第8話 なんでお前がついてくる
虎は、楼閣の一階の広間で眠っていた。
ロウの兵が十人がかりで、網ごと戸板に載せて運んだのだ。戸を外した広間の床いっぱいに、黄金と黒の縞が横たわっていた。藁の上に、四つの足を投げだしていた。
息が、浅かった。
太ももの傷のまわりの毛は、まだ黒ずんでいた。ときどき、体がぴくりと震えた。そのたびに、シュリンは虎の耳に手を置いた。
婚礼の夜が明けて、もう昼を過ぎていた。
砦の医者は、朝のうちに来て、虎を見て、首を振って帰っていった。人の医者に、虎の毒は分からなかった。
戸口から、ロウが入ってきた。膝から下が、泥だらけだった。夜通し、馬を走らせてきた顔だった。
「姫さま。連れてまいりました」
ロウの後ろから、男が一人、首をすくめて入ってきた。
日に焼けた、がっしりした男だった。腰に山刀。手に握った綱の先で、茶色の犬が、広間の虎を見るなり尾を腹の下に巻きこんだ。
シュリンは、その顔を知っていた。
川べりの藪で、弩を向けてきた猟師だった。
「……あんたか」
「これ、口を慎まぬか」
ロウが、低くたしなめた。
「ゴウの兵に毒を売ったのは、この男でございます。どこの誰かは、バイ殿が覚えておりました。三つ向こうの谷の、炭焼き小屋だと」
「小屋は、もぬけの殻でございました。犬の声をたどって、明け方、尾根の岩屋で見つけました」
「逃げるだろ、ふつう。将軍さまが縄にかかったって聞きゃあ、毒を売ったやつも、ただじゃすまねえ」
猟師は、床の虎を見て、顔をしかめた。
「……ひでえな。だいぶ回ってる」
腰の袋から、小さな壺を出した。黒い膏薬が、底のほうに少しだけ残っていた。
「毒消しは、これだけだ。人なら、ひと晩で足りる量だよ。けど、こいつは、人の何倍もでけえ」
「足りないの?」
「分からねえ。虎に使ったことなんか、ねえからな」
シュリンは、虎の頭を膝に抱えて、両手で耳を押さえた。
猟師が、膏薬を指ですくって、太ももの傷に塗りこんだ。
虎が、眠ったまま、低くうなった。
「レツ。大丈夫。大丈夫だから」
猟師は、残りを湯に溶いた。シュリンが、虎の口の端から、少しずつ流しこんだ。
虎の喉が、ごくりと動いた。
猟師は、指をぬぐって、ため息をついた。
「あとは、こいつの体しだいだ。熊に使ったときは、三日で起きた。……起きなかった熊も、いる」
シュリンは、虎の耳から手を離さなかった。
「虎の首は、二十両だったんだがなあ」
「その毒消しは、いくら?」
シュリンは、猟師の目を見た。
猟師は、口を開きかけた。それから、閉じた。
空になった壺を、シュリンの膝の横に、ことりと置いた。
「……ただでいい」
「どうして?」
「あんたに、撃つならわたしごと撃ちなさいって言われたのがよ。毎晩、夢に出るんだよ。……寝覚めが悪くて、かなわねえ」
ロウが、咳ばらいをした。
「毒消しの代わりに、毒売りの件は、不問といたす。二度と、軍に毒は売るな」
「へ、へい」
猟師は、犬を引っぱって、逃げるように出ていった。
虎の耳が、シュリンの手のひらの下で、ぴくりと動いた。
それきり、動かなかった。
*
その夜も、虎は戻らなかった。
次の日も、昼を過ぎ、夕方になった。
二晩めの夜が、更けていった。
シュリンは、藁の上の虎の横に座って、片手を虎の耳に置いていた。いつのまにか、壁にもたれて、まぶたが落ちていた。
*
「……耳は、やめろ」
声がした。
低くて、かすれた声だった。
シュリンは、目を開けた。
窓の外が、白みはじめていた。
手のひらの下に、毛並みがなかった。
かわりに、人の耳があった。
藁の上に、無精ひげの男が寝ていた。洗いたての木綿の衣を着せられていた。顔色は悪かったが、目は開いていた。
男は、自分の耳をつかんでいるシュリンの手を、横目でにらんでいた。
「くすぐってえって、言ってんだろ」
シュリンは、手を見下ろした。
それから、ゆっくりと、手を離した。
「……戻ってきたから、やめてあげる」
レツは、天井を見上げて、長い息を吐いた。
「……どれくらい、寝てた」
「二晩」
「……そうか」
レツは、自分の手を持ちあげた。人の手だった。握って、ひらいた。
それから、着ている衣を見下ろした。
「……これ、誰が着せた」
「ロウが。スイは、目をつぶって手伝ったって」
「……あのちびが」
レツは、片手で顔を覆った。
シュリンは、何も言わずに、それを見ていた。
言いたいことが、たくさんあった。
ひとつも、出てこなかった。
口を開いた。閉じた。膝の上で、手を握った。
この人も、こんなふうだったのかもしれない、と思った。九年前の、夜の奥庭で。
やっと出てきたのは、短い言葉だった。
「……おかえりなさい」
レツの手が、顔から下りた。
少しのあいだ、黙っていた。
それから、天井の梁を見上げたまま、言った。
「……ただいま」
窓の外で、鳥が鳴いた。
「……冠、外したんだってな」
レツが、そむけた顔のまま言った。
シュリンの頬が、熱くなった。
「……聞こえてたの?」
「耳はいいんだよ。ちょっとだけ、虎だからな」
レツは、鼻を鳴らした。
「……食うかよ」
シュリンは、帯の小袋から、金のかんざしを一本取りだした。婚礼の夜、虎の鼻先に差しだした、あの一本だった。
「前金の、残り」
レツの手に、押しつけた。
「これで、二本よ」
レツは、部屋の隅を見た。
裂けた赤い布が畳んであった。裏返しの、鳳凰の上衣だった。その上に、金のかんざしが一本、載っていた。焼けた砦で、レツが拾って懐にしまっていた一本だった。
「広場に落ちてたから、拾っておいたの」
レツは、よろよろと身を起こした。部屋の隅まで這っていって、布の上のかんざしを取った。
二本を、手のひらに並べた。
「……確かに、二本」
レツは、ふっと笑った。
「峠からここまで、長え前金だったな」
「二本って言ったのは、あなたよ」
「言ったな」
レツは、二本のかんざしを、衣の懐の奥にしまった。
それから、ばたりと藁の上に倒れこんだ。
「……腹へった」
「饅頭、もらってきてあげる」
「でかいのな。三つ」
*
広場には、もう篝火の跡しか残っていなかった。
城壁の上の黒い旗は、すべて下ろされていた。門のそばには、セイランの兵たちが立っていた。槍を持つ手つきが、どこか誇らしげだった。
牢から引きだされたゴウが、縄を打たれて、広場に座らされていた。あすの朝の出立に向けた、支度だった。頬に、浅い傷の跡があった。目は、相変わらず静かだった。
その前に、バイが立っていた。腰に、新しい剣を帯びていた。胸もとに、黒い札が下がっていた。ゴウの懐から取りもどした、副将の札だった。
「西の都の陛下は、閣下に、セイランを攻めよとは命じられた」
バイは、シュリンとレツに向かって言った。
「けれど、花嫁を娶って、この地の王になれとは、命じておられぬ。閣下は、勝手をなさった」
ゴウは、何も言わなかった。
「ゆうべ、閣下の部隊の長たちを集めて、ありのままを話した。閣下を奪い返して、ここで戦うか。都の陛下の裁きを待つか」
バイは、縄を打たれたゴウを見下ろした。
「長たちは、待つほうを選んだ。陛下の兵を、陛下に背いた将のために死なせたい者は、いなかった。兵は、谷の陣で沙汰を待つ。わたしが、閣下を都へお送りする。陛下の沙汰が下るまで、この砦は、ロウ殿にお預けする」
バイは、レツを見た。
「剣は、返さなくていい。……あれは、もう、お前の剣だ」
レツは、腰の剣に手をやった。それから、肩をすくめた。
「いい剣だぜ。手入れしとく」
シュリンは、一歩、前に出た。
「わたしも、都へ行くわ」
広場が、静かになった。
「皇帝に会って、セイランの民のことを、話してくるわ。ゴウが勝手をしたのなら、セイランの民は、これからどうなるのか。誰が、この地を治めるのか。……王の娘が、話しに行かないで、誰が行くの?」
シュリンは、ロウを見た。
「ロウ。わたしが帰るまで、セイランの兵を預かって」
ロウは、しばらく口をきけずにいた。
それから、その場に、両膝をついた。
「……この命に、代えましても」
「命はいらないわ。帰ったとき、ちゃんと生きていて」
ロウは、顔を伏せたまま、何度もうなずいた。
護送の隊は、バイの手勢が固めた。そこへ、ロウが自分の隊からセイランの兵を二十人選んで、加えた。
広場の端で、スイが、腕を組んでこちらを見ていた。
「スイ。あなたは?」
「あたしは、ここに残る。このじいさんの下で、給金もらって働く」
スイは、ロウを顎でしゃくった。
「鞭は、なしでね」
「わしは、鞭など持っておらぬ」
「なら、いい」
スイは、ぷいと横を向いた。それから、シュリンのほうは見ずに、言った。
「……都で、ゴウみたいなのに嫁がされそうになったら、また値切りなよ。あんた、それだけは上手いんだから」
シュリンは、少しだけ笑った。
レツは、少し離れたところで、それを見ていた。
それから、バイのそばへ行って、低い声で何か話していた。
シュリンには、切れ切れにしか聞こえなかった。
「……都の、書庫に……」
「……魔物の古い記録なら、ある、と聞く……」
「……呪いの……」
レツは、バイの肩をひとつ叩いて、戻ってきた。
シュリンの前で、足を止めた。
「じゃ、俺の仕事は、ここまでだな」
軽い声だった。
「雇い主は、もう国の姫さまだ。都へ行けば、偉いやつらに囲まれる。貴族さまには近づかねえ主義なんでね。……用心棒は、もういらねえだろ」
シュリンは、レツの顔を見た。
何も、言わなかった。
レツは、にやりと笑って、背を向けた。
「饅頭、三つ。忘れんなよ」
*
夜明け前の空は、まだ群青だった。
国境の砦の外の門に、ロウが立っていた。
門を出ようとした男が、足を止めた。
「……見送りなんか、いらねえぞ」
「見送りではございませぬ。門の番でございます」
ロウは、まっすぐに前を見たまま言った。
「レツ様」
「様はやめろ」
「……ゲン将軍の墓に、伝えておきます。レツは、生きておったと」
レツは、しばらく黙っていた。
それから、ぼりぼりと首すじをかいた。
「……三日分の礼も、言っといてくれ」
「はっ」
ロウは、深く頭を下げた。
レツは、門をくぐった。
西の道を、歩きだした。
肩に、弩。腰に、剣。新しい木綿の衣の上に、裂けたところを縫いあわせた、裏返しの赤い上衣をはおっていた。懐の奥で、二本のかんざしが、歩くたびに小さく触れあった。
足には、沓を両方、履いていた。スイが、どこかから見つけてきたものだった。
道は、なだらかに下っていた。左手に、谷。右手に、山。行く手の空の低いところに、星がまだ残っていた。
しばらく歩いたころだった。
後ろで、鈴の音がした。
ちりん、ちりん、と。
男は、振りかえらなかった。
鈴の音は、だんだん近づいてきた。小さな、軽い蹄の音が、それに混じった。
騾馬が、男のすぐ後ろまで来た。
そこで、騾馬は、ぶるると鼻を鳴らした。男の横に並ぶのを嫌がって、半歩うしろで、首を振った。
「こら。並びなさい」
騾馬の上から、娘の声がした。騾馬は、耳を伏せて、半歩うしろを歩きつづけた。
「……そいつ、虎の匂いが分かるんだよ」
「失礼な騾馬ね」
騾馬の背に、荷が二つ。その上に、旅装の娘が一人、横座りに乗っていた。
短い黒髪。切りそろえた前髪。野良着の上に、厚い外套。冠も、かんざしも、ついていなかった。
娘は、外套の下から、葉っぱの包みを出した。男の肩ごしに、差しだした。
「饅頭。三つ。でかいの」
男は、黙って包みを受けとった。
一つ取りだして、かじった。冷めていた。
しばらく、鈴の音と、足音と、饅頭をかじる音だけが続いた。
「……どこ行くんだ」
「西」
「護衛の隊と一緒に、行くんじゃなかったのか。バイの」
「遅いのよ、あの隊。ゴウを檻の車に乗せて、のろのろ行くんですって。都への街道は、あの宿場を通るの。先に宿場町へ行って、質屋さんで、かんざしを受けだして、そこで隊を待つの」
「……ロウは」
「言ってきたわ。泣かれたけど。用心棒が一緒なら、って送りだしてくれた。騾馬はスイが用意してくれたし、路銀はロウが蔵から出してくれた。……切った髪も、ロウに預けてきたわ。叔父上のお墓に、供えてもらうの」
男は、二つめの饅頭をかじった。
娘が、男の背中を見て、言った。
「……まだ、鳳凰が泣いてるわ」
「うるせえ」
男は、空を見上げた。
「……俺も、西だ」
「知ってるわ。都の書庫でしょう」
男の足が、止まった。
鈴が、一度だけ、ちりん、と鳴った。
「……聞こえてたのかよ」
「耳はいいのよ。ちょっとだけ、雇い主だから」
「なんだそりゃ」
「皇帝に会ったら、書庫に入れてもらえるよう、頼んでみるわ。ついでに」
娘は、前を向いたまま、さらりと言った。
男は、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。
三つめの饅頭を、口に押しこんだ。
それから、足を速めた。
ちりん、ちりん。鈴の音も、速くなった。
男は、立ちどまった。
鈴が、一度だけ、ちりん、と鳴って、止まった。
男は、また歩きだした。
鈴の音も、歩きだした。
山の端が、金色に染まりはじめた。
夜明けの光が、二人の背中を照らした。裏返しの赤い上衣と、騾馬の上の短い黒髪を。
男は、もう一度、立ちどまった。
横を向いた。
騾馬の上の娘は、前を向いたまま、すました顔をしていた。
男は、深く、深く、息を吐いた。
「……なんでお前がついてくる?」
娘は、ようやく、男のほうを向いた。
「雇い主だもの」
「もう用心棒はいらねえって、言ったろ」
「あなたは、言ったわ。わたしは、言ってない」
娘は、指を一本立てた。
「それに、焼けた砦で、あなた、言ったでしょう。近衛には戻らねえ。……用心棒なら、続けてやるって」
「……言ったか?」
「言ったわ」
男は、頭をがしがしとかいた。
「……前金は」
「次の前金は、質屋で受けだしてから払うわ」
「……三本めかよ」
娘は、声を立てて、笑った。
男は、それを横目で見た。
「……笑うんだな」
「笑うわよ」
娘は、まっすぐに男を見た。切りそろえた前髪の下の目が、朝日に光っていた。
「だから、今度は」
娘は、言った。
「見ないふりなんか、しないで」




