第1話 魅惑の丸パン
リリアは地図を片手に迷っていた。
「この辺りのはずなんだけど……」
今日は配達の量が多かった。肩から下げた大きな布袋はほとんど空っぽだが、最後の一通の宛先の場所がどうにも見つからない。
肩までの麦わら色の髪を耳にかけ、もう一度地図を見つめ直す。
リリアがこの町で郵便配達の仕事を初めて半月ほど経つ。地図とにらめっこしながら歩くのには少し慣れてきたものの、手紙の宛先と照らし合わせていくのはなかなか難しい。
特に商店の並ぶ大通りから外れた細い道には、まだまだ知らない道もたくさんあった。
気づけばもう日が暮れかけている。
順調に行けば、もっと早くに終わる仕事のはずなのだ。しかし、リリアが配達先の御婦人の話し相手になったり、誰かが落としたりんごを拾う手伝いをしたり、あちこちで頼みを聞いているうちに、こんな時間になってしまうのだった。
「お腹すいた……」
慌ただしくしているうちに、昼ごはんを食べ損ねてしまった。落としたりんごを拾う手伝いをした時にもらったのを、一つ食べたきりだ。
――パンが食べたいなぁ。
リリアはパンが大好きだ。パンの匂いだけで元気になれるし、パンさえあれば生きていけると思っている。
孤児院を出てから、リリアは優しい老夫婦の営むパン屋で働いていた。
ところがご主人が腰を悪くしたことをきっかけに、店を畳みたいと相談されたのだ。元気なうちに夫婦で旅行に出たいと言う二人を、リリアは快く送り出した。
そして、ちょうどよく募集の出ていたこの町での仕事に惹かれ、心機一転、越してきたのだった。
以前住んでいたところより小さい町だが、ほどよく栄えているのに自然が多い。何より町全体の雰囲気があたたかくて、リリアはすぐにこの町が好きになった。
下宿先である靴屋のシューマン夫妻も親切で、嫁いだ娘さんの部屋を借りているのだが、まるで本当の娘のように接してくれてうれしい。
あとは、お気に入りのパン屋さんが見つけられたら言うことはないのだけど。そんなことを考えていたら、リリアのお腹からくぅと寂し気な音がした。
そのとき。
ふわりと鼻腔をくすぐったのは、香ばしい、そしてどこか甘い匂い。
この細い道の奥から漂ってくるようだ。リリアはまるで吸い寄せられるように、小道を奥へ進んで行った。
たどり着いた先は、クリーム色の壁にくすんだ青みの緑の窓枠の、かわいらしい建物の前だった。"くまのパン屋"という看板が出ている。ガラス窓の向こうからは、花瓶に生けられた花がのぞいていた。
開店中の札のかかった木の扉の向こうからは先程より濃厚な香りが漂ってきて、朝から歩き通しだったリリアにとってはたまらなかった。
ふらふらとドアに近づき、ノブに手をかける。
カラン、と軽やかにドアベルが鳴った。
途端に体を包んだパンの香りを、リリアは思い切り吸い込んだ。
温もりを感じる店内には誰もいない。奥の方のカウンターには、空の籠が重ねて置かれているのが見えた。
入り口付近の壁には花の絵が飾られ、その下に置かれた椅子には、なぜか大きなくまのぬいぐるみがぽてっと座っている。そのつぶらな瞳に癒され、リリアは思わず笑みをこぼした。
ふと人の気配を感じて振り返ったリリアは、悲鳴をあげそうになるのを、口を押さえてなんとか止めた。
店の奥から、大きな人影がぬっと現れたのだ。
目元が隠れるほど伸びたこげ茶色の髪と、もじゃもじゃの髭。全体的に茶色っぽくて、だぶっとした格好をしている、おそらく男性。
その人物はリリアの方に顔を向けると、ぴたりと動きを止めた。
数秒の間。
「すみません、今日はもう閉店で……ああ、入り口の札を替え忘れたかな」
想像したよりも優し気な声に少しほっとして、リリアは口から手を離した。
「ごめんなさい、よく見ていませんでした。あんまり美味しそうな匂いがして、つい……」
「ああ、今、試作していたところで」
「パン! ですよね?」
この場に満ちる匂いから頭に膨らんだ想像に、リリアの目はキラキラと輝く。
男性は少し首を傾げた。大きな男の人にしては、可愛らしい仕草だとリリアは思った。
「パンが好きなの?」
返事の代わりに、リリアのお腹からぐぅと情けない音が鳴った。顔を赤らめたリリアに、彼は少し笑ったようだった。
「ちょっと待ってて」
そう言って奥に引っ込んだと思うと、すぐに戻ってきて、紙に包まれた丸いパンを差し出してくれた。
「よかったら、どうぞ」
その優しさと、大好きなパンへの興奮で心を震わせながら、リリアは丁寧に受けとった。喉がごくりと鳴る。
「すみません、ありがとうございます! いただきます!」
顔を近づけると、とても香ばしい匂いがする。まだ暖かいそれを一口食べると、幸せの味が広がった。
「……!」
サクリと噛むと、口の中でプチプチとケシの実が弾けた。鼻に抜ける小麦の香りと、ふわっとした食感。そして感じる自然な甘みに、リリアは目を輝かせた。感動のあまり目が潤む。
「すごくおいしいです!」
「それはよかった」
彼が微笑んだような気がして、リリアも笑った。見た目はちょっと怖いけれど、どうやら優しい人のようだ。
「こんなに素敵なパン屋さんに出会えるなんて、きっと精霊さんのおかげですね!」
この町では昔から、精霊の存在が信じられてきたらしい。
例えば、たまたま寄ってみた場所で会いたかった人と出会ったときや、ずっと探していた大切な物が見つかったときなど。何か良いことが起きた時に、「それは精霊のおかげだね」と言うのだそうだ。
リリアはその素敵な表現が好きだった。
「……そうかも知れないね」
男性がそう言ったとき、リリアは仕事を思い出した。肩から下げた布袋を探り、手紙を取り出す。
「もしかして、バナード・ミュラーさんですか?」
「そうです」
「遅くなってすみません、お手紙です」
「あ、どうも」
バナードは受け取った手紙の宛名を確認すると、そのままエプロンのポケットにしまった。
無事配達が済んだことに安堵して、リリアは微笑んだ。
「私、郵便配達をしてます、リリア・クラインといいます」
「パン屋のバナード・ミュラーです」
バナードと名乗った男性が穏やかに返した。
「精霊さんのおかげで、無事配達できてよかったです。あの、さっきのパンはおいくらですか?」
「ああ、試作だし、いらないよ」
「そういうわけにはいきません」
リリアが眉を下げると、バナードは少し考えて言った。
「じゃあ、また今度来て欲しいな」
「わかりました。次は絶対買いに来ますね」
リリアが拳を握って言うと、バナードは笑ったようだった。
「待ってるよ」
思いがけず見つかった「お気に入りのパン屋さん」を出て、リリアはほくほくした気分で歩き出した。