↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
虎と姫  作者: こ
PR
8/9

第8話 なんでお前がついてくる

 虎は、楼閣の一階の広間で眠っていた。


 ロウの兵が十人がかりで、網ごと戸板に載せて運んだのだ。戸を外した広間の床いっぱいに、黄金と黒の縞が横たわっていた。藁の上に、四つの足を投げだしていた。


 息が、浅かった。


 太ももの傷のまわりの毛は、まだ黒ずんでいた。ときどき、体がぴくりと震えた。そのたびに、シュリンは虎の耳に手を置いた。


 婚礼の夜が明けて、もう昼を過ぎていた。


 砦の医者は、朝のうちに来て、虎を見て、首を振って帰っていった。人の医者に、虎の毒は分からなかった。


 戸口から、ロウが入ってきた。膝から下が、泥だらけだった。夜通し、馬を走らせてきた顔だった。


「姫さま。連れてまいりました」


 ロウの後ろから、男が一人、首をすくめて入ってきた。


 日に焼けた、がっしりした男だった。腰に山刀。手に握った綱の先で、茶色の犬が、広間の虎を見るなり尾を腹の下に巻きこんだ。


 シュリンは、その顔を知っていた。


 川べりの藪で、弩を向けてきた猟師だった。


「……あんたか」


「これ、口を慎まぬか」


 ロウが、低くたしなめた。


「ゴウの兵に毒を売ったのは、この男でございます。どこの誰かは、バイ殿が覚えておりました。三つ向こうの谷の、炭焼き小屋だと」


「小屋は、もぬけの殻でございました。犬の声をたどって、明け方、尾根の岩屋で見つけました」


「逃げるだろ、ふつう。将軍さまが縄にかかったって聞きゃあ、毒を売ったやつも、ただじゃすまねえ」


 猟師は、床の虎を見て、顔をしかめた。


「……ひでえな。だいぶ回ってる」


 腰の袋から、小さな壺を出した。黒い膏薬が、底のほうに少しだけ残っていた。


「毒消しは、これだけだ。人なら、ひと晩で足りる量だよ。けど、こいつは、人の何倍もでけえ」


「足りないの?」


「分からねえ。虎に使ったことなんか、ねえからな」


 シュリンは、虎の頭を膝に抱えて、両手で耳を押さえた。


 猟師が、膏薬を指ですくって、太ももの傷に塗りこんだ。


 虎が、眠ったまま、低くうなった。


「レツ。大丈夫。大丈夫だから」


 猟師は、残りを湯に溶いた。シュリンが、虎の口の端から、少しずつ流しこんだ。


 虎の喉が、ごくりと動いた。


 猟師は、指をぬぐって、ため息をついた。


「あとは、こいつの体しだいだ。熊に使ったときは、三日で起きた。……起きなかった熊も、いる」


 シュリンは、虎の耳から手を離さなかった。


「虎の首は、二十両だったんだがなあ」


「その毒消しは、いくら?」


 シュリンは、猟師の目を見た。


 猟師は、口を開きかけた。それから、閉じた。


 空になった壺を、シュリンの膝の横に、ことりと置いた。


「……ただでいい」


「どうして?」


「あんたに、撃つならわたしごと撃ちなさいって言われたのがよ。毎晩、夢に出るんだよ。……寝覚めが悪くて、かなわねえ」


 ロウが、咳ばらいをした。


「毒消しの代わりに、毒売りの件は、不問といたす。二度と、軍に毒は売るな」


「へ、へい」


 猟師は、犬を引っぱって、逃げるように出ていった。


 虎の耳が、シュリンの手のひらの下で、ぴくりと動いた。


 それきり、動かなかった。




   *




 その夜も、虎は戻らなかった。


 次の日も、昼を過ぎ、夕方になった。


 二晩めの夜が、更けていった。


 シュリンは、藁の上の虎の横に座って、片手を虎の耳に置いていた。いつのまにか、壁にもたれて、まぶたが落ちていた。




   *




「……耳は、やめろ」


 声がした。


 低くて、かすれた声だった。


 シュリンは、目を開けた。


 窓の外が、白みはじめていた。


 手のひらの下に、毛並みがなかった。


 かわりに、人の耳があった。


 藁の上に、無精ひげの男が寝ていた。洗いたての木綿の衣を着せられていた。顔色は悪かったが、目は開いていた。


 男は、自分の耳をつかんでいるシュリンの手を、横目でにらんでいた。


「くすぐってえって、言ってんだろ」


 シュリンは、手を見下ろした。


 それから、ゆっくりと、手を離した。


「……戻ってきたから、やめてあげる」


 レツは、天井を見上げて、長い息を吐いた。


「……どれくらい、寝てた」


「二晩」


「……そうか」


 レツは、自分の手を持ちあげた。人の手だった。握って、ひらいた。


 それから、着ている衣を見下ろした。


「……これ、誰が着せた」


「ロウが。スイは、目をつぶって手伝ったって」


「……あのちびが」


 レツは、片手で顔を覆った。


 シュリンは、何も言わずに、それを見ていた。


 言いたいことが、たくさんあった。


 ひとつも、出てこなかった。


 口を開いた。閉じた。膝の上で、手を握った。


 この人も、こんなふうだったのかもしれない、と思った。九年前の、夜の奥庭で。


 やっと出てきたのは、短い言葉だった。


「……おかえりなさい」


 レツの手が、顔から下りた。


 少しのあいだ、黙っていた。


 それから、天井の梁を見上げたまま、言った。


「……ただいま」


 窓の外で、鳥が鳴いた。


「……冠、外したんだってな」


 レツが、そむけた顔のまま言った。


 シュリンの頬が、熱くなった。


「……聞こえてたの?」


「耳はいいんだよ。ちょっとだけ、虎だからな」


 レツは、鼻を鳴らした。


「……食うかよ」


 シュリンは、帯の小袋から、金のかんざしを一本取りだした。婚礼の夜、虎の鼻先に差しだした、あの一本だった。


「前金の、残り」


 レツの手に、押しつけた。


「これで、二本よ」


 レツは、部屋の隅を見た。


 裂けた赤い布が畳んであった。裏返しの、鳳凰の上衣だった。その上に、金のかんざしが一本、載っていた。焼けた砦で、レツが拾って懐にしまっていた一本だった。


「広場に落ちてたから、拾っておいたの」


 レツは、よろよろと身を起こした。部屋の隅まで這っていって、布の上のかんざしを取った。


 二本を、手のひらに並べた。


「……確かに、二本」


 レツは、ふっと笑った。


「峠からここまで、長え前金だったな」


「二本って言ったのは、あなたよ」


「言ったな」


 レツは、二本のかんざしを、衣の懐の奥にしまった。


 それから、ばたりと藁の上に倒れこんだ。


「……腹へった」


「饅頭、もらってきてあげる」


「でかいのな。三つ」




   *




 広場には、もう篝火の跡しか残っていなかった。


 城壁の上の黒い旗は、すべて下ろされていた。門のそばには、セイランの兵たちが立っていた。槍を持つ手つきが、どこか誇らしげだった。


 牢から引きだされたゴウが、縄を打たれて、広場に座らされていた。あすの朝の出立に向けた、支度だった。頬に、浅い傷の跡があった。目は、相変わらず静かだった。


 その前に、バイが立っていた。腰に、新しい剣を帯びていた。胸もとに、黒い札が下がっていた。ゴウの懐から取りもどした、副将の札だった。


「西の都の陛下は、閣下に、セイランを攻めよとは命じられた」


 バイは、シュリンとレツに向かって言った。


「けれど、花嫁を娶って、この地の王になれとは、命じておられぬ。閣下は、勝手をなさった」


 ゴウは、何も言わなかった。


「ゆうべ、閣下の部隊の長たちを集めて、ありのままを話した。閣下を奪い返して、ここで戦うか。都の陛下の裁きを待つか」


 バイは、縄を打たれたゴウを見下ろした。


「長たちは、待つほうを選んだ。陛下の兵を、陛下に背いた将のために死なせたい者は、いなかった。兵は、谷の陣で沙汰を待つ。わたしが、閣下を都へお送りする。陛下の沙汰が下るまで、この砦は、ロウ殿にお預けする」


 バイは、レツを見た。


「剣は、返さなくていい。……あれは、もう、お前の剣だ」


 レツは、腰の剣に手をやった。それから、肩をすくめた。


「いい剣だぜ。手入れしとく」


 シュリンは、一歩、前に出た。


「わたしも、都へ行くわ」


 広場が、静かになった。


「皇帝に会って、セイランの民のことを、話してくるわ。ゴウが勝手をしたのなら、セイランの民は、これからどうなるのか。誰が、この地を治めるのか。……王の娘が、話しに行かないで、誰が行くの?」


 シュリンは、ロウを見た。


「ロウ。わたしが帰るまで、セイランの兵を預かって」


 ロウは、しばらく口をきけずにいた。


 それから、その場に、両膝をついた。


「……この命に、代えましても」


「命はいらないわ。帰ったとき、ちゃんと生きていて」


 ロウは、顔を伏せたまま、何度もうなずいた。


 護送の隊は、バイの手勢が固めた。そこへ、ロウが自分の隊からセイランの兵を二十人選んで、加えた。


 広場の端で、スイが、腕を組んでこちらを見ていた。


「スイ。あなたは?」


「あたしは、ここに残る。このじいさんの下で、給金もらって働く」


 スイは、ロウを顎でしゃくった。


「鞭は、なしでね」


「わしは、鞭など持っておらぬ」


「なら、いい」


 スイは、ぷいと横を向いた。それから、シュリンのほうは見ずに、言った。


「……都で、ゴウみたいなのに嫁がされそうになったら、また値切りなよ。あんた、それだけは上手いんだから」


 シュリンは、少しだけ笑った。


 レツは、少し離れたところで、それを見ていた。


 それから、バイのそばへ行って、低い声で何か話していた。


 シュリンには、切れ切れにしか聞こえなかった。


「……都の、書庫に……」


「……魔物の古い記録なら、ある、と聞く……」


「……呪いの……」


 レツは、バイの肩をひとつ叩いて、戻ってきた。


 シュリンの前で、足を止めた。


「じゃ、俺の仕事は、ここまでだな」


 軽い声だった。


「雇い主は、もう国の姫さまだ。都へ行けば、偉いやつらに囲まれる。貴族さまには近づかねえ主義なんでね。……用心棒は、もういらねえだろ」


 シュリンは、レツの顔を見た。


 何も、言わなかった。


 レツは、にやりと笑って、背を向けた。


「饅頭、三つ。忘れんなよ」




   *




 夜明け前の空は、まだ群青だった。


 国境の砦の外の門に、ロウが立っていた。


 門を出ようとした男が、足を止めた。


「……見送りなんか、いらねえぞ」


「見送りではございませぬ。門の番でございます」


 ロウは、まっすぐに前を見たまま言った。


「レツ様」


「様はやめろ」


「……ゲン将軍の墓に、伝えておきます。レツは、生きておったと」


 レツは、しばらく黙っていた。


 それから、ぼりぼりと首すじをかいた。


「……三日分の礼も、言っといてくれ」


「はっ」


 ロウは、深く頭を下げた。


 レツは、門をくぐった。


 西の道を、歩きだした。


 肩に、弩。腰に、剣。新しい木綿の衣の上に、裂けたところを縫いあわせた、裏返しの赤い上衣をはおっていた。懐の奥で、二本のかんざしが、歩くたびに小さく触れあった。


 足には、沓を両方、履いていた。スイが、どこかから見つけてきたものだった。


 道は、なだらかに下っていた。左手に、谷。右手に、山。行く手の空の低いところに、星がまだ残っていた。


 しばらく歩いたころだった。


 後ろで、鈴の音がした。


 ちりん、ちりん、と。


 男は、振りかえらなかった。


 鈴の音は、だんだん近づいてきた。小さな、軽い蹄の音が、それに混じった。


 騾馬が、男のすぐ後ろまで来た。


 そこで、騾馬は、ぶるると鼻を鳴らした。男の横に並ぶのを嫌がって、半歩うしろで、首を振った。


「こら。並びなさい」


 騾馬の上から、娘の声がした。騾馬は、耳を伏せて、半歩うしろを歩きつづけた。


「……そいつ、虎の匂いが分かるんだよ」


「失礼な騾馬ね」


 騾馬の背に、荷が二つ。その上に、旅装の娘が一人、横座りに乗っていた。


 短い黒髪。切りそろえた前髪。野良着の上に、厚い外套。冠も、かんざしも、ついていなかった。


 娘は、外套の下から、葉っぱの包みを出した。男の肩ごしに、差しだした。


「饅頭。三つ。でかいの」


 男は、黙って包みを受けとった。


 一つ取りだして、かじった。冷めていた。


 しばらく、鈴の音と、足音と、饅頭をかじる音だけが続いた。


「……どこ行くんだ」


「西」


「護衛の隊と一緒に、行くんじゃなかったのか。バイの」


「遅いのよ、あの隊。ゴウを檻の車に乗せて、のろのろ行くんですって。都への街道は、あの宿場を通るの。先に宿場町へ行って、質屋さんで、かんざしを受けだして、そこで隊を待つの」


「……ロウは」


「言ってきたわ。泣かれたけど。用心棒が一緒なら、って送りだしてくれた。騾馬はスイが用意してくれたし、路銀はロウが蔵から出してくれた。……切った髪も、ロウに預けてきたわ。叔父上のお墓に、供えてもらうの」


 男は、二つめの饅頭をかじった。


 娘が、男の背中を見て、言った。


「……まだ、鳳凰が泣いてるわ」


「うるせえ」


 男は、空を見上げた。


「……俺も、西だ」


「知ってるわ。都の書庫でしょう」


 男の足が、止まった。


 鈴が、一度だけ、ちりん、と鳴った。


「……聞こえてたのかよ」


「耳はいいのよ。ちょっとだけ、雇い主だから」


「なんだそりゃ」


「皇帝に会ったら、書庫に入れてもらえるよう、頼んでみるわ。ついでに」


 娘は、前を向いたまま、さらりと言った。


 男は、何か言い返そうとして、口をつぐんだ。


 三つめの饅頭を、口に押しこんだ。


 それから、足を速めた。


 ちりん、ちりん。鈴の音も、速くなった。


 男は、立ちどまった。


 鈴が、一度だけ、ちりん、と鳴って、止まった。


 男は、また歩きだした。


 鈴の音も、歩きだした。


 山の端が、金色に染まりはじめた。


 夜明けの光が、二人の背中を照らした。裏返しの赤い上衣と、騾馬の上の短い黒髪を。


 男は、もう一度、立ちどまった。


 横を向いた。


 騾馬の上の娘は、前を向いたまま、すました顔をしていた。


 男は、深く、深く、息を吐いた。


「……なんでお前がついてくる?」


 娘は、ようやく、男のほうを向いた。


「雇い主だもの」


「もう用心棒はいらねえって、言ったろ」


「あなたは、言ったわ。わたしは、言ってない」


 娘は、指を一本立てた。


「それに、焼けた砦で、あなた、言ったでしょう。近衛には戻らねえ。……用心棒なら、続けてやるって」


「……言ったか?」


「言ったわ」


 男は、頭をがしがしとかいた。


「……前金は」


「次の前金は、質屋で受けだしてから払うわ」


「……三本めかよ」


 娘は、声を立てて、笑った。


 男は、それを横目で見た。


「……笑うんだな」


「笑うわよ」


 娘は、まっすぐに男を見た。切りそろえた前髪の下の目が、朝日に光っていた。


「だから、今度は」


 娘は、言った。


「見ないふりなんか、しないで」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。