第四十六話 賞賛の痛み
弘前隊の案内人たちの応急処置が、
ひとまず落ち着いた頃――
田代新湯には、ようやく、
穏やかな時間が流れ始めていた。
一歩外へ出れば、八甲田の風雪は、
なお猛威を振るっている。
だが、宿の周囲に整然と並ぶ「かまくら型雪濠」の列が、
その暴風を和らげる外郭として機能していた。
――――――――――
「……信じがたいな」
福島泰蔵大尉は、
軍服の肩に積もった雪を払いながら、
感嘆とも、驚愕とも、つかぬ声を漏らした。
「この雪濠の構造――
一体、誰が考えたのだ?」
「小林少尉の発案です」
神成文吉大尉が、簡潔に答えた。
福島大尉の目が、
ゆっくり、こちらへ向けられる。
「……」
思わず、視線を逸らしそうになる。
胸の奥にあるのは、誇らしさよりも、
鈍い、後ろめたさだった――
* * *
史実において――
福島大尉は、
この雪中行軍を踏まえ、
冬期行動の知見を体系立てていく先駆者だ。
これまで、
俺が、口にしてきたことの多くは。
本来なら、
福島大尉のような人たちが、
命を賭して掴み、積み上げ、
後世へ残していくはずだった知識である。
俺はそれを、最初から、答えだけ知っている。
* * *
(……こんなの、カンニングみたいなものだ)
胸のもやを押さえ込み、
俺は一歩前へ出る。
「入口を、一段低く取って、
中に冷気の溜まる場所を作ってあります。
それで、内部の暖気を逃がしにくくしているんです」
説明は、最低限に留めた。
「……なるほど」
福島大尉は短く言うと、
自ら身を屈めて雪濠の中へ入っていった。
「うむ、実に合理的だ……」
その静寂と、暖かさを、
一通り肌で確かめると戻ってくる。
「我々が三本木で学んできた、
雪を掘り、焚き火を囲むだけの露営とは、
発想そのものが違う……」
福島大尉は、
もう一度、雪濠の列を見渡した。
「中は静かだ……外の風音が消え、
この零下の世界が、壁一枚で別天地のように感じる」
(……根っから、研究肌の人なのだろうな)
ただ感心するのではなく、
体感したことをすぐに言語化し、
構造として呑み込んでいく速さがある。
(……だからこそ、余計につらい)
本来なら、この人たちが、
ここから長い時間をかけて辿り着くはずだったものを、
俺は先回りして差し出しているような気分だった。
そんなことを考えながら――
「……図にするとこうなります」
俺はしゃがみ込み、雪の上へ簡単な図を描いた。
「……冷たい空気は下に落ちるので、
入口を下げるだけで暖気が抜けにくくなります」
「ふむ、単純だが、強い理屈だな」
福島大尉が、すぐに応じる。
「こういうものは、聞けば分かるが、
極限の現場で思いつけるかどうかが違う……」
そんな一言が胸に刺さる。
俺は、思いついたんじゃない。
知っていただけなんだ。
けれど、それを言えるはずもない。
「小林少尉の知識は、
ただの思いつきではないな……」
福島大尉は立ち上がり、まっすぐ、俺を見た。
「冬の八甲田という敵を、
最初から、構造ごと理解していたかのようだ……」
「……軍人として最悪を想定しただけです」
苦笑で返すしかなかった。
まさか、百年以上先の未来を知っているなど、
口にできるはずもない。
未来を知るということは、
この先、訪れることまで知っているということだ。
この国が辿る末路も、また――
そんなこと、
語れるはずがなかった。
――――――――――
そのまま、俺たちは、
湯小屋の脇に広がる地熱の一帯へ、足を運んだ。
そこでは、温泉の余熱で、
地表の雪が部分的に溶けている。
そこに、青森隊の兵たちが、
弘前隊の濡れた外套や、靴下を並べていた。
布地からは、
かすかに白い湯気が立っている。
「……温泉の熱を、
ただ、湯に浸かるためだけに使わぬのか」
福島大尉が、
乾いていく軍服を見つめながらに呟く。
「濡れた衣服では、
明日も、また同じ地獄ですから」
「たしかに」
福島大尉は深く頷いた。
「身体を温めるだけでは半分か、
衣服まで熱を戻してこそ、部隊は明日も動ける、か……」
福島大尉の理解の速さに、心が軽くなる。
この人は探求心の塊だ。
見れば学び、学べば、次に活かす。
だからこそ、俺は思う。
悩んで抱え込むくらいなら――
こうした優れた人たちに、
持てるものは、
すべて渡してしまえばいいのかもしれない。
「小林少尉……」
福島大尉が、不意に言った。
「貴官は、軍人というより、
熟練の探検家か何かのようだな……」
「それは買いかぶりすぎです」
「いや」
福島大尉は首を振る。
「雪、風、地形、熱――それらを個別に見ず、
ひとつの戦場として捉えている」
そして、わずかに口元を緩めた。
「正直に言うと、今、私は感嘆している……」
その言葉に、一瞬、呼吸を忘れそうになる。
「この行軍で、最も得がたい戦果は、
田代へ辿り着いたことだけではない……」
福島大尉は、
雪濠と地熱の帯、その向こうの母屋を見渡した。
「貴官のような知を、
このような場で、直に目にできたことだ」
胸の奥が、ずしりと重くなる。
嬉しい。
けれど、痛い。
本当に優秀な人から向けられる賞賛だからこそ、
なおさらだった。
「……光栄です」
ようやく、それだけを返した。
福島大尉は言葉を切り、吹雪の空を見上げた。
「少尉は、あれだ……まるで未来を見てきた、
そう、予言者のようだな……」
「……はは、それは、ロマンがありますね」
俺は、苦笑いをするしかなかった。
この調子なら、いつか、どこかで、
俺のことに勘づかれる日が来るのかもしれない。
そんなことを、
ふと、考えてしまうほどに――
福島大尉の言葉は鋭かった。




