第三話 靴と靴下は、命を守らない
第五連隊・青森方面行軍隊。
その中の一分隊を預かる立場として、
出発前の装備確認に立ち会っていたのだが。
分隊の装備確認は、予想以上に時間がかかっていた。
靴。
靴下。
手袋。
どれも「ある」。
だが「足りない」。
そして何より、「想定されていない」。
――――――――――
「……以上が、分隊の状況です」
酒井徳次郎軍曹の報告は、簡潔だった。
感情を挟まない。
事実だけを並べる。
それが、余計に重かった。
「靴下の予備は、一人あたり一足。
手袋は、濡れた場合の交換を想定していません。
靴は……まあ、現状のものを使うしかありませんな」
俺は、無言で頷いた。
――この「まあ」が、人を殺す。
濡れる。
凍る。
感覚がなくなる。
気づいた時には、もう遅い。
「……酒井軍曹」
「は」
「靴下は、重ね履きが基本になる。
濡れたら即交換。
交換用は、必ず乾いた状態で携行させたい」
酒井は、すぐには答えなかった。
俺を見る。
――測っている。
「少尉殿」
ややあって、低い声。
「それをやると、荷物が増えます。
行軍速度も落ちる」
正論だ。
現場の視点として、正しい。
だからこそ、俺は息を吸った。
「速度より、足を優先する。
足を失えば、行軍そのものが終わる」
一瞬。
酒井の目が、細くなる。
記憶の中の酒井徳次郎は、
俺を信用していなかったように思える。
上の言うことを聞くだけの少尉。
現場を知らない将校。
――それが、これまでの俺に対する評価のはず。
「……理由を、もう一つ」
試すような声だった。
俺は、即答した。
「凍傷は、痛みが消えてからが本番だ。
本人が異変に気づいた時には、もう遅い」
酒井の眉が、わずかに動く。
この時代に、
そこまで具体的に理解している将校は少ない。
* * *
――記録の中で。
凍傷は「不運」や「寒さ」のせいにされていた。
だが、実際は違う。
準備不足と、判断の遅れ。
それだけだ。
* * *
「……了解しました」
酒井は、短くそう言った。
「分隊には、そう伝えます」
完全な信頼ではない。
だが、拒否でもない。
今は、これで十分だろう。
――――――――――
その日の午後、俺は木村上等兵を呼んだ。
「木村」
「は、はい!」
相変わらず、反応が早い。
木村勇――
名前は記録に残らない。
だが、確実に現場を支える兵。
「靴下を乾かす方法を、考えたい」
「乾かす、ですか?」
「濡れたまま放置すると、命取りになる」
木村は、少し考えてから答えた。
「火のそばに吊るすのは、どうでしょう。
焦げないよう、距離を取って……」
「それだ」
俺は、即座に頷いた。
知識は、俺にある。
だが、それを現実に落とし込むのは、この兵たちだ。
これは、俺一人の戦いじゃない。
二百人を超える部隊の演習で、
少尉一人が動き回ったところで、できることなど限られている。
だからこそ――
「できるか?」
問いかける声は、思っていたより静かだった。
木村は、すぐには答えなかった。
一瞬、視線を落とし、
それから、しっかりと顔を上げる。
「……やってみます」
それで十分だった。
――――――――――
夜。
一人になった詰所で、俺は地図を広げる。
八甲田山。
この山は、
人の都合で難易度を変えてはくれない。
そして、
その日、その「最悪」が訪れることを、
俺は知っている。
だからこそ、
準備と判断だけが、唯一の武器になる。
靴と靴下。
たったそれだけで、命は守れない。
だが、
それを軽く扱えば、確実に命は失われる。
俺は、地図の上に指を置いた。
ここから先は、
「当たり前」を疑う戦いだ。
――まだ、間に合う。
そう信じて準備を続けるしかなかった。




