第十四話 雪山の帰還不能点
進めば、戻れない。
そんな感覚が、
はっきりと輪郭を持ち始めていた。
行軍は、続いている。
止まってはいない。
崩れてもいない。
だが――
確実に、余裕がない。
誰も口にはしない。
それでも、全員が同じことを感じている。
――この先は、楽にならない。
――――――――――
野営地を出てから、
気温は、さらに下がっていた。
氷点下二十度。
風がある。
体感は、それよりも低い。
雪は横殴りに吹き付け、
視界は、刻々と削られていく。
胸ほどもある新雪を、
兵たちは、腕で掻き分けながら進む。
一歩、踏み出す。
腰まで沈む。
体を引き抜く。
歩くというより、
雪の中を、這っている。
一日目の野営地を山の頂とするなら、
そこから沢へ下り、
川を渡り、
再び、山を登った先。
その先に、
目的地となる「田代」がある。
残り、僅か、一・五キロ。
数字の上では短い。
だが、この地形。
この積雪。
この風。
上層部も、容易な道ではないことを
理解しているはずだった。
それでも――
まだ、歩けている。
まだ、列は保たれている。
だからこそ、
判断が遅れる。
* * *
史実でも、そうだった。
「まだ行ける」
「まだ足は動いている」
その積み重ねが、
引き返す機会を奪っていった。
* * *
酒井徳次郎軍曹が、
列の動きを見ながら言った。
「……速度が、また落ちています」
「どれくらいだ」
「昨日の、七割ほどです」
七割。
数字にすると、
はっきりと重い。
* * *
俺は、頭の中で条件を並べる。
気温。
風。
視界。
速度。
凍傷の兆候。
どれも、
単独では限界ではない。
だが――
すべてが、
同時に悪化し始めている。
それが、
一番、危険だった。
* * *
前方に、小さな起伏が見えた。
ここを越えれば、
沢に出る。
遮るもののない谷間。
猛吹雪が、真正面から襲いかかる。
沢の水が、容赦なく、
俺たちの熱を奪っていく。
一度、沢越えに取り掛かれば、
そこから引き返すには、
さらに命が要る。
この先に進めば、あとは、
「戻る」より
「進む」ほうが、楽に見えてしまう。
それが、悪魔の罠であるとも知らずに。
――――――――――
神成文吉大尉の背中が、
前方に見える。
迷いはない。
あるのは、責任だけだ。
演習を完遂する。
それが、この人の役目。
間違ってはいない。
だが――
山は、その正しさを保証しない。
酒井が、俺の横に並ぶ。
「……少尉殿」
声は、低い。
「戻るなら、今でしょうな」
歴戦の酒井が、ここまで言う。
それだけ、
現場は追い詰められていた。
俺は、前を見る。
この先に進めば、
引き返す理由が失われていく。
「せっかく、ここまで来た」
「もう少しで、目的地だ」
そんな言葉が、
命より重くなっていく。
――――――――――
俺は、決断する。
俺に、
全体を止める権限はない。
だが、止める準備は整っている。
ここを越えれば、
遭難地点こそ違えど、史実と同じ
惨劇の渦に飲まれてしまう。
そうなる前に。
俺は、一歩だけ前に出た。
声を張る。
「一度、止まります」
列が、ざわつく。
神成大尉が振り返り、
その視線が、俺を捉えた。
ここから先は、
もう、引き返せない。
進むか。
止めるか。
――判断の時だ。




