第二話 準備は、命より軽く扱われていた
翌朝、俺はいつもより早く目を覚ました。
外はまだ暗く、乾いた寒気が窓越しに伝わってくる。
雪は降っていない。だが、それが安心材料にならないことは分かっていた。
――この時期の八甲田は、静かな方が怖い。
寝台から起き上がり、外套を羽織る。
動作の一つ一つが、どうにもぎこちない。
この身体は、雪山に慣れていない。
――少なくとも、今の俺の意識では。
それでも、やらなければ。
「まずは、準備だな」
呟いた声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
だが、頭の中では、すでに箇条書きのように思考が進んでいる。
靴。
手袋。
靴下。
食糧。
夜営。
撤退基準。
どれも、史実では軽視されたものであり。
どれも、生還に必要な物だった。
――――――――――
詰所に向かう途中、一人の男性と鉢合わせた。
屈強な体格に、年季の入った目つき。
――この人は、現場の人間だ。
そう思った瞬間、遅れて記憶が追いつく。
酒井徳次郎軍曹。
分隊付きの下士官。
この部隊の実務は、すべて、
彼が回していると言っても過言ではない。
俺を見た酒井は、一瞬だけ視線を走らせ、
すぐに、形式通りの動きに戻る。
敬礼。
「少尉殿。おはようございます」
その声には、蘇る記憶通りの距離感があった。
従いはするが、期待はしていない。
彼の、小林守に対する評価は、そんなところだろう。
「おはよう、酒井軍曹」
自分でも不思議なくらい、声は落ち着いていた。
「……一つ、確認したい。分隊の装備状況を教えてくれ」
酒井が、わずかに眉を動かす。
「装備、でありますか?」
「靴と、靴下。それから手袋の予備数だ」
一拍の沈黙。
酒井は、少し考えるように視線を逸らしてから答えた。
「正確な数までは……ですが、予備は十分とは言えませんな」
やはり、という思いと同時に、胸の奥が冷える。
史実では。
この“十分でない”が、何人もの足を奪った。
「把握しておきたい。可能なら、分隊単位で確認を頼む」
酒井は一瞬、俺の顔を見た。
探るような視線。
「……了解しました」
即答ではなかった。
だが、拒否でもなかった。
――――――――――
そんな俺たちのやり取りを、少し離れた場所から見ていた男がいる。
年の頃は、二十代後半といったところか。
背筋は自然に伸び、立ち姿に無駄がない。
将校用の軍服はきちんと整えられているが、
飾り気はなく、実用本位に見えた。
見覚えがある。
――いや、正確には「知っているはず」の顔だ。
井上徳蔵中尉。
――俺の上官にあたる人物だ。
頭の中で、ばらばらだった情報が、
ゆっくりと形を持って繋がっていく。
* * *
第五連隊。
この部隊で、最も位が高いのは神成大尉。
そして、井上中尉はその次。
連隊内では二番目の将校という立場になる。
現場にも顔を出し、
上の意向も把握している。
指揮官と兵の間に立つ、
中間の位置にいる男だ。
* * *
味方かどうかは、まだ分からない。
だが――
少なくとも、敵ではなさそうだ。
「少尉」
呼ばれて振り向く。
「装備の確認かい?」
「はい。念のために」
井上は、ほんの少しだけ笑った。
「念のため、ね。……悪くない」
その言葉に、わずかだが救われる。
現場を知っている。
そう感じさせる、落ち着いた佇まいだった。
――――――――――
詰所の隅で、一人の男が何かをいじっていた。
焚き付け用の木片だ。
木村勇上等兵。
年は、二十、そこそこだろう。
体格は大きくないが、動きに無駄がない。
小刀を使い、黙々と木片を削っている。
誰に頼まれたわけでもない。
ただ、必要になると分かっているから、手を動かしている。
表情は地味で、目立つところはない。
だが、その指先は慣れていた。
――こういう兵が、現場を支える。
「木村」
声をかけると、彼は慌てて立ち上がる。
「は、はい! 少尉殿!」
その反応を見て、俺の中で、また一つ記憶が引っかかる。
火起こしや、細かな作業を任されることが多い兵。
――彼らの名前は、後年、一般的に記憶されることは少ないだろう。
だが、確かにいた。
こうして、目の前で、生きている。
小林守の記憶にも残っている。
資料の中では、数字の一部でしかなかった存在。
それが、今は、俺の前で、少し緊張した面持ちで立っている。
「火起こしが得意だと聞いた」
木村は、少し照れたように頭を掻いた。
「得意、というほどでは……でも、嫌いではありません」
それでいい、と俺は思った。
俺には知識が。
だが、手を動かすのは、この兵たちだ。
「今度、少し試したい。時間を取れるか」
「はい!」
即答だった。
その反応を見て、胸の奥で何かが、ほんの少しだけ動く。
――まだ、間に合う。
演習自体は止められない。
その実権が、俺にはないからだ。
それでも。
準備を軽く扱わなければ、結果は変えられる。
俺は、静かに拳を握った。
一週間後。
八甲田山。
その日までに、できることはすべてやろう。
誰にも気づかれないほど、ちいさなことを。
誰かが生きて帰るための確かな準備を。




