疑うでもなく、
ただ、本気で知ろうとしている人の目だった。
「福島大尉の『油紙』は、
外からの湿気を防ぐ意味で非常に合理的です」
まず、俺はそう言った。
それは、本心だ。
福島大尉は間違っていない。
「ですが、それ以上に重要なのは、
『内側の湿度管理』と『空気の層』なのです」
「空気の……層?」
聞き慣れぬ言葉に、
福島大尉の眉がわずかに寄る。
「私は、木綿の下に可能な限り布を挟ませ、
あえて足首をきつく締めすぎないよう徹底させました」
俺は言う。
「少尉から言われた時は、
皆、気休め程度に思っていたものだ……」
隣で神成大尉が、小さく苦笑する。
「血流を阻害せず、
暖かい空気を層として閉じ込めるんです」
俺は、言葉を選びながら説明を続ける。
「そして、何より、濡れたら即交換する」
「そのために『乾いた状態へ戻せる場所』を、
常に確保し続けたんです……」
冬の雪山、野営の失敗は許されないのだ。
「……血流の維持、乾燥による空気層の保持か」
福島大尉は、俺の言葉を解きほぐしていくように聞き、
「我々は『防ぐ』ことばかりを考えていたが、
貴官は『維持し、回復させる』ことを、
最初から、この戦術に組み込んでいたのか……」
と、福島大尉は深く息をついた。
「ただ、死なせないだけでは足りません……」
俺は、静かに答えた。
「五体満足、動ける形で戻り、
そこで初めて、連れて帰れたと言えるのです」
口にしながら、自分の中でも、
すこしずつ答えが形を取っていくのを感じた。
ずっと、胸の奥に引っかかっていた、最後の一片。
そうだ。
ただ、生きて帰るだけでは、
足りないのだ――
* * *
史実では――
八甲田山第五連隊の、数少ない生存者たちもまた、
凍傷によって腕や足を失い、
その後の人生を、
深い傷とともに生きることになった。
生きて帰るだけでは、足りない。
彼らに「未来」が戻ってきてこそ、
その時、本当に「連れて帰ってきた」と言えるのだ。
* * *
「連れて帰る、か……」
福島大尉が、低く繰り返す。
「行軍とは、ただ、
目的地へ辿り着くことではないのだな……」
この時代の軍では、
任務を果たすことが何より最優先される。
負傷者が出れば、
次の者を前へ出せばよい――
そうした発想が、
至極当然と、まかり通っている。
だが、それではいずれ、行き詰まる。
人を消耗品のように扱う軍は、
いつか必ず、その歪みの報いを受けることになるのだ……。
「連れて出た者を、どれだけ元の形で戻せるか。
そこまで含めての全体指揮、か……」
神成大尉が静かに目を細める。
『生きて帰ることもまた、指揮官の務めだ』と、
彼もまた、鳴沢で学んでいた。
そんな「生きる」という基本に対する考え方が、
今、こうして部隊に広がりつつある。
それが、少し嬉しかった。
――――――――――
福島大尉は、ゆっくり立ち上がった。
そして、窓の外――
夜気の中に湯気を上げる田代新湯の方を見た。
「小林少尉、貴官がいなければ……」
その声は、低く、重かった。
「私は、恩人である彼らの指を――
あるいは、その命を奪っていたかもしれない」
一瞬の沈黙。
やがて福島大尉は振り返り、
まっすぐに俺を見た。
そして、短く、だが重みのある敬礼を送る。
「……感謝する。
軍人として、一人の人間として」
その敬礼を、
俺は、背筋を伸ばして受け止めた。
史実では、
七勇士は使い潰されるように働かされ、
後に非業の末路を辿ることになる。
だが、この世界線では違う。
彼らは今、
救われるべき英雄として、
青森隊の兵たちに大切に介抱されていた。
福島大尉もまた、
彼らをただ使うのではなく、
無事に戻すべき者として、そこに立っている。
そのことが、たまらなく嬉しかった。
後の時代は、
あの八甲田で何が正しく、
何が誤りだったのかを語るだろう。
だが――
今、この田代新湯で脈打つ二百五十五名の命だけは、
誰にも否定されることのない真実だった。
――――――――――
夜の帳が降り、
八甲田が深い藍色に沈んでいく頃。
「夕食の準備が整いました!」
木村勇上等兵の朗々とした声が、
田代新湯に夜空に響きわたる。
一月二十七日、夜。
青森第五連隊。
弘前第三十一連隊。
史実では、残酷なまでにすれ違い、
ついに交わることのなかった二つの部隊は、
いまや一つの「生存共同体」として、
確かな絆を結び始めていた。




