第一話 守れなかった名を、今度こそ
最初に気づいたのは、息が白いことだった。
それから、指先の感覚がやけに遠い。
視界に入ったのは、見慣れない天井と、煤の浮いた梁。
耳に届くのは、遠くで響く靴音と、男たちの低い声。
どれも現代のそれではない。
――おかしい。
体を起こそうとして、肩に走る鈍い痛みに息を詰めた。
その拍子に、胸元で何かがぶつかる音がする。
無意識に視線を落とし、彼はそれを見た。
階級章。
少尉のそれだった。
その下、襟元に縫い付けられた赤い襟章。
刻まれた数字を見て、思考が一瞬、止まる。
――五。
「……は?」
声が、やけに若い。
それだけで、嫌な予感は確信に変わった。
頭の奥が、ざわりと波打つ。
知らないはずの記憶が、知っているはずの知識と混ざり合い、
強引に形を結び始める。
ここは―― 明治。
自分は―― 陸軍歩兵。
部隊は―― 第五連隊。
そこまで辿り着いた思考が、ぴたりと止まる。
向かう先は。
「八甲田山」
誰にも聞かれないよう、声を殺して呟いた。
その瞬間、背中に冷たいものが流れ落ちるのを感じる。
胸の奥が、嫌な形でざわついた。
知らないはずがない。
だが、思い出したくなかった名前だった。
日本史上、最悪の雪山遭難。
凍死。
錯乱。
彷徨。
――生きて帰れなかった、青森隊。
「……冗談だろ」
そう思ったときには、もう遅かった。
机の上に置かれた書類に、はっきりと書かれていたからだ。
雪中行軍演習
視線が揺れる。
喉が、ひくりと鳴った。
自分は、知っている。
この演習の結末を。
この部隊が、どんな運命を辿るのかを。
そして――
自分が入り替わる前の、この少尉が、
どんな人間だったのかも。
* * *
上の命令に逆らわず、疑わず、考えず。
真面目で、忠実で、そして
――判断を委ねることしかできなかった。
部下からの信頼は薄く、
側近からも一歩引いた目で見られながら。
「まあ、俺は、そういう上官だ」と受け入れられていた男。
その男の名が、胸の内で静かに浮かぶ。
コバヤシ・マモル。
* * *
――守る、か。
皮肉だな、と彼は思った。
何一つ守れなかった男の名を、今、自分が背負っている。
――なら、逃げればいい。
一瞬、そんな考えが脳裏をよぎる。
体調不良を訴えればいい。
当日になって動けないふりをすれば、
この行軍に参加せずに済む。
それで、自分だけは生き残れる。
理屈では、分かっている。
だが――
胸の奥で、何かが強く引っかかった。
足が、前に出るのを拒んだ。
喉が、言い訳を許さなかった。
理由は、分からない。
だが、この身体は知っている。
ここで背を向ければ、それは「生き残る」ではなく、
「置いていく」という選択になることを。
小林守は、何も守れなかった男だったのかもしれない。
だが、少なくとも、逃げるつもりはないようだ。
その感覚が、今も、この身体の奥に残っている。
深く息を吸い、吐く。
震えは、まだ止まらない。
それでも、思考だけは不思議なほど冴えていた。
演習は止められない。
階級は少尉、この立場では無理だ。
なら、やるべきことは一つしかない。
「一週間後、八甲田山か」
誰もいない室内で、俺は静かに呟いた。
ここを軸に準備をする。
判断基準を決める。
俺は生きて帰る。
皆を、連れて。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
本作には、八甲田山雪中行軍演習をはじめ、
実在の出来事や人物をモチーフとした要素が登場しますが、
物語の内容はフィクションです。
登場人物の行動や判断、結末などは、創作上のものとなります。
主人公である小林守は、史実には存在しないオリジナルの人物です。
史実をなぞることではなく、
「もし別の視点や判断が存在したなら」という想像から、
物語を構成しています。
八甲田山雪中行軍遭難事件は、
1902年(明治35年)に実際に起きた出来事であり、
多くの方々が厳しい自然の中で命を落としました。
本作は、その史実を軽んじる意図はなく、
当時亡くなられた方々への追悼の意を込めて執筆しています。
次話以降は、物語としての展開を中心に進んでいきます。
引き続きお付き合いいただけましたら幸いです。




