第二十三話 夜に消えた名前
夜の帳が、野営地を包み込んでいた。
幾つもの「かまくら型雪濠」からは、
塞がらないよう雪を突いて確保された、通気穴を通じて、
兵たちの温かな吐息が微かに白く立ち上っている。
それは、八甲田の山中に、
兵たちが「人類の領土」を死守している確かな証だった。
だが、一歩外へ出れば、
そこは、依然として「死」の支配する領域だ。
気温は、氷点下二十五度。
狂ったように吠える風は、もはや空気ではなく、
皮膚を削ぎ取る「刃」そのものだった。
――――――――――
雪濠のなかで、俺は凍りついた手袋を揉みながら、
明日に向けての装備点検を行っていた。
「……少尉殿」
低く抑えた、だが、切迫した声。
振り返ると、そこに立っていたのは、
見慣れない顔だった。
青森歩兵第五連隊の兵ではない。
たしか……、
山口少佐の随行員として行軍に加わった、編成外の一人。
三等軍医、永井源之助だ――
その顔は、寒さとは別種の、どす黒い青白さに染まっていた。
「……山口少佐殿が、見当たりません」
「……ッ!」
心臓が跳ねる。
山口少佐は、この部隊にとっての「錦の旗」だ。
指揮官である神成大尉の上官であり、
この演習の象徴でもある「彼」を失うことは、
現状、保たれている組織の規律を一気に崩壊させかねない。
「……いつからだ」
「少佐殿は、新設された雪濠の、
防風効果を確かめると仰って、外縁の巡回に……」
永井軍医は、そこで視線を伏せた。
本来なら、少佐のそばに控える立場である。
だが、この状況だ。
彼は軍医として、雪濠を回り負傷者を診ていたはずだ。
その一瞬の隙を、悔やんでいるのだろう――
「お供に、大蔵大尉殿と、加藤見習士官殿の両名が、
付いていきましたが……戻りません」
編成外の三名が揃って行方不明。
それに、この暴風雪。
単純な道迷いか、それとも――
最悪の事故か。
(危険だ、あまりにも……)
焦燥が脳を焼く。
山口少佐は、この雪中行軍の大綱を作り、
実行させた張本人だ。
対ロシア戦を見据えた軍全体の意向とはいえ、
現場は、この凄惨な状況……。
少佐は、誰よりも責任を感じていることだろう。
* * *
史実において、山口少佐は、
数少ない「八甲田山雪中行軍の生存者」の一人だ。
だが、救助からわずか数日後――
責任の重圧からか「ピストル自殺を遂げた」という説が、
今も、闇の中に残っている
あるいは、軍部による口封じの「毒殺説」とも……。
* * *
(少佐は、本来なら生還するはずの人間だ、が……)
今、この野営地には、
本来死んでいるはずの大勢の人間たちが生きている。
すでに歴史は大きく歪んでいるのだ。
『本来生き残るはずの人間が、ここで命を落とす』
そんなバタフライ効果は、十分に考えられる。
少佐が「自分にできることはないか」といった責任感から、
万が一、この極寒の夜に足を踏み出したのなら――
八甲田の闇は、その命を、容易く刈り取るだろう。
「この話、神成大尉には?」
「まだ、誰にも……」
永井三等軍医は、
申しわけなさそうに首を横に振った。
神成大尉には言い出しづらかったのだろう。
「一緒に行きましょう。
一分一秒が、三名の生死を分かちます……」
――――――――――
「大尉殿……っ」
神成大尉の雪濠へ入ると、彼は、
俺が以前渡した「等高線地図」と睨みあっていた。
俺は、簡潔に報告する。
山口鋠少佐。
大蔵元大尉。
加藤次郎見習士官。
三名が、行方不明であることを――
神成大尉は、
一瞬だけ目を閉じ――
それから、静かに息を吐いた。
「……そうか。二次遭難、三次遭難に繋がるな」
神成大尉の呟きは冷徹だった。
この嵐。
大部隊を動かせば、
今度は、本隊が雪風に飲み込まれる。
捜索に出るなど、軍人としては自殺行為に等しい。
「少尉……貴官なら、どうする」
「私の分隊から、少数精鋭で、
雪中行動に慣れた十名を選抜します」
俺は、神成大尉の広げていた地図の一点を指さした。
「野営地の西側、ここだけ等高線が密になっています。
これは雪に隠れた『断崖』です……」
「……っ」
「巡回中に足を踏み外したとすれば、ここしかありません」
ハッタリである――
この極寒の夜、探す「あて」すらなければ、
大尉は、捜索隊の派遣自体を見送る「判断をする責任」がある。
だから、俺は、わずかでも「可能性」を提示した。
「時間は一時間。
発見の有無に関わらず、必ず戻ります」
これは無謀な賭けでもある。
本来、ここは、切り捨てるべきかもしれない。
これは「全員を助け出す」という、
俺の我儘だ――
神成大尉は、しばらく俺の目を見据えて。
「……貴官が命を落とすようなことは許さん」
絞り出すように言った。
「絶対に戻れ、これは命令だ」
「はっ」
俺は、敬礼を返し、
神成大尉の雪濠を後にする。
その背中越しに――
「頼んだぞ、少尉……」
そんな、祈るような声が聞こえたような……気がした。
――――――――――
「酒井軍曹! 木村! 起きろ!」
俺は、雪濠を回り、
最も信頼できる仲間を叩き起こした。
「山口少佐が行方不明だ、探しに行く」
手短に事情を説明する。
細かいことは、移動しながらだ――
「だが、これは正式な軍務じゃない」
「えっ…?」
集められた俺の分隊の仲間たちは、戸惑いをみせた。
「捜索隊への参加拒否を許可する」
一同。
そんな俺の言葉に、
呆然とした表情を浮かべる。
「これは、全員で帰るという、
俺の勝手な意地だ、力を貸してほしい」
一拍の沈黙。
全員の思考が、状況に追いつくと、
この場の誰もが口元を緩める。
「了解」
その重なった声に、俺は、
地獄の底でも生き残れるような力強さを感じた。
――――――――――
一九〇二年 一月二十四日 夜。
俺たちは、
互いの体をロープで繋ぎ、
一寸先も見えない「白」と、
すべてを飲み込むような「黒」の深淵のなかへ、
その足を、自ら踏み出した。
マイナス二十五度の夜。
史実では「壊滅の始まり」となる、この時間を――
二百十名の「絆」を繋ぎ止める夜へ、
俺が、書き換えてみせる。




