第二十二話 第二野営地、腰を据える場所
八甲田山雪中行軍は、止まった。
だが、それは敗北を認める「撤退」ではない。
無謀な「前進」を止め、
生き残るために大地に根を張る
積極的な「停滞」の決断だった――
神成文吉大尉の号令が下ると同時に、
各小隊は散開し、周辺の地形探査を開始する。
求めるのは、単なる平地ではない。
風を殺し、
雪を味方に変えられる場所。
わずかな起伏が、
生と死を分ける境界線になる。
――――――――――
俺は、酒井徳次郎軍曹と共に、
腰まで埋まる新雪をかき分けながら、
深雪の斜面を巡っていた。
「少尉殿、あそこはどうですな」
酒井軍曹が指差したのは、
尾根から、一段下がった場所。
すり鉢状の凹地だった。
「いいぞ、昨夜に野営した
馬立場の凹地によく似ている」
上空を吹き抜ける風が、
尾根によって遮られている。
雪の積もり方を見れば、
ここが、強い風の通り道でないことが分かる。
俺は、一歩踏み込み、
雪の締まり具合を確かめた。
下は固いし、壁も自立する――
「よし、ここを今夜の拠点地とする」
――――――――――
「井上中尉!」
第五連隊の最後尾となる行李隊と、
本隊の合流を指揮していた井上徳蔵中尉に声をかけた。
「いい設営地は見つかりましたか、少尉殿」
井上中尉は、静かに振り返る。
「雪濠の形状について、
全隊に徹底したい工夫があります」
「……工夫?」
井上中尉の視線が鋭くなる。
「昨日までの雪濠は、ただの『穴』でした。
ですが、今夜の風雪は、それでは防げません……」
手近な雪面に、俺は指で図解を描いていく。
「壁を、可能な限り高く積み上げ、
上部を内側に湾曲させて組みあげます……」
「……ふむ」
「最終的には、天井を丸く閉じた、
『かまくら』に近い構造にするんです……」
瞬間、井上中尉の眉が、ピクリと動く。
「天井を……塞ぐ?
重みで崩れるのではないか?」
きちんと、俺の説明を頭のなかで構築している。
だからこそ出てくる疑問だ。
「中心に、柱となる背負子を置き、
その周囲を、雪のブロックで固めれば、
強度は保てるでしょう」
「……なるほど」
「重要なのは、内部の熱を逃がさないことです」
さらに、俺は、
雪の上に内部構造を描きすすめる。
「入口を風下へ向け、かつ、
内部より一段低くして『冷気溜まり』を作ります」
それは、現代の、
雪山サバイバルの常識――
イグルーや、雪洞からの知恵である。
「これにより、人間の体温だけで、
内部は、氷点下付近を保てるはずです……」
* * *
仮に、八甲田の夜が、
マイナス二十度という極寒を下回っても。
雪壁の断熱効果により、内部に風さえなければ、
人間の生存可能な温度に安定するのだ。
* * *
「なるほど、いや、でも、これはさすがに……」
俺の言葉を疑っているわけではないだろう。
だが、ここで考えるのは、
その労力と、効果……コストパフォーマンスだ……。
そこまで、雪濠に、
手をかける必要があるのか……と。
井上中尉は、しばし、黙考した……。
「この吹雪の中では、それが、
唯一の『防壁』になるというわけですな……」
井上中尉のなかで、
ある程度、思考がまとまると……。
最終確認をするように、俺の顔を見てきた――
「今夜は、これまでとは、次元の違う、
恐ろしいまでの『冷え込み』が予想されます」
俺は、言い切った。
* * *
今夜、観測史上最低の大寒波が訪れる。
だが、この時、
人類にそれを知る術はない――
だが、この時、
俺だけが『大寒波』を知っている――
* * *
「次元の違う冷え込み、ですか……」
井上中尉は、空を見上げる。
俺が未来を知っているなど、
当然、井上中尉が知るはずもない。
だが、現状の悪天候は、
すでにその最悪の兆しを形づくっていた。
「ここで、生死が分かれます」
さらに強く、俺は断言した。
「……少尉殿の判断を信じましょう」
それだけ言うと、井上中尉は背後に振りむき、
伝令たちに、鋭い声を飛ばし始めた。
「各小隊へ伝達! 設営方針を変更する!」
――――――――――
それから数分後――
野営地は、活気ある「工事現場」へ変貌した。
穴掘り班は、中心となる垂直の穴を掘る。
次に、その周囲を建材班がスコップで削り、
ブロック状の雪を切り出す。
それを建築班が、
穴の縁に積み上げて、
内側へ、少しずつ傾斜させていく。
「入口は小さくしろ! 風下だぞ!」
「天井の雪を叩いて固めろ! 隙間を埋めるんだ!」
最初、俺と一緒に、
一棟分を建てた木村勇上等兵たちの面々が、
その後、他の分隊の現場を回りながら、
具体的に指示してまわっていた。
半信半疑だった分隊の兵たちも、
完成した『かまくら』の中に足を踏み入れた瞬間、
誰もが、その、劇的な変化に息を呑んだ。
「……音が、消えた」
誰かが呟いた。
外を叩きつける風の咆哮は、
雪ブロックの、厚い壁に吸収され、
その咆哮が、
まるで別世界の出来事のように思えるほど、
遠く、遠く……不安を、やわらげてくれた。
「はぁ……」
吐く息が、白く淀み、
自分の体温が『かまくら』の空間内に、
ゆっくり、だけど確実に、蓄積されていくのが分かる。
――――――――――
一月二十四日の夜。
日が沈み――
空が、鉛色から、
完全な闇に姿を変えていく。
気温は、一気に、マイナス二十五度の……。
常軌を逸した『極寒の世界』へ、突入した――
「……これは、たしかに……堪りませんな……」
酒井軍曹が、暴れ狂う猛吹雪のなか、
背後から声をかけてくる。
「こんな寒さは、今まで、
私も経験したことありませんよ……」
そんな極寒を確認するため、
あえて、俺たちは雪濠の前に立っていた。
「だが、間に合った……」
俺たちの野営地は「形」を成していた。
今、二百名以上の兵が、
等間隔に配置された、丈夫な「白いドーム」の中に、
その身を寄せ合っている。
早い時間からの行軍停止、
その決断がなければ『これ』は間に合わなかっただろう。
「ん、あれは……」
俺の視線の先では――
神成大尉が、外套をたなびかせながら、
各地の雪濠を巡回していた。
疲労で青ざめた顔をしながら――
一つ一つの雪濠を覗き込み、
なかの兵たちの生存を確認してまわる。
「……うむ、これならば今夜を越せるな」
神成大尉の一言が、この暗闇の中で、
どれほどの安心感を兵たちに与えることだろう――
「……少尉、さすがに、もう中に入りましょう……」
「……そうだな」
俺たちも自分たちの雪濠に入ると、
互いに背中を合わせるようにして腰を下ろした。
――――――――――
最悪を迎えた八甲田山、二十四日の夜――
雪壁の向こうでは、
その嵐が、狂ったように叫んでいる。
だが、この小さな閉鎖空間は、
確かな「人類の領土」として機能していた。
* * *
史実では、俺たち第五連隊を壊滅に招いた、
観測史上最低の大寒波を前にして。
俺たちの中に、脱落者の影はない――
* * *
「これなら、なんとか……なりそうだ……」
明日以降にも、
この『かまくら型の雪濠』は通用する――
そんな、確かな手ごたえのなか――
二日目の、
長い夜が、
始まろうとしていた――




