王都の騎士と手紙
エディークが王都に戻っていた間の話です。
王宮城壁内の一画に、王国軍の騎士たちが集う場所がいくつかある。その中でもっとも賑やかなのが、騎士用兵舎に併設されている食堂だ。
騎士たちの約半分は、貴族領主の一族の出身。
華やかな贅沢までいかなくても、少なくともそれなりに裕福な生活を知っている。そんな貴族階級の若者たちの舌と胃袋を満足させるために、最も重要視されている施設が食堂と言われている。
食事はもちろん、金を出せば格安で浴びるほど酒を飲むことができる。非番の日、王都の歓楽街に繰り出す者ももちろんいるが、ここで飲み食いするだけで満足する若い騎士は多い。
マイズ・デラウェスも、この食堂を好んで活用する一人だ。
しかし、今夜のマイズはいつもの陽気さがない。なんとも不機嫌そうな顔で、腕組みしている。
もう長く食堂のテーブルの一つに陣取っているが、テーブルの上にあるのは水だけ。それも、コップの半分ほどからほとんど減っていない。
食事が目的でもなかったようで、テーブルの上に料理の皿はない。
騎士たちの憩いの場として利用される施設だから、そんな騎士は他にもいる。食事の延長で賑やかに談笑している騎士もいるし、静かに読書に耽る騎士もいる。
マイズの場合、テーブルの上にあるのは手紙だ。
封を切って広げている便箋には、三歳年下の妹が書いた、少し可愛らしい文字が並んでいる。
しかしマイズが見ているのは、今はその便箋ではない。マイズ宛の手紙と共に同封されていた、もう一通の手紙だった。
「お、デラウェスじゃないか。難しい顔をして、どうしたんだ?」
気安くかけてきた声に、マイズは無言で顔を上げた。
上官のビルムズ部隊長だ。
騎士たちは家名で呼び合うのが一般的で、マイズは「デラウェス」とか「デラウェス家の三番目」と呼ばれている。上官の部隊長は「ビルムズ家の四番目」。家の継承とは遠いために騎士となった四男である。
そのビルムズ部隊長は、王都の歓楽街でたっぷりと飲んで来た後のようだ。酒と白粉の匂いがする。ほんのりと赤くなった顔はご機嫌そのものだ。
しかしマイズの顔を見て、一瞬で酔いがさめたらしい。近寄りかけていた足を止め、それからごくりと唾を飲んでから咳払いをした。
「あー、デラウェス君、少し落ち着こうか。俺は犯罪者でも、敵でもないからな?」
「当たり前です。犯罪者ならとっくに殴り倒しているし、敵なら切り捨てている」
「……お前、怖すぎるぞ」
若い部下の言葉に、ビルムズ部隊長は苦笑する。
何事かと振り返っていた周囲の騎士たちも、思わず顔を見合わせた。
「いくらデラウェス家は血の気が多いと言っても、限度があると思うぞ。噂に聞いていた以上じゃないか!」
「失礼な。俺はこれでも温厚派です」
周囲の声に向けてマイズが応じた途端、周囲が一斉にざわついて笑いが起こった。
しかし、ビルムズ部隊長は笑わない。特に驚いた顔もしない。
実はこの男、半年ほど前にデラウェス家に乗り込んだことがある。部下の帰省にこっそりついて行ったのだ。
だからビルムズ部隊長は「温厚派ではないデラウェスの人間」というものを目にしている。
あわよくば末の令嬢の婿に収まりたい、という邪な目的を見透かされたためか、腕にはそれなりに自信があったのに、清々しいほど徹底的に叩きのめされた。
あの気性の荒いデラウェス家の次男に比べれば、マイズ・デラウェスは理性的で抑えが効いているし、次期当主の冷たい目や底知れなさに比べれば、陽気で素直な部下はかわいいものだ。
軽く肩をそびやかした部隊長は、気を取り直してマイズのテーブルへと近寄る。
無造作に置いている手紙に気付くと、手紙の内容を見ない程度の距離を保ちつつ、でも興味を隠さずに伸び上がるように覗き込んだ。
「お前の家から手紙が来たと聞いていたが、何かよくない知らせだったのか?」
「いいえ、極めて平和な手紙でした」
「それにしては、お前の表情が物騒すぎるんだが。……ん? もしかして、もう一通もアデリア嬢からの手紙か? もしかして、俺宛ての手紙だったとか?!」
「……失礼ですが、なぜ部隊長殿に妹が手紙を書くと思ったんですか? しかし、そうだった方がまだましだったな」
マイズはまだ封をしたままの手紙を見やり、深いため息をついた。
その表情だけで、ビルムズ部隊長は何かを察したようだ。どこか可愛らしい送り主の署名を眺め、眉を動かしながら頭をがしがしとかいた。
「つまり……カルバン殿宛、ということか?」
マイズは答えない。
しかし、その渋い表情こそが答えだろう。
ビルムズ部隊長は周囲を見回した。
「こちらに向かっているのを見たから、あの人はもうすぐ来ると思うぞ。……ああ、来たようだな。そんなに気が進まないなら、可愛い部下の代わりに俺がカルバン殿に手渡してやろう!」
「お心遣いには感謝しますが、妹に託されたのは俺です」
マイズは立ち上がった。王国軍の騎士たちの中でも目立って背が高いマイズは、開封に使ってそのままテーブルに刺していた短剣を抜き取った。
抜き身の短剣を握った姿に、周囲の騎士たちが一瞬静まり返る。
周囲の好奇心と期待のこもった視線を無視して、マイズは淡々と短剣を鞘に収める。それから、テーブルに置いていた便箋をたたみ直して、丁寧にポケットにしまった。
もう一通の手紙は、小さくため息をついてから手に取った。
食堂の出入り口付近に目を向けると、ちょうど明るい金髪の騎士が入ってきたところだった。顔の右側は幅広の眼帯で隠れている。
マイズはもう一度ため息をつき、それから手を軽く上げた。
「カルバン殿。よかったら、こちらへどうぞ!」
金髪の騎士はマイズに声をかけられて意外そうな顔をしたが、ゆっくりと向きを変えた。
マイズのいるテーブルにやってきた騎士は、足を僅かに引きずっていた。その歩き方は、ここに集まる騎士の中では異質だ。
とはいえ、エディーク・カルバンを役立たずと侮る人間はいないだろう。無造作に垂らした右手が、いつでも剣を抜ける位置にあると気付かないわけがないから。
体の動きは全体的に硬い。一度は騎士から退く原因となった戦場での負傷の後遺症だ。それでも剣を抜けば剣先はぴたりと定まり、隻眼であるはずなのに正確な剣捌きを見せる。
だが、この隻眼の騎士が王国軍内で一目も二目も置かれているのは、そういう剣技のためだけではない。
上級騎士隊長としての経験と、積み重ねられてきた信頼は誰にも真似できないものがあり、国王とも個人的に親しいとも言われている。
「カルバン家の三番目」として知られる金髪の騎士は、マイズの向かいに座る。同行していた副官が麦酒と簡単な料理を運んできたが、マイズの表情から察するものがあったのか、酒と料理だけを置いて離れていった。
副官が別のテーブルに座ったのを見ていたマイズは、自分も座り直しながらこっそりとため息をつく。それから、手にしていた未開封の手紙を差し出した。
「カルバン殿宛の手紙を預かっています。……いつもの、俺の妹からの手紙です」
麦酒に口をつけようとしていた金髪の騎士が、ふと手を止めた。
すぐに容器をテーブルに置き、青い左目が差し出された手紙を見つめる。いつも皮肉げな笑みを刻んでいる口元に、柔らかな微笑みが浮かんだ。
王国軍の騎士の中では珍しいくらいに穏やかな表情だ。だが、マイズは驚くことはない。デラウェスに帰省した時に、妹の傍らでよく見かけていた表情だったから。
「あの方は……お嬢様はお元気なのだろうか」
「俺への手紙を読む限りは、十分に元気なようですよ」
「そうですか」
つぶやく声は、とても優しげだった。手紙を受け取る手つきも、国王からの勅書を受け取るかのように恭しい。
丁寧に書かれた宛名を見つめ、それから封を切った。
便箋を広げても、すぐに読む様子はない。まるで文字そのものを堪能するように全体を眺め、それから改めて微笑んだ。
一文字一文字を堪能するように読み始めると、顔の表情はさらに柔らかくなる。若い騎士たちを圧倒する剣技を見せる騎士と同一人物とは思えないほどだ。
それとなく見ていた騎士たちは、わずかに騒めいた。
「おいおい、なんだあれは。鬼と言われたカルバン殿が、また腑抜けた顔になっているぞ」
「デラウェスの妹からの手紙なのだろう? あの緩んだ顔を見ろよ。どこまで落ちぶれたのやら。情けないな」
「若いだけの小娘にうつつを抜かすとは、カルバン殿も男だったのだな!」
「不能でない証だ。いいことじゃないか!」
そんな笑い声も、どこからともなく聞こえる。
しかし全て聞こえているだろうに、エディーク・カルバンは全く気にしていない。むしろ、妹への嘲笑を感じたマイズが苛立っている。舌打ちしながら周囲を睨みつける。
マイズの気性をよく知る上官ビルムズだけは、水を啜りながら「あいつは狂犬ではないが、温和でもないんだ。ほどほどにしておいてくれよ」とぼやいている。
周囲の異様な空気をものともせずに手紙を読み終え、金髪の騎士は名残惜しげにもう一度読み直してから丁寧に便箋をたたんだ。
「確かに、お嬢様はお元気そうだな」
微笑む顔は穏やかで、現役の騎士にはふさわしくない。
手紙といっても、いつも通りならただの簡単な近況報告でしかないはずだ。一度見たことがあるが、特にアデリア自身のことが書かれているわけではない。
だから、マイズは思わず口を挟んだ。
「カルバン殿はそう言うが、それには特に何も書かれていないのではありませんか?」
「それで十分だ。あの方がいつも通りのことを、丁寧に書き綴っている。それだけでお元気であることが伝わる」
エディーク・カルバンは手紙を大切な宝物のように丁寧に扱う。
遠いデラウェスの地に想いを馳せるように目を伏せ、それからゆっくりと立ち上がった。
「……だが、私が世話になったご令嬢に対して言葉が過ぎるのは、どうにもいただけないな」
その声は静かだった。
だが、ビルムズ部隊長は水の入ったコップを手にしたまま、仰け反るように体を動かす。マイズも目を丸くしながら、かつて故郷の屋敷で司書を務めていた男を見上げた。
薄笑いしながら「若いだけの小娘」と言ってしまった男は、エディークの青く冷たい目に一瞬呑まれてしまう。それを恥じるように、ことさら太々しい顔を作った。
「なんだ、カルバン殿はその体で俺とやり合うつもりか?」
「貴殿がご令嬢の名を貶めようとするなら、我が身に鞭打ってお相手しよう。……ただし、今の私は剣を止める筋力を失っている。命を懸けてもらう覚悟が必要だろうな」
エディークの声は静かで、口元には微かな笑みがある。なのに、目は氷のように冷たい。
牙を抜かれたとか、覇気を失ったとか、そんな陰口を叩かれていた人物には見えない。負傷で多くのものを失っても、なおも圧倒的な剣技を保った歴戦の騎士そのものだ。
普段は理性的な男の明確な殺意に、周囲は完全に威圧されてしまう。
その空気を変えるように、大袈裟なため息が割り込んだ。
「カルバン殿。妹を侮辱した奴は、俺が相手をします。手出しはしないでください」
そう言いながら、マイズは勢いよく立ち上がる。
エディークの目が逸れると同時に周囲に満ちていた殺気が消え、硬直していた男たちはやっと息を吐く。
マイズに目を移した隻眼の騎士には、最前線から退いた穏やかさが戻っていた。
そのことに密かにほっとするが、マイズはそれを隠して、周囲を見回しながら堂々と胸を張った。
「皆にも言っておきますよ。妹について何か言いたい奴は、俺に勝ってからにしてください。ああ、俺はカルバン殿と違って体力が余っているから、いつでも受け付けますので!」
にっ、と笑う顔は人懐っこい。
恐ろしく好戦的だが、騎士ならばそういうものだ。かえって安心できるせいか、男たちは何となく笑った。
騎士たちが集う食堂に、いつも通りの空気が戻る。
しかし、それは表面だけのこと。
すでに引退した男とみなしてきた相手が、今も侮ることができないと思い知らされ、騎士たちは密かに動揺を隠し合っている。
そんな中で、ビルムズ部隊長だけは、意外に配慮ができる若い部下の見事な場の収め方に、改めて満足していた。
番外編『令嬢からの手紙』 (終)