第四十五話 七勇士の救助
弘前歩兵、第三十一連隊。
田代新湯の門をくぐった、
その瞬間――
むせ返るような硫黄の湯気と、
薪の燃える匂いが、彼らを包み込んだ。
雪と、死の匂いしかなかった山中から、
いきなり、人の営みの中へ踏み込んだような感覚だっただろう。
「……信じられん」
福島泰蔵大尉が、
凍りついた軍帽を脱いだ。
その露わになった顔立ちは、
寒気に削がれても、なお端正だった。
鼻筋はすっと通り、雪に濡れた睫毛の奥では、
細い目だけが異様なほど鋭く生きている。
ただ、耐えてきた男の目ではない。
疲労に沈みながらも、なお周囲を観察し、
見極めようとする理性を感じさせる顔立ちだった。
「俺は、夢でも見ているのか……」
その視線の先では、
青森第五連隊の兵たちが、
手際よく弘前隊の背嚢を下ろし、
疲弊した兵を板間へ、
重症者を奥へと次々に振り分けていた。
温泉宿は、もはや宿ではない。
吹雪の只中に築かれた、
生きるための砦そのものだった。
「夢ではありませんよ、福島大尉」
俺は歩み寄り、その手を取った。
手袋越しでも伝わってくる、
凍りきった冷たさ。
「まずは中へ。
案内人の方々を、優先して炊事棟へ……」
今、弘前隊と随行者たちの中で、
最も危険な状態にあるのは――
地元から選ばれた、
七人の案内人たちだった。
後に「七勇士」と呼ばれる男たちである。
まず救うべき者から救う。
それが、この場の理だった。
「酒井軍曹、案内人の方々の足は、
ぬるま湯で段階的に戻してください!」
「熱い湯へ、いきなり入れぬのですな!」
酒井軍曹は、
もはや言葉だけで意図を呑み込む。
この極寒の地で積み重ねてきた経験が、
応急処置の精度を、すでに引き上げていた。
田代新湯の母屋を出て、ほど近い一角。
地熱のまわる床へ、
七人の案内人たちが、
崩れ落ちるように座り込んでいた。
「はぁ……あったけぇ……」
その声は、ほとんど吐息だった。
誰もが顔を青白くし、唇は紫に乾き、
肩で荒く息をしている。
ほんの少しでも到着が遅れていれば、
立ったまま、凍りついていてもおかしくない有様だった。
史実では――
彼らは夜通し宿を探させられ、
疲労と凍傷に蝕まれていく運命にあった男たちだ。
「旦那……」
案内人として、弘前隊の先頭を歩いていた、
沢内吉助氏が、震える手で俺の外套を掴んだ。
「俺たちは……死ぬのかと思ってました……」
かすれたその声には、
雪中で何度も死を覗き込んだ者だけが持つ重みがあった。
* * *
史実通りなら――
昨夜の時点で、
弘前隊はすでに自分たちの位置を見失い、
遭難状態へ、
沈み込みかけていたはずだ。
俺たち青森隊も一度は呑まれかけた、
あの「白の円環」に。
* * *
「雪は、肩まであるし……」
沢内氏の声が、喉の奥で震える。
「新湯は見つからねえし……」
弘前隊は雪濠で待機し、
その間、彼ら七勇士のうち五人。
田代新湯までの道を探すために、
吹雪く真夜中の八甲田を歩かされる。
それが史実だった――
「あの、湯煙が見えなきゃ……」
沢内氏の背後で、別の案内人も呟いた。
「ほんとに、何も見えなかったんだ……。
けど、白ぇ中に、ふっと煙が立ってて……」
昨夜、田代新湯の上へ、
高く立ちのぼらせた白い湯煙。
田代を見つけるための、明白な道標。
もし、あれがなければ。
もし、夜のうちに気づけなければ。
史実どおり、彼らはもっと長く雪の中を彷徨い、
もっと深く身体を傷めていたはずだ。
だが、この世界線では違う。
史実より半日以上も早く、
この弘前隊は田代へ辿り着いた。
それだけで運命は変わるのだ。
「あの湯煙がなければ、
今頃は、皆……まだ雪の中でした……」
沢内氏が、自分に言い聞かせるように呟いた。
その言葉を聞きながら、
俺は胸の奥で、ようやく確信していた。
「……もう、大丈夫だ」
静かに言う。
今なら、まだ間に合う。
この七人は、
史実のようには壊れない。
「まずは、これを」
木村上等兵が、
湯気を立てる粥を運んできた。
白く重たい粥だった。
飢えた腹には、何よりありがたい。
「一口ずつ、ゆっくりでいい。
腹の中から温めるんだ」
案内人たちは何度も頷いたが、
手は震え、椀を持つのもやっとという具合だった。
木村は、黙ってその手を支え、
椀の底をそっと持ち上げる。
「熱いぞ。けど、その熱さが命綱だ」
「……すまねぇ」
「礼なら、元気になってからでいい」
短いやり取りだった。
だがそこには、
死地を越えた者同士の確かな情があった。
「足の処置は、こちらでやります」
永井三等軍医がすぐ脇に膝をつき、
案内人たちの手足の末端から処置に入る。
赤黒く腫れた足先。
感覚の鈍った指。
放っておけば、
史実と同じ道を辿ったであろう傷み。
だが、ここでは違う。
「強く擦るな。
まずは段階的に戻す。乾いた布を、次だ……」
永井軍医の指示のもと、
七人に凍傷の初期処置が施されていく。
段階的加温。
乾燥衣類への交換。
そして、処置を終えた者から順に休息へ回す。
史実では使い潰され、
後遺症に苦しむはずだった彼らだが――
今、この世界線では違う。
彼らは、救われるべき英雄として扱われていた。
同じく、八甲田を越えてきた青森第五連隊の兵たちも、
村の有志として命を懸けて道を拓いた七勇士に、
深い敬意をもって手を貸していた。
その光景を見ているだけで、
胸の奥が、じわりと熱くなった――




